05話 『狐帝と稲荷 後編』
鳥居を潜って最初に目についたのは、すぐ足元に置いてある茶色い箱だった。腰くらいまでの高さがあって、幅は二メートルほど。
上部は魚の鱗みたいな、ちょっと複雑な構造になっている……。
というか、賽銭箱だ。
そう認識すると、上から垂れてる縄が鈴を鳴らすための縄だと瞬時に認識できたし、ここがどうやら神社らしいと理解できた。
「ふふっ……お賽銭を入れてくだされば、ご利益があるやも知れませんよ?」
隣に立っていた稲荷様が俺の顔を覗き込みながら言ってきた。
「この神社は……稲荷様の物なのですか?」
「そうですね」
「つまり、稲荷様を祀っているということですか?」
「どうでしょうか……我がここを作った時には、自分自身を祀ろうという意図はありませんでしたけれど。ただ、我の住処であることに違いありませんから、あながち過っているとも言い切れませんね」
「なるほど」
なら、ご利益がありそうだ。
俺は懐から聖金貨を一枚取り出して、賽銭箱に投げ入れた。それから、縄を掴んで鈴を鳴らす。
目を閉じて手を合わせてみたが……特に稲荷様に祈りたいこともないな。何かいいことがありますように、くらいしか思いつかない。
目を開けると視線を感じた。隣に顔を向けると、稲荷様がジィッと俺のことを見ている。
「アル様は覚えていらっしゃいますか? 我たちが初めて出会った時も、アル様は今のように、我に向かって手を合わせていらしたのですよ」
「稲荷様に手を……あ、」
そうか。思い出した。
そういえば、俺は死ぬ直前にあのしょぼい鳥居に手を合わせたんだっけ。
「もちろん、覚えています」
「では、その時に我に対して願ったことの方はどうでしょうか?」
「……何か願ったのでしょうか? すみません、どうにも昔のことなので記憶が」
「ええ、まぁ……それも仕方のないことでしょうね。ヒトという生き物は、今も昔もそういう物ですから。我は、しっかりと覚えていますよ。アル様が、あの時願ったことを」
稲荷様は賽銭箱の脇を避けて本殿へと入ってゆく。俺も稲荷様の後に続いて板の間に上がった。
本殿はそれほど大きくはない。
まあ、大きいっちゃ大きいけど、せいぜい黒狼殿と同じくらいの大きさで、端にたどり着くのに大した時間は掛からなかった。
本殿の端には屋根がなかった。ちょうど清水の舞台のようになっていて、絶壁から張り出すようになっているらしい。眼下には紅葉の森が広がっていて、その森の中を朱色の鳥居でできた道が折り連なっている。
ずっと遠くには青い海が見えていて、空の高いところを薄くうろこ雲が覆っていた。
稲荷様は、舞台に設えてある赤色の傘と、畳のベンチの場所へと向かって、
「さあ、アル様。お掛けになってください」
「失礼します」
「どうぞこちらも」
腰をかけると、稲荷様が湯呑みを手渡してきた。
「ありがとうございます」
「ーーところで、アル様。アル様は先ほど、我にお願い事をしましたね。せっかく奮発してくださったので、早速ですがご利益を授けることにしましょう」
俺の隣に腰掛けた稲荷様は、俺が両手で持っている湯呑みを手で示した。目を向けると茶柱が立っている。
「……稲荷様」
「はい、なんでしょうか?」
「稲荷様は人の心の内が分かるのでしょうか?」
稲荷様は、いつの間にか手に持っていた湯呑みを一口啜って、
「いいえ、分かりませんよ。我には苦手な領域ですから」
……本当に分からないのか? でも、さっきの『何かいいことがありますように』っていうのが分かってないと。
そもそも、さっき稲荷様が自分で言ってたじゃないか。前世で俺がお願いしたことを知ってるって。
「あら、釈然としていないご様子ですね。我は嘘はついていませんよ。今、はアル様が何を考えているかなんて分かりません」
稲荷様が微笑みながら言ってくるので、俺は手元の茶柱を見た。
そこで気付いたが、いつの間にか足元に高さ五十センチくらいの机が出現していた。赤色の布がかけられている。その上にはみたらし団子が二本乗った皿が置かれていた。
「つまり、私がお願い事をしている時は分かるということですか」
「そういうことですね……手に取るように。特に祈りたいこともないので『何かいいこと』とのお願い事、しかと受け取りましたよ」
……何というか、ちょっとだけ気まずい。
いや、モテまくりたいとか、大金持ちになりたい、とかよりはマシだけども。
俺は茶を一口啜った。啜った後に湯呑みの中を見ると、茶柱はもう無かった。
「お口に合いましたか?」
「あっ、はい。美味しいです」
「それはよかったです。甘味もどうぞ。言ってくだされば何でもお出ししますから」
「はい、ありがとうございます」
俺は湯呑みを机に置いて、代わりにみたらし団子を一本取った。
……にしても、これってどこから出てきてるんだろうか? 出たり消えたりするのは聖女様で慣れてるけど……同じような『能力』か?
団子を一個齧ってみると、普通に美味しい。
「さて、アル様。先程のお話の続きをしましょう」
視線を稲荷様に向ける。
「アル様が以前亡くなられた際、我を助けようとしてくださったこと。まずは、ありがとうございました」
稲荷様が頭を下げた。狐耳のてっぺんが俺に向けられる。
「いえ、当たり前のことをしただけですし……それに、稲荷様は別に危機的状況では無かったようですし」
俺はバツが悪くて苦笑いを浮かべた。我ながらカッコ悪い。
「確かに、あの時の我がとらっくに轢かれることはあり得ませんでした」
稲荷様は顔を上げて、
「だから、あの時。失礼ながら我も今のアル様と同じように思いました。この青年は何をしているのか。我を助けようとして命を散らすだなんて、と。……しかも、その直前に我にお願い事をしていた青年でしたからね」
さっきも言ってたやつか。俺はてんで覚えてないお願い事。
確か……ふらっと散歩に出て、たまたまあの鳥居を見つけて、何となく手を合わせたんだっけ。
「自分ではどうにもならない、事故や病気から護ること」
稲荷様は湯呑みを机の上に置いた。
「それが、アル様が我に願っていたことです。にも関わらず、我はアル様を護ることができなかった。しかも、我の不注意のせいでです」
稲荷様は唇を自嘲気味に吊り上げて、
「死に瀕しているアル様を前に、我は何とかして助けたいと思いました。今なら欠伸混じりに健康に、それこそ事故に遭う前よりも健康に治すこともできます。けれど、あの時の我にはそれができませんでした。
何せ、我は弱りきっていて、自分自身が消滅する直前でしたから。もちろん力は尽くしましたが……アル様も知っての通り、うまく行きませんでした」
……よく分からないけど、えっと、つまりこういうことか?
俺が稲荷様に交通安全やらをお願いする。けど、俺は稲荷様を庇って事故に遭ってしまう。
お願い事の義理があるから、稲荷様は頑張って俺を助けようとしたけど……力及ばず死亡。
結局、俺が犬死ってことに変わりない気がする。
「その、ありがとうございます。懸命に助けようとしてくださって」
「いいえ、違いますよ。助けていただいたのは我の方ですから」
……意味が分からずに稲荷様を見ると、
「先ほども申し上げた通り、あの時の我は、もうすぐ消え去る運命にありました。具体的なことは今となっては分かりませんが、おそらくは数日。生にしがみ付いたとしても数十年程度の猶予しか無かったでしょう。ーーですが、アル様のおかげで、我は今もここにいます」
「私のおかげ、ですか?」
「はい。アル様のおかげです」
稲荷様はクスクスと笑って、
「あら、アル様。今ならアル様が何を考えているのか、手に取るように分かりますよ。何を言っているのか分からない、と顔に書いてありますから」
「まあ、はい。実際にそうですから」
「そうですねぇ……確かアル様は、ご自身が我の眷属になっているということを、聖女様から聞き及んでいたと思います」
……そういえばそんな話もあったな。イーナが意識不明になった時、マスクの白メイドに調べられた。
正直半ば忘れてた。別に、日常生活には影響ないし。
「不思議には思われませんでしたか? どうして見ず知らずの狐帝なんて輩に、そのようなことをされているのか」
稲荷様が上目遣いに見てくる。
「それは……確かに思いましたけど」
「我がアル様を眷属にしたのは、あの時なのですよ」
「あの時?」
「アル様がとらっくに轢かれて、死に瀕していた時です」
つまり、前世ということか。
「あの時、我は何とかアル様を救おうと、自分の力の全てを注ぎ込みました。故意ではありませんでしたが、結果としてアル様は我の眷属となりました」
「……そうなんですか」
「ピンと来ていないようですね。まぁ、聖女様が眷属に関して都合のいい部分しか伝えなかったのが悪いのですけれど」
稲荷様は息を吐いてから、
「眷属には、他にも数え切れないほどの性質があるのですよ。その内の一つが、眷属さえ生きていれば主が滅せられることはない、というものです」
「……つまり、聖女様を倒したかったら、聖官を全員倒した上で聖女様を倒す必要がある、ということですか?」
いや、別に倒したいわけじゃないが。
「聖女様ですか? 聖女様を倒したいなら、白い服を来ている方たちと聖女様を全員同時に滅すればよいですが……おそらく、アル様は勘違いされていますよ」
……勘違い?
「思うに、アル様は聖女様が加護を与える側だと思っているようですが、聖女様もマオ様の眷属の一人に過ぎません。だから、マオ様を倒したいのであれば、聖女様を含めた眷属を全員倒したうえで、マオ様を倒せばよいですよ」
いや、それこそマオさんを倒したいなんて思ったこともないけど……でも、仮にマオ様を倒したいと思ったら、聖女様と聖官全員を倒す必要があるってことか……?
それは、実質不可能ということだ。
「少し話題が逸れましたが……あの時、我はもうすぐ消える運命にありました。けれど、眷属であるアル様が存在していたから、我は消滅せずに済んだのです」
「……? あれ? あの……私は死んだはずでは?」
「ええ、亡くなられましたよ。でも、消滅はしませんでした」
稲荷様は楽しそうに、
「ふふっ……困惑していますね。では、簡単に考えてみればいかがです? アル様は今、前世の意識を保ったままこうして我と話していますけれど……本来の死というものは、その意識の消滅のことを言うのではありませんか?」
「……確かに、そうですね。何となく分かるような気がします」
俺は生まれ変わりなんてことをした訳だけど、要は魂的な何かが保存されてたってこと……なのかな。多分。
「つまりは、そういうことですよ。我が今こうしてここにいるのは、アル様がいてくださったおかげなのです。だから、後から振り返ると、あの時アル様の行動は決して無駄な行動ではなかったということです」
「……そうですか」
分かったような分からないような、少なくともあの時の俺は深く考えてたわけじゃないけど……誰かの役に立ったんだと思うと、悪い気はしない。
俺は一度頷いて、
「なら……何と言いますか、よかったと思います」
ーー
「ふぅ、少々長くなってしまいましたが……そろそろ本題に入りましょうか」
湯呑みをコトッと机に置いて、稲荷様が言った。
「ところでアル様? 突然ですが、我はこう見えてなかなか凄いのですよ」
俺はお茶を啜ってから、
「こう見えて、と言いますか……稲荷様が凄いことは重々承知していますよ」
「本当ですか?」
「ええ、まあ。前世の街を用意したり、どうやっているのか私には全く想像もつかないですし」
「……そうですか? うーん、そうですねぇ……」
稲荷様は軽く首を傾げていたが、
「ちなみにですが、アル様の好きな季節はいつですか?」
「え、季節ですか」
「はい」
脈絡もなく何でそんなこと聞くのか分からないけど、
「強いて言うなら秋でしょうか」
「秋以外で」
「……なら、春でしょうか」
「春ですね。分かりました」
稲荷様は満足そうに頷いた。
……何が分かったんだろう、と思って団子を齧った時、
「ーーうぉっ!?」
眼下の景色が桜に変わっていた。
一面の薄桃色。
欄干の上にウグイスがとまって鳴き始めた。
「どうですか?」
「す、凄いです!」
「そうですよ。我はなかなか凄いのです」
稲荷様はうんうんと頷いて、
「そんな凄い我から、アル様に一つ質問があります」
「質問ですか?」
「はい」
稲荷様は黄金の瞳で俺を見つめながら、
「何でも一つお願い事を叶えて差し上げます、と言ったら……アル様はどうされますか?」
「……」
「まあ、アル様。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていますよ?」
「あ、いえ……突然のことでしたので」
願い事を何でも叶えてくれるって……そりゃ、ありがたいことだけど、上手い話には裏があるのが相場だ。
「ひょっとして、何か裏があるのではないかと思っていますか?」
「うぇ、いえ、そんなことは……いえ。どうしてそのようなことをしてくださるのか、聞いても良いでしょうか?」
「ふふっ、正直でよろしい。そうですね……我は、二つの種類のお願い事しか叶えないことにしているのですよ。一つ目が、適切な対価を支払っているお願い事。二つ目が、心の底からのお願い事です。アル様の場合は、すでに適切な対価をいただいているので、それに対するお願い事を叶えて差し上げようと考えた次第です」
「対価……私がですか?」
「ええ、対価の支払いは三度、叶えて差し上げたお願い事は二つ。差し引き一つ分余っています」
え、対価とやらを三度も?
というか、
「あの、お願い事を二つも叶えてもらってるんですか?」
「はい、そうですよ。一つは、先ほどの茶柱です」
さっきのあれか……。聖金貨一枚に茶柱一本って、かなり割に合わないな。
「二つ目は、以前叶えることのできなかったお願い事を。我のせいであのようなことになってしまったことを、負の対価と判断して叶えて差し上げました」
以前というと、交通安全、健康祈願のことか。
「とはいえ、今のアル様は疾病にかかることはありませんし、馬車に轢かれた程度では何ともありませんから……さて、どうしましょうかと考えまして。結局、自分ではどうにもならないような状況から、一度だけお助けする、ということにしました……どうやら、既にお役に立ったようですね」
稲荷様は、俺の左手を見て呟いた。
俺もつられるように自分の左手を見て、ふとそこに刻まれていた漢字のようなものを思い出す。
すると、芋づる式に色々なことが腑に落ちた。
朝国で、俺の姿を知らない女の人に変化させた『能力』。
左手の漢字を筆で描いた、着物姿の女性。
「……あの、私は違う姿の稲荷様と既に、この世界でお会いしていますか?」
稲荷様は何も言わずにニッコリと微笑んだ。
「……そして。三つ目の対価は、アル様の差し出した前世の肉体です。その結果として、我の存在は救われました。いわば、命の恩人のようなものですね。我はまだ、それに対するお願い事を叶えていません」
稲荷様は畳のベンチから立ち上がって、舞台の端へと向かって歩き始めた。欄干までたどり着いて、くるりと回って俺の方を向く。
いつの間にか、右手には墨のたっぷり染み込んだ筆を、左手には緑にほのかに灯る巻物を持っている。
「先ほどもお見せした通り、我の力はなかなかのものです。どうでしょうか? 我に叶えてほしいアル様のお願い事、何かございますか? ……何でも一つ、叶えて差し上げますよ」
満開の桜を背景に、狐耳の少女は俺のことを真っ直ぐに見つめていた。
……何でも一つ。
さっき言われた時は戸惑っただけだったが、今になってようやく現実味を持って感じた。
何でも一つ、お願い事を叶えられる。
「……私には昔、大事な人がいたんです。その人を、取り戻すことは……できますか?」
半ば無意識に俺は口を開いていた。
これだけで、俺が言っていることを理解できるはずがない。けれど、稲荷様は全てを見通しているように、薄く笑った。
ゆっくりと波打ちながら、緑の巻物がひとりでに広がってゆく……。
左手に持っていた筆の先を、巻物の上に落として、
「その願い、叶えて差し上げましょう……」
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