00話 『妹 前編』
日に日に王都から聞こえてくる『声』は、聴くに堪えないものになりつつある。
拷問で息絶えた母親の、子を思う最後の『声』を聴いて、私は意識的に耳を閉ざした。
可哀そうだと思う気持ちもあるけど、率直に言うとどうでもいい。
私が大切なのは家族だけだ。それ以外がどうなろうと、知ったことではない。
当然のようにこういう思考をする私は悪い子なんだろうか? 案外と世の人々は他人のことを思って心を痛めているようだし……。
例えば、お父さん。
私と兄さんには隠しているみたいだけど、お父さんは国王直轄領の人たちの支援をしている。発覚すれば、処断は免れないだろう。
だから……。
お父さんとお母さんの寝室には、私や兄さんが入って来ないように鍵がかかっていた。
私が『お願い』をすると、鍵はひとりでに開いた。
こっそりとお父さんとお母さんの寝室に侵入する。
大丈夫、どちらもぐっすりと夢の中だから、扉の開く音程度で目を覚ますことはない。
お父さんとお母さんはどちらも一糸まとわぬ姿で、互いに抱き合った姿勢で眠りに付いていた。
私は枕元まで歩みを進めて、お父さんの頭に手を添えた。
早速、暗示をかける。
お父さんが今計画している物資補給道は、王様の隠密によって監視されている。
別の道なら安全だから、そちらへと変更させるように、お父さんの頭へと情報を書き込んでおく。
……よしっ、これくらいで大丈夫かな。
お父さんの枕元から離れて、扉を開けて外に出ると、自発的に鍵は閉まった。
どうやら今夜の鍵さんの機嫌はいいらしい。感謝の気持ちを込めて、鍵を手のひらで優しく撫でてあげていると、
「こんな夜遅くにどうしたんだ?」
思わず飛び跳ねる。
見ると、頭に寝ぐせを付けた兄さんがコップを片手に水を飲んでいた。
……この国の王様が何を考えているのかさえ分かるのに、兄さんがすぐ近くに迫っていることさえ、未だに気付くことができない。
ちょっとだけ悔しい気持ちになりつつ、でもやっぱり嬉しくて……私は兄さんの腕に抱きついてみた。
「うわっ、突然どうしたんだ!?」
兄さんの言葉には答えずに、私は兄さんの腕に顔を押し付けた。
今夜は満月だ。
窓から差し込む月光が、私の顔を照らし出しているかもしれない。
今の私の顔を見られたら……駄目だ。
兄さんと私は兄妹。
だから、私の気持ちは、気付かれてはいけない。
今の、仲のいい兄妹という関係が壊れてしまうのが……一番怖い。
○○○
ずっと前から兄さんに婚約者がいることは知っていた。
それは……しょうがないことだ。
兄さんは貴族の長男で、貴族は近隣所領との関係を形作る目的で、婚姻しないといけない。
ずっと、そうやって自分に言い聞かせてきた。
――
つい数日前、兄さんは『奪嫁の儀式』を終えた。
その、『奪嫁の儀式』前の空き時間。
私はミーシャ――兄さんの婚約者だとかいう冴えない女を、物陰に呼び出していた。
ミーシャは少し挙動不審な樣子で、おずおずと口を開いた。
「あの……イーナさん、ですよね? その、さっきの食事の時は兄が失礼しました」
「そうだと思うなら、注意してくだされば良かったのでは?」
「えっ……あの、その……すみません」
しょんぼりと、ミーシャは肩を落とした。
その姿を見ていると……イライラする。
ミーシャはいい人だ。そんなことはたぶん、私が世界で一番知っている。
ミーシャが兄さんの婚約者に決まってからの数年間、私は徹底的にミーシャのことを調べ上げた。
一つでも汚点があれば、容赦なく叩き潰すつもりだったのに……汚点は一つも見つからなかった。
見た目や知性についても、ただの男爵令嬢にしては、それなりの基準に達していると認めざるを得なかった。
……だからこそ、私はこの女が気に食わない。
近くの木に立てかけられていた草刈鎌。
それが、ひとりでに飛んだ。
「――ひっ!?」
草刈鎌は回転しながら、ミーシャの顔のすぐそばを通過した。
地面に深々と突き刺さる。
尻餅をつきながら草刈鎌を呆然と眺めているミーシャには……何が起こったのか、理解できていないようだった。
けれど、誰がやったのかは、直感的に分かったらしい。
パクパクと口を閉じ開きしながら、私のことを見上げてくる。
私が一歩近づいただけで、ミーシャは目を見開き、膝をガクガクと震わせた。
失禁でもしてくれたら、兄さんに見せつけてもよかったんだけど……残念だ。
眼下のミーシャへと手を差し出す。
「大丈夫ですか、ミーシャさん。突然……驚きましたね?」
ミーシャはブルブル震えながら、私の手を取った。
引っ張り上げると、そこそこの重量感が腕に生まれる。
……悔しいことに、ミーシャは背が高くて胸も大きい。
俗な言い方をするなら、良い身体をしているのだ。
実際、シエタ村の年頃の男のほとんどは、いやらしい目をミーシャへと向けている。
本人は気付いていないけれど。
「ごめんなさい、ミーシャさん」
「は、はい?」
「私の細腕では、持ち上げることが難しいみたいです」
言って、ミーシャの手をパッと離す。
支えを失ったミーシャの身体は、地面へと落ちた。
しばらく呆然としていたミーシャは、ぽっと顔を真っ赤に染めた。
「ご、ごめんなさいっ」
鈍臭い動作でミーシャは立ち上がった。
……上から見下ろされるのは気分が悪い。その見下ろしてくる目つきが無駄に鋭いので、余計にイライラする。
ミーシャが自分の目つきを気にして、夜な夜な水鏡で目元を触っていることを知らなければ、足に蹴りを入れているところだ。
地面から草刈鎌を引き抜いて、それを手渡しながら、私はミーシャのことを睨みつけた。
「私はあなたのことが気に入りません。世界で最高の私の兄さんと、あなたが釣り合うとは思っていませんから」
○○○
神官とかいう存在には、共通点がある。
それは、『声』が聴きにくいこと。
一般人と比べると、身体の表面に薄い膜が張っているような感じがして、その膜のせいで『声』がくぐもって聞こえる。
小さい頃はこの膜に邪魔をされてほとんど『声』を聞くことができなかったけど、今ではこんな中途半端な妨害なんて、片手間に打ち破ることができる。
神官は中々に面白い『声』を聴かせてくれるので、いいカモだ。
それによると……。
――
目の前には、『儀式』用の服を身にまとった兄さんの背中が見える。
私は意を決して、背中をちょんちょんと突っついた。
「兄さん」
なんとか震えることなく言い切ると、兄さんが振り返った。
今日の兄さんは、『儀式』のための晴れ姿。その姿があまりにカッコよくて、私は今朝から兄さんのことを直視できなくなっていた。
今見ても、やっぱり……カッコいい。
頼んだら、普段からこの服装してくれないかな?
兄さん自身は窮屈だって言ってたから、嫌がると思うけど……たまになら――
肩に感触を感じて、私は我に返った。
「本当に大丈夫か? 体調が悪いなら、家の中で休んでてもいいんだぞ?」
いつの間にか、至近距離に兄さんの顔が迫っていた。
突然のことに、私の身体は氷のように固まってしまった。
そんな私の気持ちも知らずに、兄さんは少しずつ近づいてきて――
私と兄さんの額がくっついた。
私は――自分でもよく分からないままに、兄さんのことを突き飛ばしていた。
「あっ……ご、ごめんなさぃ」
反射的に謝るけれど、頭の中は沸騰寸前だ。
さっきまで色々と考えていたのに……そんなことは全部、どこかに吹っ飛んでしまった。
とにかく、最低限しないといけないこと……私は、兄さんの手を掴んで、数十日かけて作り上げた石の玉を握らせた。
兄さんが石を掴んでくれたのを感じると、私は兄さんに背中を向けて駆けだした。
――
『儀式』で選ばれると神官になれる、と言うけれど……正確には違うらしい。
『儀式』で選ばれると神官になるのではなく、神官になる才能がある人間を見つけ出すのが『儀式』という行事なのだ。
その才能とは何なのか。
神官たちの『声』から集めた情報によると、人の身体には魔素と呼ばれるものが流れていて、その量が多いほど才能があるということらしい。
去年の『儀式』でよく観察してみると、『儀式』用の青い球から、何かよく分からない力が放たれていることが分かった。
その力が『儀式』を受けている人にぶつかると、ほとんどは身体の中に吸収されて、ごく一部だけが青い球へと跳ね返っていた。
……あの力には覚えがある。
私が遠くの人の『声』を聴くときに、似たようなことをしている。
試しに、近くに立っていたお父さんへと意識を飛ばしてみる。やっぱり、ほとんど吸収されるけど……さっき見たのと比べると、反射する意識の量が多い。
次に、私は兄さんへと意識を飛ばしてみる。すると……ほとんど全部の意識が反射した。
兄さんは何かを感じ取ったのか、キョロキョロ周りを見回していた。
……それから一年。
兄さんが仮に……いや、神官の選び方からすると、兄さんは確実に神官に選ばれるだろう。
神官に選ばれた者は、どんな地位にいようとも神官にならないといけない。たとえ兄さんが男爵家の跡取りだとしても、そんなことは関係ない。
神官になってしまったら、兄さんはエンリ村にいられないだろう。
もちろん、私と兄さんを引き離すことを……私が許すはずがない。
だから私は、対策を打つことにした。
要は、あの青球から放たれる、魔素というものを吸収してしまえばいいわけだ。
自分では『意識』と呼んでいた、私の中を流れている魔素。それを利用して、魔素を吸収する、手に収まる大きさの青い石を作り出すことに私は成功した。
さっき兄さんに手渡したのは、その石だ。
緊張している私の視線の先で……『儀式』は進んでいた。
先に『儀式』を済ませた二人の祝福があったせいで、兄さんは少し疲れた表情を浮かべている。
「アル・エンリ」
老神官が名前を呼ぶと、兄さんが青石の前に進み出た。
老神官はすぐに「始めよ」と言うことなく、何かを兄さんに言っている。
その内容が気になって、私が老神官の『声』を聞こうとした時、兄さんが動いた。
いよいよ、開始みたいだ。
固唾をのんで見守る中――青球から魔素が放出された。
魔素はまっすぐ兄さんにぶつかって――
私が渡した青石に、すべてが吸収される……はずだった。
そのはずだったのに――魔素は、きれいに全てが反射した。
同時、兄さんの姿が忽然と消える。
「えっ……」
私は思わず口から漏らしていた。
その場にいた誰も状況を理解できないようだった。村人の皆はもちろん、『声』を聞いてみたところ、老神官も混乱していた。
にわかに騒然となる中……私は無言で、青石の感覚を探していた。
兄さん自身の『声』を探すのが一番手っ取り早いんだけど、私には兄さんの『声』を聞くことができない。だから代わりに、兄さんが持ってるはずの石を探す。
兄さんに渡した石は、私自身の魔素から作り出したものだ。容易にその『声』を探すことができるはず……なのに。
どこにも見つからない。
どうして?
身体の中に焦燥感が広がる。
意識をできる限り広げる。深さは必要ない。広く浅く。
数えるのも馬鹿らしいほどの『声』が頭に雪崩れ込む。
酷い頭痛がする。
王国全域まで私の意識は広がって……そこが限界だった。
頭痛に耐えながら、それ以上に意識を広げようと頑張ってみるけど……これ以上は、一キルたりとも広がらない。
その中には、私の作った石の『声』は聞こえなかった。
兄さんが奪われた。
誰に?
老神官は何も知らないことは、『声』を聞いて知っていた。
でも、私は……この行き場のない怒りを、誰に向けたらいいのか分からなかった。
――
窓から満月が私のことを見ている。
月光の照らす中、私は寝台から立ち上がって、部屋の隅に向かった。
床に膝をつき、床板のある一点を押すと、ガポリとその部分が持ち上がる。慎重に床板を取り外し……中から、小さな木箱を取り出した。
寝台に戻って、木箱の蓋を開ける。
中にあるのは、金糸の束だ。
両手で捧げ持って、窓から注ぎ込む月光に照らすと……キラキラと神秘的に輝く。
感嘆の息をつきながら、その輝きを眺めていると……数拍と経たないうちに、私は耐えられなくなった。
金糸を胸に抱いて、それに鼻先を押し当てる。
「……兄さん」
金糸からは、微かに兄さんの香りがした。
思わず、下腹部に手が伸びそうになるけれど……すんでの所で踏みとどまる。
今は、そんなことに時間を割く暇はない。
兄さんの髪の毛を木箱に戻して、もとあった場所に再びしまい込む。
よしっ、元気が湧いてきた。
もう一度。昼に兄さんが消失してから、何度目かも分からない捜索を開始する。
意識を向ける先は、大陸の西の島――聖国だ。
一方向に特化して、意識は大陸を横断する。
王国を超え、海峡を越え、聖国に飛びこんだ瞬間……意識に靄がかかる。
雑音だ。
島全体に濃厚な魔素が満ちているせいで、とてもじゃないけど細かい情報なんて聴こえない。
何度挑戦してみても、この雑音のせいで……私の石の『声』を見つけることは、できなかった。
――
兄さんが消失してから数刻後。
私は老神官の胸倉に掴みかかったのを咎められて、寝室に軟禁されていた。
だから直接見てはいない。だけど、お父さんやお母さん、老神官の『声』を聴く限り、聖女から手紙が届いたんだそうだ。
曰く――アル・エンリの身柄は私の元にある。心配する必要はない――とのことだ。
実際はもっとこねくり回した文章だったみたいだけど、意味は合ってるはず。
……ふざけるなと思う。
私から兄さんを奪い取って、ただで済むとでも思ってるんだろうか?
聖女様だか何だか知らないけど、私はこれまで聖女のお世話になった記憶は一度もない。
それどころか、聖女は私から兄さんを奪い取った。
私にとっての聖女は、家畜の糞以下の存在だ。
だけど、お父さんとお母さんは違うみたいだった。聖女からの手紙というだけで恐縮して、兄さんを取り返そうなんて気持ちは全くないらしい。
むしろ兄さんが『選ばれた』のだと思って、喜んでさえいる。
……あり得ない。
兄さんのいない人生なんてなんの意味も無い。
○○○
「お母さん、ちょっと外の空気を吸ってきてもいいですか?」
「え……あら? 確かにもういい時間みたいね。いいわよ、紅茶を用意しておくから、いってらっしゃい」
「ありがとうございます!」
言って、私は手に持っていた刺繍布を机の上に置いた。
――
村を通り抜け、そのまま北の森へと足を踏み入れる。
私の帰りが遅いことを心配して、お母さんが家から出たのが分かった。
……あとで怒られちゃうな。
これだけの代償を払ったんだから、しっかりと吹っ掛けないといけない。
「出て来てください」
私が言った瞬間、周囲の木の上から全身黒ずくめの集団が降ってきた。
十数人。私の周りを円状に取り囲んでいる。
……それなりの高さから落下したのに、音の一つも立てないのは、素直にすごいと思った。
血の滲むような訓練を日々積み重ねているのだから、当然と言えば当然かもしれない。
「お探ししました、黒狼様」
黒ずくめの集団――黒衣衆という名前らしいが、その代表者の、私の正面にいる女が話しかけてきた。
「最初に言っておきますが、私は黒狼様ではありません。私はイーナ・エンリです。……と言っても、あなたたちの妄想が解けることはないんですよね?」
「……貴方は、間違いなく黒狼様です」
黒衣衆の頭の中を深めに覗いてみても、微塵たりとも揺らぎはない。
『華』と『黒狼』への忠誠心。任務遂行への狂気的な使命感。そして、私が黒狼様だという強い確信。
その三つしか聞き取れない。
「……まあ、いいです。勝手に勘違いしているなら、私はそれを利用するだけですから」
こいつらが私を探していることは、かなり前から気付いていた。
適当にやり過ごすつもりだったけど……今の状況においては、利用しない手はない。
「あなたたちの望み通り、華へでもどこへでも、行ってあげましょう。ただし、幾つか条件があります」
「私たちに叶えられることならば、全てを投げうってでも遂行いたします」
拒否されても、命令に従わせるつもりだったけど……自発的にやってくれるのなら文句はない。
「まずは――」
――
「えっと……うちの娘が、優秀な神官様になれると?」
「はい。イーナ・エンリ様は稀有な才能をお持ちであることが確認されまして、いまだ十五に及んでいませんが、特例として神官に登用することが決定しました」
「そ、そうですか」
若干疑わし気な表情のお父さんは、神官服の銀三環を確認して渋々納得しているようだった。
お母さんはお父さん以上に騙されやすいから、私が神官になるという筋書きを、既に完全に受け入れている。
神官服に着替えた黒衣衆の首長の頭の中は高速で回転していて、感心してしまうほどの緻密な作り話を吐き出し続けている。
半刻と経たずに、お父さんとお母さんは完全に騙されてしまっていた。
今日中に出発します、なんて普通ならあり得ないことを言われても、もうその言葉を全く疑っていなかった。
そういうわけで今、私は黒衣衆と一緒に森の中を歩いている。
「いいですか? お父さんとお母さんに傷の一つでも付いたら、その瞬間に――」
いつもなら私の頭の中に注ぎ込む大量の『声』を、隣を歩いている黒衣衆の首長の頭の中へと誘導する。
同時、首長は頭を抱えてうずくまる。
首長が壊れないうちに、『声』の奔流を解除してあげると、
「こ、こここれえがガガガが、くうぉく狼様、の力ですか……」
やり過ぎちゃった。
こんな危険なことをするのは初めてだったから、加減が上手くいかないな。次は気を付けないと。
「……同じことを華の全ての民に対して行います。確実に約束は守ってください」
「もちろんです。黒狼様の御両親となれば、私たちにとっても大切なお方。常時複数名の警護をお付けしておきます」
こいつらの戦闘能力は、この辺りではずば抜けている。神官程度の実力はあるから、中央騎士なんて相手にならないはずだ。
これで、私がエンリ村から離れても、お父さんとお母さんの安全を心配しなくてもいいだろう。
あとは、兄さんを取り返すだけ。
力技で聖女を叩きのめすことも考えたけれど、背後に華という大国をつけて、外部から圧力をかける方がより確実だろう。
私にとって兄さんは世界最高の人だ。だけど客観的に判断するならば、兄さんの才能とやらは、それほど珍しいものではない。
教会も、華と争いになる前に、兄さんを私に返してくれるはずだ。
……待っててね、兄さん。
○○○




