02話 『巨木の森』
背中に固い感触。
目を開けると――ちょうど、水滴が落ちてきた。
四散した細かな飛沫が、目に入る。
顔を拭いながら身体を起こすと、周りは見覚えのない景色だった。
これまで一度も訪れたことが無い場所だと、一目見て分かった。
自分の傍にそびえ立つ、巨木を見上げる。
本当に巨大だ。
はるか上空。地上数十メートルに、深緑の尖った葉が見える。
幹の太さも、尋常ではない。
木というより、ビルに近い印象を受ける。直径は……五メートルくらいか?
この一本だけが、特別なわけじゃない。
見渡す限り、同じくらいの巨木が、当たり前のように何本も生えている。
こんな特徴的な光景、一度見たら、忘れようと思っても忘れられない。
「……」
ここは、どこなんだろう?
巨木を見つめながら……最後の記憶を思い起こす。
たしか、『儀式』を受けていたら突然知らない場所に飛ばされて、銀髪の少女と会って……少女の最後の言葉で、記憶が途切れている。
『この場所に、もう一度帰ってこれたら……その時は、望みを叶えてあげるの』
――俺の、望み。
もう、三年も会っていない人の顔が、鮮明に思い浮かんだ。
幼い頃から、俺を見守ってくれた人。そして、突然消えてしまった人。
――ロンデルさんに会いたい。
今さらになって、どうしてこんな気持ちになるのか……我ながら不思議だ。
ロンデルさんが消えた直後は、今と同じ気持ちだった。
けど、その気持ちも、一年、二年と時が経つうちに、薄くなっていった。
最近では、たまに「会いたいな」と思う程度だったのに……。
名前も知らない、不思議な少女。
その子の『叶えてあげる』という言葉には、何の根拠もない。
だけど、全く疑うことなく『叶えてくれる』と思っている自分がいる。
あの子は『この場所に、もう一度帰ってこれたら』と言っていた。
あそこがどこなのか、俺は知らない。
でも、最初に向かうべき場所は分かっている。
どこでもいいから、教会に行ってみよう。神官様のことなら、神官様に聞くのが手っ取り早い。
方針が決まったら、行動あるのみだ。小雨が降っているが、気温は高い。多少濡れたところで大丈夫だろう。
俺は巨木の陰を出て、雨降る森の中を、当てどなく歩き始めた。
――
二、三刻経ったと思う。依然として、周囲の風景に変化はない。
最初は感動させられた巨木だけど、こうも当然のように立ち並んでいると、次第に慣れてくる。
足腰の疲労は問題ない。森の中を歩くことには、慣れている。問題は――
木々の間を、冷たい風が吹きすさぶ。
その風は俺の身体にまとわりついて、少しずつ、だけど着実に、体力を奪っていく。
雨は一刻ほど前に止んだので、服はほとんど乾いている。
それでも、夏の格好をしている俺には、寒さが堪えた。
暗い雲がずっとかかったままだから、おぼろげにしか確認できないけど、太陽の位置からすると……今の時刻は夕方。
夕方にしては、今の時期のエンリ領よりも太陽の位置は高い。
ここがどこだか分からないけど、少なくとも、エンリ領よりも緯度が低い地域らしい。
だとしたら、エンリ領よりも暖かそうなものだけど……こんなに寒いということは、ここは標高の高い山の上なのかもしれない。
山なのだとしたら、低い方向へ歩いていけば、そのうち川なり何なりが見つかるはずた。
……はずたけど、ぱっと見た限り、地面に高低差はない。平坦な地面が続いている。山というより、台地なのか?
そんなことを考えつつ、ひたすら南へと歩いていく。
……方向が合ってるのか、全く分からない。単に、寒いから南に進んでいるだけだ。
自分が人里に近付いているのか、離れているのか、それだけでも知りたい。
ゴールも分からないまま歩き続けるのは、体力以上に、精神に堪える。
「……はあ」
とうとう俺は、膝に手をついて、立ち止まってしまった。
「今日は、もう……いいかな」
これ以上頑張っても、今日中に森を脱出できそうな気配はない。明日以降に備えた方がいいだろう。
俺は両手で、顔をパシンと叩いた。
気持ちを切り替える。
暗くなるまでに時間はあるけど、それまでに、今日の寝床を見つけておきたい。
そういう目で周りを見渡してみると、寝床はすぐに見つかった。
巨木にできているがらんどうだ。幹が太いから、人の一人くらい中に入れるだろう。
中で眠れば暖かいし、野獣や魔物から姿を隠すこともできる。一石二鳥だ。
……じゃあ、あとは食料だな。
この森は動物が少ないらしく、今のところ一匹も目撃していない。
でも、全くのゼロというわけでもないらしい。意識を研ぎ澄ませば、ポツポツと感じ取ることができる。
……狩りに行くか。
――
動物を見つけるのには、思った以上の手間がかかった。
やっとのことで見つけたかと思えば、魔物だった、というのが一番多い。
ケルベロスっぽいのを見つけた時は、必死で逃げた。
勝てないことはないんだろうけど……頑張って倒したところで、魔石しか手に入らない。腹は一ミリも膨らまない。
俺が初めて動物――熊を見つけたのは、一刻後のこと。
熊は、俺の見たことのない種類だった。
感想は一言。
大きい。
圧倒的に大きい。
体高、三メートル以上。
大きさだけで言えば、熊というより象だけど……フォルムは熊なので、熊と呼ぶことにした。
熊を見つけた俺は、まず作戦を練った。
あの巨体とまともに戦って、勝てるわけがない。
短期決戦を目指すべきだろう。
一瞬で近付き、間髪入れずに絶命させる。
剣を持ってれば、一振りで首を飛ばすこともできるけど……残念ながら、今の俺は手ぶらだ。
素手でどうやって仕留めればいいか。
わずかな力でも、致命傷を負わせる方法……。
数秒間考えこんでいた俺は……熊から自分の身を隠していた巨木の幹から、樹皮をはぎ取った。
ほとんど抵抗なく、茶色い樹皮がベロンと剥げる。
俺の腕くらいの長さを剥いでから、そいつを丸めて細長い筒を作る。
それを二度繰り返して――俺の『武器』が完成した。
――
熊は、その巨大な体躯に見合った、重量を感じさせる足音を立てて、優雅に歩いていた。
おそらくコイツは、この森の生態系の中でも、かなり上位を占めているのだろう。
まあ、これほどの巨体だったら当然だ。身体が大きいというのは、それだけ重要なのだ。
だだ真っすぐ、何も考えずに突進するだけで、相手に致命的なダメージを負わせることができる。
逆に、攻撃されても、分厚い脂肪と筋肉で衝撃を吸収する。
攻守ともに、身体が大きいといことは、それだけで圧倒的なアドバンテージを生む。
だが、この熊は……大きな身体と引き換えに、大切な物を失っている。
自身の体躯に対する慢心が、警戒心という鎧を剥ぎ取ってしまっている。
コソコソと、背後から迫る俺に、熊は全く気付かなかった。
――音も無く、俺は跳ねた。
熊の尻を右足で蹴って、一気に背中の上に駆け上がる。
コンマ数秒後には、熊は俺の存在に気付くだろう。
けれど、それだけの時間があれば、充分だった。
熊の背中を駆け抜けて――両手に持っていた『武器』を、それぞれ熊の眼球に突き立てた。
「――グモォォォォォッッ!!」
熊が絶叫する。
その時には既に、俺は熊の頭から飛び降りていた。
熊は、自分の身に何が起こったのか、分かっていないようだった。
突然の痛みと暗闇の中、わけも分からず暴れまわっている。
近くにいると危ないので、俺は急いで距離を取った。
……たぶん、上手くいったはず。
脳味噌と眼球をつなぐ神経――頭蓋骨には、その神経のための穴が開いている。
『武器』は両眼とも、その穴に入った。
脳味噌の奥深くを、損傷させたはずだ。
だから、しばらく待っていたら絶命するはず……。
巨木の陰に隠れながら、俺は熊を観察していた。
元気いっぱいに暴れまくる熊。
……なかなか、死なないな。
倒れる様子がない。
絶叫するのに疲れたらしく、低く唸り声をあげている。
頭を、失敗の二文字が過った時――
「なにやってるの?」
振り返ると、腕を組んでいる少年がいた。
短く切り揃えられた髪の毛は――深紅。
背は、俺よりも二十センチほど低い。たぶん、十歳前後だろう。
俺が反応をする前に、少年は猪の方へと向かっていった。
「――ちょっと、おい! 危ないぞ!」
俺の声を無視して、少年は散歩でもしているかのような様子で、熊の近くまでたどり着いた。
俺の攻撃のせいで、熊の気は立っている。
熊は少年の存在に、気付いたらしく――
「グオォォォォッ!!」
一直線に突進する。
その鼻ずらを、少年は片手で受け止めた。
「……は?」
あり得ない光景に、俺は気が抜けたような声しか出せなかった。
開いているもう一方の手で、少年が熊を殴った。
熊は数メートル吹っ飛んで――その途中で、白い粒子に変わった。
バラバラと、赤い魔石が三つ落ちるのが見えた。
何事も無かったかのように、少年がこちらへと歩いてくる。
俺のすぐそばで立ち止まって、偉そうに腕を組んだ。
「……で、あんたダレ?」
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