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16話 『水中戦闘の訓練』



「アトラス、採ってきたよ」


 セボン神官の抱える壺の中には、溢れんばかりに水草が突っ込まれていた。


「いつも悪い、助かる」


 ひったくるようにして受け取ったアトラス医師は、小走りで階段を上って行った。


 そんな二人の様子を、俺はちょっと離れた場所から見ていた。


 イプシロンも隣にいるけど……チラリと目を向けてみると、やっぱりイプシロンはそっぽを向いている。


 ついさっき、セボン神官は浜辺で突然素っ裸になるという暴挙に及んだ。


 その際、イプシロンはセボン神官の一物を……まあ、目の当たりにしてしまったわけで、それ以来セボン神官と目を合わせようとしない。


「アハハ、お待たせしました。それでお話というのは?」


 セボン神官はイプシロンの様子に全く気付いていない。フレンドリーに話しかけてくる。


 そんなセボン神官のことが、俺は結構好きだったりする。


「セボン神官がさっきやっていたことについて、詳しく聞きたいなと思いまして」


「やっていたこと? よく分かりませんが、もちろんいいですよ! でも、アトラスから色々と言いつけられているので、あまり時間は――」


「あら、三人とも、ちょうど良い所に」


 見ると、さっきアトラス医師が上っていった螺旋階段を、マエノ医師が下りてきている。


「研究課にかけあってみたのですが、先ほどの件、目途が付いたそうですよ」


 のんびりと階段を下りたマエノ医師は、セボン神官の肩に手のひらを乗せた。


「これが使えそうです」


 

 ○○○



 セボン神官の『能力』は、洗浄能力のある体液を分泌することだ。


 分泌できる体液は多彩で、肌に優しい弱酸性から漂白剤に近いものまで何でもござれ。ただ、強酸や毒みたいな物を作ることはできないらしい。


 主婦には非常に魅力的な『能力』だと思うが……正直、俺は微妙な『能力』だと思っていた。



 ――



 俺とイプシロンはピチピチの黒い服を着ていた。


 目元より上と、手首と足首より先以外は、全て覆われている。

 

 この服は動物の膀胱を継ぎはぎしたものの表面に、防水効果のある樹液由来の黒染料を塗りたくって作られているらしい。


 ゴムのような伸縮性があって、身体にピッタリと吸い付くのが特徴だ。


「あまり気は乗りませんが……」


 イプシロンの声には嫌悪が滲んでいた。視線の先には、粘液のたっぷりと詰まった壺が置かれている。


 同じものが俺の前にも一つ。なみなみと注がれた粘液は、二つ合わせて百リットルを超えているだろう。


「気持ちは分かりますけれど、せっかくセボン神官が頑張って用意してくれたわけですし」


 言いながら、俺は壺の傍に膝をついた。仄かに爽やかな香りが漂ってくる。


 ……ゴクリと、唾を飲み込む。


 指先を壺の中に入れる。


「……その、どんな感じですか?」


「ほんのりと生暖かくて、気持ちいいです」


 イプシロンが一歩後ろに下がるのが見えた。


 俺はイプシロンには構わずに、指先に魔素を集めていた。


 指先から粘液へと、スムーズに魔素が浸透していく。


「ふぅ……」


 一度息を整えてから、俺は粘液の操作を開始した。


 指先から、手首。


 二の腕を経て、肩と脇が生暖かい感触に覆われる。


 そこまで来ると、重力に従って粘液が垂れてきた。


 ネットリとした感触が……胸と腹を舐めて、股間を濡らす。


「うえっ……」


 つい、口から漏れていた。


「だ、大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


 それだけ言って、俺は粘液の操作を続けた。


 最後に太腿を経て、粘液は足首までやって来た。


 重力に従ってさらに垂れようとするのを、魔素の力でその場に留める。


 続々と手先から吸い上げられる粘液は、黒服の中で徐々に水位を上げていく。


 ……首の辺りまで身体が浸かったところで、俺はイプシロンの方を向いた。


「慣れてみると、全然大丈夫ですよ。ほら、イプシロンも」


「……もう、分かりましたよ」


 堪忍したのか、イプシロンは壺の傍に腰を下ろした。



 ――



 粘液に魔素を浸透させる。


 それはまず、黒服の中を満たした。


 黒服の腰の辺りにはチューブが繋がっている。長さは百メルほどあるらしい。


 俺の魔素は、チューブの中にたっぷりと詰まった粘液に浸透していく。


 百メルの長さを辿るには、数秒の時間が必要だった。


 魔素がチューブの先端に到達すると……次に粘液の操作を開始する。


 粘液の表面を凹ませる。


 直径三センチほどの空気球が粘液の中に生まれた。


 それを繰り返す。


 ポコポコと生まれた空気球は、チューブの中を辿って続々と黒服の中までやってきた。


 空気球を鼻から吸い込んで、口から息を吐く。


 汚れた空気は邪魔にならないように、首の後ろ辺りから黒服の外に捨てる。


 空気球がやって来るたびに、同じことを繰り返す。


 最初のころは上手くできずに窒息しかけたが、しばらく練習すると慣れてきた。今では、それほど頑張らなくても息ができるようになっている。


 周りを見ると、すぐ近くに立っていた不審者と目が合った。その口元が膨らんでいく。


「アル聖官も慣れてきましたか?」


 俺も口元に空気を集めた。


「はい、だいぶ。まだ少し意識する必要がありますけど」


「そうですか……では、そろそろ海に入ってみませんか?」


 俺たちの五メートルほど先には、海が広がっている。


 ……海、か。


 魔物は海の中にいる。そいつを倒さない限り、サラは目覚めない。


「……そうですね、入ってみましょうか」


 イプシロンの提案に頷くと、早速イプシロンは海へ向かって歩きだした。俺に背中を向けていて、形のいいお尻が、その割れ目までハッキリ見えている。


 恥じらいは全く感じられない。


 初めの頃はもじもじしながら胸や下腹部を手で隠してたけど、二人で訓練をしてるうちに、いつの間にか堂々と行動するようになった。


 それを言うなら俺も同じだ。最初の頃はモッコリが気になってたけど、気付けばモッコリとかどうでもよくなっていた。


 これが酷くなったら、セボン神官のようになるのだろう。


 イプシロンは既に膝まで水に浸かっている。腰の辺りからチューブが浜に向かって伸びている。


 俺も急いで追いかけて……波打ち際までたどり着いた。


 そのままの勢いで足を踏み出そうとして――足が止まる。


 それ以上、一歩たりとも進むことができない。


 大丈夫だ。


 いけるはずだ。


 溺れる心配は無いんだから。


 俺が行かないと、サラはずっと眠ったままだぞ。


 ……いや、本当にそうか?


 俺がいなくても……イプシロンだけで何とかなるんじゃ?


 その考えが頭を過ぎった瞬間、俺の膝は折れた。


「……アル聖官?」


 浜辺で立ち止まっている俺の様子に、イプシロンは違和感を覚えたらしい。水を搔き分けながら引き返してくる。


「どうしました?」


「いえ、その……」


 イプシロンは俺の顔を見ると、腕を引っ掴んだ。


「いったん教会に戻りましょう」


 応えを待たずに自分と俺の腰からチューブを引っこ抜くと、イプシロンは俺の腕を引っ張った。


 砂浜の上を転げそうになるけれど、足は何とか付いていく。


 砂浜が街に変わる。


 道が太くなるにつれて、人通りが増えていく。


 道行く人たちは、俺たちの服装を見て唖然とする。子どもたちの目を、母親が覆っている。


 イプシロンに目を向けると、いつの間にか神官服を羽織っていた。俺も神官服を着ている。


 イプシロンが教会の扉を開いた。


 突然侵入してきた不審者に、さすがの医師たちも動きを止めている。その中にアトラス医師も混じっているのが見えた。


 階段を上って談話室に入ると、イプシロンは俺をソファーに座らせた。


 俺は……耳の先っぽまで赤くなっているイプシロンを見ながら、申し訳ない気持ちで呟いた。


「大丈夫ですか?」


「それは、私の台詞です!」


「僕は……もう、大丈夫です」


 イプシロンはソファーに埋もれる俺を見つめると、その対面に腰を下ろした。


「確かに今は落ち着いているようですが……いったい、何があったのですか?」



 ――



 俺は諸々の事情をイプシロンに話していた。


 トラウマのせいで水が怖いって話だ。


 俺の話をひと通り、真剣な顔で聞いていたイプシロンは……くすっと小さく笑った。


「あのフレイ聖官が子離れできていないなんて、意外ですね」


「……イプシロンは、フレイさんと付き合い長いんですか?」


「しばらく引退していたので、付き合い自体はあまり長くありませんが……初めて会ったのは十数年前だったと思います」


 俺はイプシロンの顔をマジマジと見つめた。


 見た目は十代後半に見えるけど……そうか。イプシロンは聖女様の分身らしいし、見た目通りの歳じゃないのか。


「どうしました?」


「いえ……ちなみに、昔のフレイさんって、どんな感じだったんですか?」


 イプシロンは小首を傾げると、苦笑を浮かべた。


「そうですね……一言で表すなら、戦闘狂でしょうか」


「戦闘狂?」


「はい。とにかく強い相手と戦うのが大好きで、そのような敵と戦えるようにと、わざわざ要望を出していたほどです」


 何というか……そんなフレイさんとは絶対に関わりたくないな。


「だから、意外でした。昔のフレイさんなら、赤ん坊を崖から突き落としそうだったのですが……人は変わるものですね」


 遠い目をしていたイプシロンは、細く息をついた。


「アル聖官の事情は分かりました。ひとまず私一人で、魔物に挑んでみます」



 ○○○



 翌日、イプシロンは一人で海底に潜っていった。


 そして、一刻経っても上がってくることはなかった。


 二刻後――教会談話室に戻っていた俺の元に、イプシロンが現れた。


「あっ、イプシロン! 大丈夫ですか!」


「大丈夫……と言っていいのか分かりませんが、今は大丈夫です」


 イプシロンは疲れた顔で言った。


 窓から海の方をチラリと見ると、渋面を浮かべている。


「結論から言うと、私一人の力では勝てそうにありません」


「そんなに、強かったんですか?」


「強さは……どうでしょう。陸上ならもう少し善戦できたと思うのですが、海中では歯が立ちませんでした」


 淡々とした口調で、イプシロンは続ける。


「魔物の見た目は鮫でした。おおよそ五メルほどでしょうか。巨大な鮫です」


 ……鮫。


 イプシロンは、身体を食べられて命を落としたのだろう。


 それは……どれほど苦しかっただろうか?


 イプシロンが苦しんでいる間、俺は何をしていた?


「私一人では倒せません。ですが、アル聖官と力を合わせれば充分勝算はあると思います。

 ……幸いにして、ここは医療の国です。アル聖官、一つ提案があるのですが……」


 イプシロンは少し言いづらそうに、上目遣いに俺のことを伺った。


「治してもらいませんか? アル聖官の病を」



 ○○○

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