14話 『深紅の番人 後編』
イプシロンの身体から染み出す血だまりに、サラの拳から滴る雫が波紋を作っている。
医院の周辺はそれほど乱れていない。所々石畳がめくれ上がっているが、それだけだ。
……動く暇を全く与えず、サラはイプシロンを殴り殺したんだろう。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
イプシロンを見下ろしていたサラは……ゆっくりと、視線を持ち上げる。
サラは笑っていた。ニッコリと、いつもと同じ表情を浮かべていた。
そこからは、どんな感情も読み取れない。
人を一人殺したことに対する罪悪感。敵を倒せたという達成感。そういったものは、どちらも滲んでいない。
サラは満面の笑みを浮かべたまま、こちらへ向かって駆け寄ってきた。
金縛りにでもあっているかように、それを見ていることしかできなかった。
サラは俺のすぐ目の前で足を止めた。ふわりと、柑橘と血の混じった香りが漂ってくる。
……吐きそうだ。
「一人でたおせたわよ! すごいでしょっ!」
サラが後方を指差した。イプシロンが血塗れで転がっているはずの場所。
そこには……誰もいない。イプシロンの身体と血だまりは、どこにも見当たらない。
……どういうことだ?
狐につままれたようなような気分で呆然と砕けた石畳を見つめていると、サラは小さく首を傾げた。
俺の視線の先を見て、サラも俺と同じように動きを止める。
しばらくして、サラが小さな声で「……やっぱり」と呟くのが聞こえた。
「アルっ、あれを見て!」
むすっとした表情を浮かべながら、イプシロンがいたはずの場所を力強く指し示す。
「ずっと、ヘンだとおもってたわ……」
「……変?」
「青い服の……しんかん? って人たちは、ワタシたちをだましてるの! あの人たち、ホントは魔物なの! ほら、消えちゃったでしょ!」
サラの頭の中では、そういう設定になっているらしい。
俺にも何が起こったのか分からないけど……今はそんなこと、どうでもいい。
サラは何の躊躇もなくイプシロンを殺した。このまま野放しにしていたら、次は医師たちを殺すのだろう。
「白服も、早くやっつけないと!」
俺が、サラを止める。
――
サラが降ってきた。
脳天をかち割ろうと、拳を握りしめている。
普通に回避していたら、間に合いそうにない。
筋肉に電気を流して、無理やりに身体を動かす。
筋繊維が僅かに焦げるのを感じた。
俺の眼前スレスレを、サラの身体が通過する。
どう考えても大きな隙なので、反撃をしたいところだが……残念ながら難しい。筋肉が焦げたせいで、スムーズに身体が動かない。
代わりに、損傷した筋肉、特に足へと魔素を集中させると、筋繊維が通常ではあり得ない速度で修復されていく。
最低限の修復が完了すると同時、後ろへ飛びのいた。
サラが石畳に着弾する。
次の瞬間、半径数メートルの地面が消滅した。
石畳の破片が、散弾銃のようにばら撒かれる。
普通の人間なら、一個でも当たれば致命傷だろう。けど俺にとって、これくらいなら問題ない。ちゃんと魔素で保護すれば……。
――サラが腕を振りかぶるのが見えた。
発射された石塊は、ソフトボールほどの大きさ。
慌てて頭部に最大量の魔素をかき集める。
他の破片をあっという間に追い抜いた石塊は――
「がッ……」
顔面に着弾した。
額のあたりに鈍痛がする。
よかった、死んでない。
少し遅れて、体中に石畳の破片が叩き込まれた。頭部に魔素を集めていたせいで、それ以外の場所は無防備。容赦なく、破片が身体に突き刺さる。
「やっぱり、アルはすごい! 全然きかないわね!」
砂埃の中から現れたサラが、嬉しそうな顔で言ってくる。
……全身血塗れの俺は、どうにか五体満足で立っていた。
太腿の石片を右手で引き抜くと、血が噴き出した。太腿から脛へと熱い液体が流れ落ちている。
……どうしよう。勝てる気がしないんだが。
サラはもっと素直な子だったはずだ。俺の知っているサラは、殴ることと蹴ることしか知らなかった。
そのはずなのに……父上を彷彿させるような、嫌らしいことばかりやってくる。
頭を守らせといて、本命で他の部分を攻撃するなんて、いったいどこで覚えたんだ? ……ひょっとして、これも魔物が寄生している影響か?
「じゃあ、つづきやるわよっ!」
サラはワクワクした様子で拳を構えた。
満身創痍の俺と違って、サラに目立つ傷はない。所々にかすり傷があるくらいだ。
その姿を見て確信する。
俺ではサラに勝てない。このままだと、数分後には殺されているだろう。
……逃げるか?
追いかけられたら終わりだけど、追いかけてこないかもしれない。
サラの目的は青服と白服を倒すことだから、俺よりも医師たちを優先してくれるかもしれない。
俺はマエノルキアの青い空を見上げた。
一際背の高い建物――教会が、青い空を貫いている。
ちょうどここから見える談話室の窓に、白色のツインテールが見えた。
「よそ見なんてしてたら、すぐ終わっちゃうわよ!」
サラが突進してくる。
どうやってこんな加速をしているのか理解不能だ。物理法則を完全に無視しているように見える。
俺は正面に右腕を突き出した。
その右腕に魔素を集めていく。
サラがニヤリと笑うのが見えた。
腰を落として、腕をかいくぐるかのように迫って来る。
俺はサラの動きを無視して、右腕に魔素を集め続けていた。
溢れた魔素が紫電となって、体表を舐めている。
そんな俺の様子を見て、サラは何かを直感したらしい。
急減速して、横に飛び退こうとしている。
――次の瞬間、俺の右手はサラの首を掴んでいた。
危険だけど手加減はしない。
サラのことだから、二度は通じないだろう。
これで決める。
「また、会おう」
声をかけると、サラはつまらなそうに唇を尖らせた。
眩い光が、サラの姿を包み込む。
○○○
サラを担いで教会に戻ると、入口のところにイプシロンが立っていた。
「どうして、生きてるんですか?」
一言目にそう言うと、イプシロンはパチパチと瞬きをした。
「殺されるつもりはなかったのですが、サラ聖官があれほどとは想定外でした。中央教会で生き返ると同時に急いで戻ってきましたが……間に合ってよかったです」
はにかむような笑みを浮かべながら、イプシロンは自分のお腹を撫でている。
「……イプシロンって、本当に人間ですか?」
「人間だと、一度も名乗っていないはずですよ。もちろん、私は人間ではありません」
――
俺とサラは聖官に任じられる際、青色のビー玉のような物を飲み込んだ。
イプシロンが言うには、あの瞬間に俺とサラは聖官になったらしい。そして、それと同時に聖官拘束が俺たちの身体を縛り付けた。
聖官拘束とは即ち――聖女様の『能力』の対象となることを意味する。
イプシロンに説明されて初めて知ったのだが、生物を『能力』の対象にすることは、よっぽどの実力差が無い限り難しいらしい。
言われてみたら確かにそうだ。
例えば俺の『能力』で考えてみたら、相手の体内に直接電気を発生させられるなら、どんな敵でも一瞬で倒せてしまう。もちろん、そんな都合のいい話はない。
でも、そんな都合のいい話が、聖女様と聖官の間には成り立っている。
「私の『能力』は他物転移です。通常は生物を転移させることはできません。けれど、聖官だけは例外です。聖官拘束の効果によって『能力』の対象にすることができます」
俺とイプシロンは中央教会にいた。
これからする話は機密だからと言われて、イプシロンに連れてこられた。
普通ならわざわざ中央教会まで来なくても、教会ですればいい話らしいけど……まあ、マエノルキア教会の中には医師がたくさんうろついてるからな。
黙って話を聞いていた俺は、そこで手を挙げた。
「どうぞ」
「聖官拘束の効果によって、聖官は聖女様の『能力』の対象になる、と言っていましたよね。どうしてイプシロンも聖官を対象にすることができるんですか?」
イプシロンは灰色の瞳で俺を見つめている。
「私、それからベータ、大聖石の間ではデルタを見ましたよね。姿形が似ているとは思いませんか?」
「……髪の毛や瞳の色が同じですね」
「私たちは姉妹なので、似ているのです。姉妹というのは便宜上の呼び方で……そうですね、分身と言った方がいいでしょうか」
イプシロンは自分の平たい胸に手のひらを当てていた。
「私たちは、聖女の分身です。本質は聖女と同じなので、聖女と同じように聖官を『能力』の対象とすることができるのです」
「……さっき言ってた、人間ではないっていうのは、そういうことだったんですね」
「ええ。あくまで分身です。なので殺されてしまっても、中央教会で生き返ることができます。……ただ、その瞬間の記憶は残るので、あまり経験したくはありませんけどね」
イプシロンは渋面を浮かべながら、お腹の辺りを撫でている。
……サラに殴られたのは、相当痛かったらしい。まあ、あれだけ空高く吹き飛ぶくらいだから、尋常じゃない衝撃だったはずだ。
「さて、聖官拘束について、まだ幾つか説明することがあります。本来は聖官に任じる前に全て説明しておくべきことなのですが……後で必ず、ベータに謝罪させますね」
「いえ、謝罪なんて」
「必ずさせます」
「あ……はい」
イプシロンの圧に押されて、俺は頷いていた。
イプシロンの説明によると、脳内に直接聖女様の命令が下ることも聖官拘束の効果なんだとか。
他にも、大まかな位置情報を知られてしまうとか、ちょっとだけ身体能力が上がるとかの効果もあるらしい。
合計で半刻ほどの説明を終えて、イプシロンはソファーから立ち上がった。
「謝罪に来るように、ずっと連絡しているのですが……来る気配がありませんね。申し訳ありませんが、また後日にさせてください」
「……分かりました」
俺もソファーから立ち上がる。
イプシロンは神官服を整えてから、部屋の扉を開けた。
「それでは、マエノルキアに戻りましょう。任務はまだ、終わっていませんからね」
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