02話 『奪婿の儀式 二』
サラの修行相手が判明したのは2日後のことだった。
「数ヶ月前から時々来ていたんですけれど、ここ1ヶ月はほとんど毎日ですね」
漆黒の芳をまとったイーナは、急須からお茶を注ぐと、滑らかな手付きで湯呑みを手渡してきた。
「迷惑じゃないか? お義父さんとサラが本気で闘ったら、地形の1つ2つ変わっちゃいそうだけど」
東方無双――伯 狼円。
サラの修行相手は、聖女様も認めた『赤』の称号持ちだった。
お義父さんが相手なら、サラがあれだけボロボロになっていたのにも納得がいく。
「それは大丈夫ですよ。2人の訓練用に、簡易的な……説明するのは難しいですけれど、別の世界みたいなものを作っているので、周りに影響はありません」
別の世界……思案しながらお茶をすすると、サッパリした芳香が口の中に広がった。
「やっぱり、イーナが淹れるお茶が一番美味しいな。これは……薄荷かな?」
「さすがアルさんです。暑いので、ちょっとサッパリした風味にしてみました」
イーナがにっこりと微笑む。
単に微笑んでいるだけなのに……何というか、すごく現実離れした感じがする。色っぽいとか超越して、神々しいと表現した方が近いかもしれない。
実際、神様みたいなものだが、マオさんや稲荷様には神々しさとか感じないんだけどな。不思議だ。
「……別の世界っていうのは、あれみたいな感じか? 稲荷様が作った、紅葉がたくさんある山みたいな?」
「あ、そうですね。あそこまで高度なものではないですけれど、原理としては同じです。外部とはほぼ隔絶されているので、お二人がどれだけ暴れても――」
ズシン、と。微かな衝撃を感じた。
湯呑みの中で波紋が広がっている。
「ほとんど、こちらには影響がない、はずです」
イーナが困ったような表情で、黒狼殿の中空に浮かんだ青いヒビ割れを見つめた。
「えっと、二人はそこで修行してるのか?」
「はい。近くでないと制御ができないので……私も、気軽には外出できませんし」
てっきり鴻狼の外にいるのかと思ってた。
「……大丈夫か? もしも壊れたら」
「そうなったら鴻狼が丸ごと消えてしまいますけれど、大丈夫です。アルさんとお話していて、ちょっと気が緩んだだけですから」
イーナがまなじりを鋭くすると同時に、ピョコンと、頭部に狼の耳が生えた。
久しぶりの獣耳に見惚れていた俺が再度目を向けると、中空のヒビ割れは跡形も無く消えている。
「すごいな」
世界にヒビを入れるサラたちも凄ければ、そんな常軌を逸した力を、獣耳出すだけで制御できるイーナも凄い。
「ふぅ……でも、ちょっと疲れました。最初はもっと楽だったんですけれど、サラさんが少しずつ強くなるにつれて、狼円さんも遠慮がなくなってきているみたいで」
「……サラがもっと強くなるって、想像つかないな」
最後にサラと戦ったのは乾衣殿でのことだった。あの時は半ば反則的に勝てたが、真面目に戦ったら何が起こってるかも分からずに意識を落とされるだろう。
とはいえ……ほぼ全ての魔物や下手人は、俺程度の戦闘力があれば充分だったりするのだが。
「これ以上強くなってどうするつもりなのか……」
ぼやきつつ、お茶をすする。
黒狼殿には俺とイーナしかいない。十中八九、黒衣衆の誰かが潜んでいるはずだが、俺たちに気を使ってか、全く気配を感じられない。
がらんとした広間にさっきまであった亀裂は、きれいさっぱり消えている。
広間を挟んで向こう側には半開きの正面扉があって、隙間から差し込んだ陽光がくっきりと影を作っている。
扉がふらりと揺れ、影が動くのが見えた。
「……サラさんはたぶん、狼円さんよりも強くなっちゃうんでしょうね」
涼しい風が吹き抜けていった。
声音に違和感をおぼえて目を向けると、イーナの黒い髪の毛が一房、ちょうど肩から滑り落ちるところだった。
次の瞬間には、イーナは微笑を浮かべていて。
「アルさん。中の様子、少しだけのぞいてみませんか?」
――
それは赤銅の塊だった。
濃い赤色の魔素を、鎧のように幾重にもまとったお義父さんは、決して砕けぬ頑強さを体現していた。
それは真紅の雷光だった。
嵐のような激しさで、鋭い攻撃を絶えず叩き込むサラは、影も残さぬ速度で宙を駆けていた。
イーナが用意したという、荒野と青空が果てしなく広がっている世界。
俺たちは上空10メートルあたりに浮かんで、2人の対決を見下ろしている。
実体として中にいるわけではないから、攻撃が当たることはないし、向こうからも認識されない、らしい。
イーナがそう言うなら実際そうなんだろうが……本当に大丈夫か? 流れ弾でも当たろうものなら、ただじゃ済まないぞ。
特にイーナの方は速すぎて、目に魔素を集めても残像を追うことさえ難しいし。見えなければ避けようもない。
空中で明らかに不自然な動きをしてるのは、専用武器の鎧を部分的に出したり仕舞ったりして、重心をズラしてるのか? それだけじゃ説明できない加速とかあるが。意味不明だ。
お義父さんはお義父さんで、拳を振るっただけで地面が数十メートル抉れてるんだけど……本当に人間か? あんなの当たったら、俺の軟な防御なんて半紙みたいに貫通して、バラバラの肉片になりそうだ。
「そんなもんじゃあッ、いつまで経っても儂に勝てんぞぉ!! ほれ、尻を撫でちゃる!!」
「〜〜〜ッ!?」
「ふげッ!?」
サラの攻撃が緩んだ瞬間に、お義父さんがすかさずセクハラするのが見えた。瞬きをする間もなく、サラに側頭部を後ろ蹴りされてる。
……なにやってんだあの人。
よろめいたお義父さんの周りに、続けて赤い残像がいくつか見えた。おそらくサラが何発か追撃を加えたんだろう。
――直後、破裂音とともにサラが上空へ吹き飛ぶ。
えっと?
お義父さんが蹴り上げたのか?
さっぱり分からない。
「ははははははは!!! 楽しいのう!!! ほれ、ボーっとしてるとおっ死ぬぞ!!!」
お義父さんが右脚で大地を踏みしめると、放射状に地割れが広がった。
何をするのかと思ったら、おもむろに身長の3倍くらいありそうな岩の塊を持ち上げて、それを宙を飛ぶサラへと投擲した。
聞いたこともない鈍い風切り音がして、大岩が上空で点になる。
同時、青空に透明な亀裂が出現した。
「んッ!!」
真横から声が聞こえたので目を向けると、獣耳をピンと尖らせたイーナが、切迫した表情で両手を空へと向けていた。
数秒遅れて、ガラスが割れるような音が世界に響く。その音に混じって、
「お?? いつの間に逃げたんじゃ??」
寒気が背筋を駆け上がった。
お義父さんが真っすぐこっちを見てる。俺らのことは見えないはずじゃ? いや、というより、さっきより少し小ぶりな岩を持ち上げてるんだけど。
頭で考える暇はない。
「ふぇっ!?」
イーナを抱え上げ、全力で横に飛――ぼうとして、自分が宙に浮いていることを思い出した。
イーナを守るように抱きしめた時には、目の前に岩の壁があった。
『能力』により生成されたものなら無効化できるが、物理的なものはどうしようもない。
――くそッ、いけるか?
手のひらから剣を出す。
刃が岩と接触して――
「……?」
困惑しつつ背後に目を向ける。
数百メートル上空に、さっき見たのと同じように青いヒビ割れができている。少し遅れて、ガラスが割れるような音も聞こえてきた。
「……私たちには当たらないので、大丈夫ですよ」
胸元に視線を落とすと、頬を赤らめたイーナが俺の顔を間近から見つめていた。
潤んだ黒い瞳は、真っ直ぐ俺の目をのぞき込んでいて――
「そっ、そうだった。ごめん、思わず……」
微妙に声が裏返りそうになりながら、俺はイーナを空中に戻そうとした。
「……イーナ?」
さっき抱き上げた時に反射的に掴んだんだろうが……聖官服の襟口から手を離してくれない。
無理やり押しのけるわけにもいかないし、抱き合う直前みたいな姿勢になってしまう。
眼下には艶やかな黒い髪の毛。ほんのりと、イーナの甘い香りが漂ってくる。
「……ありがとうございました。守ってくれて」
さっきの攻撃から守れてなかったと思うし、そもそも当たらないのなら守る必要もなかったんだが……それをわざわざ言うほど無粋でもない。
何も言わず、昔みたいに頭を撫でてやると、イーナはさらに近づいてきて胸元に顔を埋めるようになった。
「私、やっぱり――」
「アル? なにしてるの?」
びっくりしてイーナと2人で地上を見ると、いつの間にか出現していたサラとお義父さんがこちらをバッチリ見ていた。
……俺らの姿は見えないはずじゃ?
頭の中に疑問符が浮かぶと同時に、目の前を青色の燐光が落ちていった。見上げると、空に大きな亀裂が走っていて、そこからパラパラと欠片が落ちてきている。
「おー? 今日はもう終いか?」
「す、すみません。少し集中が乱れてしまって」
飛びのくように俺から離れたイーナは、慌てた様子で空へ両手を上げ……数秒後に手を下げた。耳と尻尾も引っ込んでしまう。どうやら、もう修復不可能らしい。
2人で地上に降りていくと、お義父さんが嬉しそうな表情で近づいてきた。
「理円!! 久しいの!!」
「お久しぶりです。お義母さんは壮健ですか?」
「元気過ぎて困ってるぐらいじゃな!!」
近くから見ると、お義父さんも意外とボロボロだ。
昔手合わせした時、あまりに硬すぎて俺ではかすり傷さえ付けれなかったんだけど……サラのやつ、すごいな。
目を向けると、地面に座り込んだサラにイーナが湯吞みを渡しているところだった。
さすがのサラもかなり疲れているらしく、全体的にぐでっとした感じになっている。
「のう、理円」
低いトーンで名前が呼ばれる。見ると、お義父さんが指2本でちょいちょいと手招きをしている。
間近へと寄ると、ひそひそ声で話しかけてきた。
「理円はどっちが好みなんじゃ?」
「……なんの話ですか」
「シュッとした美人さんと、元気いっぱいの可愛い娘、どっちも捨てがたい――」
「あんまりしょうもない話をしてると、サラのお尻を触っていたこと、お義母さんに言いつけますよ」
「なッ!? それも見とったんか!!」
――そんなこんなで他愛のない話をしているうちに、世界は砕けていく。
イーナからもらった湯呑を傾けながら、欠片になっていく世界を眺めていると、似たような光景が脳裏に浮かんだ。
マオさんに協力してもらって、イーナの記憶の中に入った時。あの時も、最後は似たような光景だった。
まあ、どちらもイーナが作った世界だし、実質的に同じことが起こっているんだろう。
ついさっきのこともあってか、芋づる式に桃色の記憶や、イーナと同じベッドで眠った時のことなんかが――
「アル!」
「うえっ!?」
「む?」
突然、ひょっこりとサラが傍に出現したので、思わず変な声が出てしまう。
サラは不思議そうな顔で半分ほど砕けた空を眺めてから、キラキラした瞳をこちらに向けてきた。
「どうだった? もう少しで勝てそーなのに、勝てないの! どうしたらいいと思う??」
ついさっきまで疲労困憊してたはずなのに、もう回復したのか? まだ数分しか経ってないけど。
「聞かれても分からないって。二人とも人間離れしすぎてて俺には付いていけない」
「おなじ場所に2回いれたらマソがけずれるんだけど、3回目を入れる前に防がれちゃうの!! もっと速く、ってすると力が弱くなっちゃってけずりきれないし!! ほかの人なら防ぎにくい場所をたたいても、ぜんっぜん身体がくずれないの!!」
……聞いてないし。
最初会った頃と違って、ここ数年のサラは色々と考えて戦闘をするようになった。
今のサラは、俺なんかがアドバイスできるような領域にはいないのだ。そもそも、先の戦闘で何撃のやり取りがあったかさえ全く分からないし。
「まあ、怪我しないようにな。お義父さん、気分が乗るとやりすぎることあるから」
「うん!!」
元気のいい返事が返ってくる。
これは、なにも分かっていない時の返事だ。サラとの付き合いもいい加減長いから、それくらい分かってしまう。
小さな嘆息が口から漏れる。
……万が一サラが怪我した時に備えて、オメガとデルタに菓子折りでも渡しておくか。
○◯◯




