07話 『遺体解剖 後編』
「やっぱり、特に何も見つかりませんねぇ。萎縮無し、壊死無し、異物無し、損傷無し。取りあえず……研究課に送る用の試料を取っておきましょうか」
言いながら、マエノ医師は数個に分割された脳の各部位から少量ずつを抉って、エルシアさんの差し出す小容器へと詰め込んでいった。
「はいっ、おしまい。私は奥でちょっと休んでくるから、エルシアは試料を研究課へと届けておいて」
低いテンションで告げると、マエノ医師は奥の部屋へと消えていった。
解剖室には、俺とエルシアさん、それから未だに目覚めないリッパー神官の三人だけが残された。
今はもう昼過ぎなのに、リッパー神官が目覚める気配はない。
さすがのマエノ医師も心配になってきたらしく、後でアトラス医師に診てもらうと言っていた。
このことに関して、俺にできることは何もない。あとは専門家に任せることにしよう。
そんなことよりも、サラを探さないといけない。
イプシロンには朝から捜索を続けてもらってるけど、俺も手伝わないとな――なんて思っていると、両手を後ろに組んだエルシアさんが、笑顔で近付いてきた。
「アルさんっ♪ ちょっとお話しませんか?」
やけに機嫌が良さそうだ。
「街で噂になっていましたよ! 昨日、師匠と一緒に街を歩いていたとか。どうでしたか? 楽しかったですか?」
「はい、まあ――」
昨日のメインの目的は、あくまでサラの捜索だったけど、けっこう楽しかった。
趣味は街歩きと豪語するだけあって、最後に訪ねたレンガ部屋しかり、普通に生活していたら見つけられない場所をたくさん見ることができた。
「楽しかったですよ」
「そうですか、そうですか! それは良かったです!」
満面の笑みを浮かべるエルシアさんは、いつの間にか右手に注射器を持っていた。
「ところで、アルさんたちは教会の談話室で寝泊まりしているとか。ちゃんと眠れていますか? 医師たちの怒鳴り声とか聞こえてきて、うるさくないですか?」
「たしかに少しだけ声が聞こえますけど、大丈夫です。どこでも眠れるたちなので」
「そうですかー、それは残念」
エルシアさんは注射器の針先を見つめながら、
「せっかく、アルさんのために、気持ちよく眠れるお薬を用意したんですけどねー」
「え、ああ……えっと、ありがとうございます」
「お注射、やっぱり要りませんか?」
エルシアさんの顔には笑顔が貼り付いている。それを向けられた俺は……背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。
「いえ、遠慮しておきます」
「遠慮なんて、必要ないですよ? だって、私とアルさんの仲じゃないですかー」
「……いえ、本当にいいですから」
俺が首を横に振ると、エルシアさんは「そうですかぁ」と呟いた。
いつの間にか、エルシアさんの手に握られていたはずの注射器は消えていた。
エルシアさんは、寝台の上に置かれていた金属製のトレーを持ち上げた。
トレーの上には、脳片の詰まった小容器が幾つか並んで置かれている。
「それじゃあ、私はこれを研究課に届けてきますね! 本当はもうちょっとアルさんとお話したかったんですけど、あまりノンビリしていると師匠に怒られちゃうので」
いつもの調子でそう言ったエルシアさんは、俺の横を小走りで通り過ぎる。
俺はほっと息をついて、いつしか額に浮かんでいた脂汗を手の甲で拭おうと――
「あっ、そうそう。一つ言い忘れてましたぁ」
エルシアさんは解剖室の扉の前で立ち止まっていた。顔は扉の方を向いているので、どんな表情をしているのかは分からない。
「師匠にあまり近づかないでくださいね? 約束ですよ」
ガチャリと扉を開けて、エルシアさんはその向こうに消えた。
○○○
解剖室からそそくさと脱出した俺は、教会の談話室に戻ってきていた。本当はサラの捜索を手伝わないといけないけど、そんな気力は残っていなかった。
ソファーにぐだっと座ったまま、窓から見えるマエノルキアの空を眺める。
今日も今日とて天気がいい。雲一つない青空が広がっている。湿気をたくさん含んだ生暖かい海風が、室内に吹き込んでくる。
ソファーからは爽やかな香りがする。そこに座っているとすごく気持ちがよくて……俺はいつしか眠ってしまっていた。
――ふと気が付くと、茜色の光が室内を照らしていた。
正面のソファーに座っていたイプシロンと目が合った。紅茶を飲んでいる。
「お目覚めですか」
イプシロンはティーカップを皿の上に置くと、机の上を手で示した。
「どうぞ、アル聖官の紅茶も用意していますよ」
「……ありがとうございます」
紅茶をすすりながら、俺は壁にかかっている時計に目を向けた。針は夜の八刻を指している。五刻近く眠っていたらしい……。
――慌てて頭を下げる。
「すみません! イプシロンが働いている中、こんなところで眠ってしまっていて……」
「いいですよ。アル聖官は、中央教会からずっと働きづめでしたから。疲れが溜まっていたんでしょう」
イプシロンは控えめな笑みを浮かべていた。窓から差し込む夕日が反射して、真っ白な髪の毛がキラキラと光っている。
「――それよりも、見つかりましたよ」
イプシロンの言葉に、俺は我に返った。
「……見つかった?」
「はい」
イプシロンの視線は俺ではなく、俺の後ろに向いている。
ゆっくりと振り返ると、床に敷かれたシーツの上には、三人の知らない人が転がっていた。
「ワンド神官はマエノルキア南部の漁船停泊所、ツベル神官は都市外北部の草原内、サッシャ神官は郊外の墓地の中。いずれも昏睡状態で発見されました」
ソファーから立ち上がったイプシロンは、靴音を鳴らしながら部屋の中を横断した。
シーツの傍で立ち止まると、老人、マッチョな中年、若い女性の順に手で指し示している。
「アトラス先生に診てもらったところ、三人とも腹部に打撲がありました。特にツベル神官は重症で、若干の内臓損傷もあったそうです」
イプシロンはその場でしゃがむと、マッチョな中年の服を捲った。白い包帯が巻いてある。
俺もソファーから立ち上がって、シーツの傍に移動した。
三人のことを近くから見下ろして、マジマジと観察してみる。
お腹に打撲があるらしいけど……パッと見た感じ、それ以外に大きな怪我をしているようには見えない。単にぐっすりと眠っているだけのように見える。
「三人とも昏睡していたって……何があったんでしょうか」
「おそらく、襲われたのでしょう」
「襲われた?」
でも、この三人は全員神官だ。
当然リッパー神官と同じように、魔素を扱うことができるはずだ。そんじょそこらのチンピラにやられるとは思わないけど……。
俺が困惑していると、イプシロンは老神官の服を捲った。マッチョ神官とは違って、そのお腹に包帯は巻かれていない。
老神官の痩せた腹の中央には、痛々しい痣があった。形は丸く、どす黒い。
「腹部を殴られた痕です。三人ともに同じ痣がありました」
「でも、誰が――」
その時、頭を過ぎる顔があった。
「……ひょっとして、サラが?」
「神官を一撃で倒せるような存在は、それほど多くありません。そう考えるのが自然だと思います」
難しい顔をしながら立ち上がったイプシロンを見て、俺は疑問を感じた。
「三人とも昏睡状態で発見されたって言っていましたよね。サラがここまで連れてきたわけじゃないんですか?」
「いえ、発見したのは一般人です。医院から報告を受けて、私が引き取りに向かいました」
イプシロンはソファーに戻りながら続けた。
「肝心のサラ聖官は、未だ見つかっていません。今朝から目撃情報を集めていましたが、そちらも収穫なしです」
「はぁ」と小さくため息をついて、イプシロンは上品な仕草でティーカップを持ち上げた。その対面に腰掛けた俺は、イプシロンがコクリと喉を鳴らすのを待って話しかける。
「サラがこれをやったのだとすると、サラはマエノルキアの中を動き回っていたってことですよね。
目撃情報の一つもありそうなものですが……いや、一昨日に神官を倒して回ってたのか?」
それなら、昨日の夕方以降に目撃情報が無いことの説明はつく。
「少なくとも、ワンド神官が倒されたのは昨日の昼から今日の明け方までの間です。
発見した漁師によると、昨日の昼に漁を終えた時には、ワンド神官はいなかったそうですから」
イプシロンが俺の推測をバッサリと切り捨てた。
「……ということは、サラは誰にも目撃されないように隠れながら、神官たちを倒して回っていたってことですね。そして、今も身を隠している」
どうしてサラがそんなことをしているのか、意味が分からない。
サラが自分勝手に行動すること自体は不自然ではないけど……コソコソ隠れるなんて、どう考えてもおかしい。
やっぱり、サラの身に何かが起きているのだろう。そして、おそらくそれは、マエノルキア教会の神官たちに起きた何かと同じものだ。
俺はティーカップを掴むと、イプシロンに倣っていつもより上品に傾けた。
ちょっとだけ冷えている。
「そこの方たちが目を覚ましたら、話を聞かないといけないですね。サラについて何か手がかりが掴めるかもしれません」
「……残念ながら、それは難しいです」
イプシロンが右手にクッキーを摘まみながら言った。
いつの間にか、机の上に小ぶりな皿が二枚置いてあった。
イプシロンの前と俺の前に一枚ずつ。純白で、縁の方には青色の模様が描かれている。
その皿の上には、イプシロンが齧っているのと同じクッキーが――イプシロンの方には二枚、俺の方には三枚――載っていた。
一瞬だけ驚いたが、すぐに納得する。どうやら、これがイプシロンの『能力』らしい。
ありがたくクッキーを一枚摘まみながら、俺はイプシロンに目を向けた。
「どういうことですか?」
イプシロンは緩んでいた口元をキリリと引き締めると――
部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「……どうぞ」
イプシロンがちょっぴり不満そうな声で言うと、扉が開いた。
「ああ、よかった。二人ともお揃いですね」
部屋に入ってきたアトラス医師は、俺の顔を見たあとにイプシロンの方を向いた。
「先ほどリッパー神官の診察をしてきたのですが……どうにも判断付きかねます。もうしばらく経過観察させてもらえたらと」
「否定はできない、ということですか」
アトラス医師は頷きを返すと、室内に転がっている三人の神官を見下ろした。
「この三人と同じように、リッパー神官も『眠り病』を患っている可能性があります」
――
アトラス医師によると、部屋にいる三人の神官は『眠り病』の可能性が高いとのことだった。
確かに腹部に打撲はあるけれど、それだけで昏睡することは考えづらい。かといって、それ以外に異常があるかというと、それもない。
最も考えられる原因は『眠り病』だと、アトラス医師は言い切った。
一方でリッパー神官に関しては、薬物中毒の可能性も捨て切れないため、あと数日は様子を見ると言っていた。
「全く。あの二人には困ったものです。鎮静剤を十倍量も投与するなんて、さすがに度を逸しています――って、お二人にこんなことを言っても意味がありませんね」
アトラス医師は決まりの悪い顔をすると、眠っている神官たちに目を向けた。
「こちらの方々は、私たちが責任を持って診ます。場所を開けておいたので、あとで移動させましょう。
リッパー神官については、結論が出るまでは解剖室ですね。あの二人が世話をします」
俺とイプシロンの微妙な顔を見て取ったのか、アトラス医師は苦笑いを浮かべた。
「心配は分かりますが、大丈夫ですよ。あの二人もいちおうマエノルキア医師ですからね。キツく言っておいたので、もう馬鹿なことはしないはずです」
――
アトラス医師が出て行ったあと、少しすると別の医師が二人やってきた。神官たちを移動しに来たらしい。
俺とイプシロンで神官たちを運ぶのを手伝って再び部屋に戻ってきた時には、壁の時計は九刻を指していた。日は完全に沈んでいて、窓の外は暗い。
室内をランプの炎が照らしている。
「今日はもう眠りましょうか。気になることはたくさんありますけど、明日また考えるってことで」
俺は五刻も昼寝をしたので、全く眠くはない。けれど、朝の六刻頃からずっと街中を動き回っていたイプシロンは、疲れているはずだ。
イプシロンに気を遣わせないように、俺の方から提案した。
「その前に、一つお話したいことがあるのですが……いいでしょうか?」
イプシロンはソファーの傍に立っていた。……どうやら、逆に気を遣わせてしまったらしい。
俺がそそくさとソファーに座ると、イプシロンは机の上に紙束を置いた。
「これは?」
「サラ聖官の情報を集めている時に、別の情報も手に入ったんです。それを詳しく調べてまとめたものが、これです。
このあと中央教会に送る予定ですが……読んでみてください」
促されるままに紙束を手に取って、パラパラと目を通してみる。量はそれほど多くない。十ページほどだ。
数分で読み終わった俺は、胸糞悪くなりながら顔を上げた。
「これって、本当ですか?」
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