01話 『吸血鬼』
目の前には、俺のことを見上げる少女。
前世、今世を合わせても、こんな子は見たことがない。
――完璧だ。完璧な少女がそこにいた。
絹糸のように細く、滑らかな銀髪。
半開きの、桜色の艶やかな唇。
唇の間から覗く、二本の鋭い犬歯。
長い睫毛に縁どられた、大きな目。
綺麗な青色の瞳の中に、俺の姿が映っていた。
「だ、誰なのっ……」
俺が見惚れていると、当の銀髪がそんなことを呟いた。
予想を裏切ることなく、鈴の鳴るような綺麗な声だった。
この子の質問になら、何でも答えてあげたいけど……状況を全く理解できていない俺にとって、すぐに答えられる質問ではなかった。
……というか、ここはどこだ?
さっきまでエンリ村で『儀式』を受けていたはずなのに、突然見知らぬ場所に立っている。
周囲に目を向けると……どうやら、ここは大きな部屋の中のようだった。
薄暗くて、所々で蝋燭の炎が揺れている。
床には巨大な青い絨毯。天井からは豪奢なシャンデリア。少し離れた場所には、大理石製と思しき巨大な机。
そこまで観察した時――
「うわッ!?」
突如、視界を暗闇が覆った。
違う、暗闇じゃない。何か黒いものが、俺の顔面に突進してきたのだ。
反射的に手で叩き落そうとしたが、手応えはない。
宙を切る感覚だけが残った。
再び見えるようになった視界で、黒い鳥が旋回していた。
黒い鳥は部屋の中をぐるりと回って、俺と銀髪の中間で停止した。
――黒い蝙蝠。
翼は動いていなかった。それなのに、なぜか落下しない。
唖然と、謎の蝙蝠を見つめていると、声が聞こえた。
「――封魔結界」
正面からだ。銀髪の声ではない。若い女性の声。
蝙蝠の口の前に、幾何学的な模様が出現する。
模様は、青色の光で描かれていた。
幾重もの円が重なっている。
各円に沿ってギッシリと文字が並んでいて、それぞれの円は、別々の速度で回転していた。
神秘的な光景に目を奪われていると――光円の回転が停止した。
――キンッ。
硬質な音が小さく響く。
同時、俺は囚われていた。
「……え?」
俺の周りに、壁が出現していた。
青色のガラスのようなもので、上下左右を取り囲まれている。
「あなたは何者ですか」
目の前の蝙蝠から、さっきと同じ女性の声が聞こえた。
正直、俺は状況についていけてなかった。
エンリ村から突然知らない場所に移動していて、謎の蝙蝠に話しかけられている――普通の人は、そんな訳の分からない状況についていけない。
蝙蝠の質問に答えることなく、俺は無言で蝙蝠のことを見つめていた。
蝙蝠の前方の光円が、青色に強く輝くのが見えた――
「がッ!?」
耐え難い痛みが襲って、俺は絨毯の上に屈みこんでいた。
み、耳が痛い。
キーンと、耳鳴りがする。
……とはいえ、痛みには多少慣れている。
痛みで動きを止めたら、魔物に殺される――父上から、口を酸っぱくして言われていたことだ。
だから、俺は歯を食いしばりながら、顔を上げた。
そのまま立ち上がろうとして、立ち上がることができないことに気が付いた。
俺を取り囲んでいたガラスの壁が、近くまで迫っている。
さっきまで一辺二メートルくらいだったのが、一メートルくらいに小さくなっている。
それを見て、俺は耳の痛みの原因を理解した。
おそらく、立方体が急に縮んだせいで、瞬間的に気圧が上がったんだろう。そのせいで、耳にダメージが来たんだと思う。
「あなたは何者ですか」
そこまで状況を分析したところで、再度女の声が聞こえてきた。
壁の外で、こちらを見ている蝙蝠。そいつの正面には、依然として光円が浮かんでいる。
さっきと同じ質問。
三度目は無い。直感的に、そう理解した。
「わ、私はっ! アル・エンリという者です!」
必死の思いで答えると、沈黙が場を満たした。
……どう答えるのが正解だったんだろう?
けれど、正直に答える以外のことは、思いつかなかった。
額に汗が滲む。
息をすることもできず……明滅を繰り返す光円を、俺は見つめていた。
「……聞いたことのない名前ですね。どうやってここに侵入したのですか?」
蝙蝠の警戒心に満ちた声。その質問に、俺は言葉に詰まってしまう。
どうやって、ここに侵入したのか――そんなこと、俺が聞きたい。
そもそも、ここがどこかも分からない。
何も分からない。
分かることと言えば、死の瀬戸際に立っていることくらいだ。
だけど、質問は許してはくれないだろう。
気に食わない答えをした瞬間、この蝙蝠は俺を殺す――それは、言われるまでもなく理解できた。
「そうですか、答えるつもりはありませんか」
俺が言葉に詰まっていたのは、ほんの数秒のことだった。
だが、それだけでも、蝙蝠にとって充分だったらしい。
「では、消えなさい」
青く輝く、光円。
蝙蝠の、無機質な赤い瞳。
それを最後に、俺は目を閉じた。
うずくまって、来る痛みに耐える準備をする。
……。
……?
……あれ?
いつまで経っても、痛みが来ない。
恐る恐る、俺は目を開けた。
最初に見えたのは青い絨毯。
顔を上げると……状況はほとんど変化していなかった。
目の前には黒い蝙蝠。その後ろでは、ギュッと目を閉じている銀髪。
さっきと違うのは……俺の周りに、青色のガラスが散乱してること、ぐらいだ。
状況が掴めず、俺は青色のガラスを見つめていた。
すぅーっと、空気に溶けるように、ガラスが消えていった。
「なっ!」
そんな声が聞こえたかと思うと、蝙蝠は身を翻し、後方で尻餅をついている銀髪の顔面に突撃した。
「きゃっ!」
可愛い悲鳴とともに、銀髪は目を開ける。
蝙蝠は、その眼前で翼を広げていた。
「お逃げください! 時間は私が稼ぎますので!」
さっきまでの威圧的な様子とは打って変わって、蝙蝠は切迫した調子の声を出した。
それを、キョトンとした顔で見ていた銀髪は……ゆっくりと、俺に目を向ける。
じーっと俺を見つめてから、小さく首を傾げた。
「でも、そんなに悪い人じゃなさそうなの」
小声で呟いて、立ち上がる。
「ま、マオ様! 近付いてはいけません! こいつは私の結界を……」
銀髪の後ろで、蝙蝠は翼をバサバサさせている。
けれど、銀髪は全く気にした様子もなく……とうとう、手を伸ばせば届く距離まで近付いてきた。
銀髪はしゃがんで、俺と視線の高さを合わせる。
微かに、ミントのような香りがした。
「んっ……」
艶めかしい声が聞こえたと思うと――チクリと、首筋に小さな痛みが走る。
俺の首筋に、銀髪が嚙みついていた。
何が起こっているのか、俺はあまり理解できていなかった。
顔のすぐそばには、銀色の髪の毛がある。
キラキラと光をまとった髪の毛は、翼を避けながら腰の辺りまで伸びている。
銀髪の服には小さな穴が二つ開いていて、手のひらサイズの翼が二本、外に飛び出ていた。
作り物ではない。一目で分かった。
漆を塗ったように艶やかな黒色の翼は、ゆっくりと開閉している。
ぼんやりと、その動きを眺めていると。
「……ん?」
首元から銀髪の小さな声。
「のわっ!!」
叫び声が聞こえたかと思うと、銀髪は俺の胸を両手で押した。
勢いそのまま、たっぷり五メートルくらい後ろに跳んだ。
「コテイの眷属なら、早く言うの! もう少しで、コテイの物に手を出す所だったの!」
もの凄く慌てた様子で、銀髪が言ってくる。
……コテイ?
固定?
なんだそれ?
何のことを言ってるのか、全く分からない。
「なっ! こいつがコテイの!」
銀髪の傍で飛んでいる蝙蝠も、コテイなるものを知っているらしい。
「とりあえず眷属にしようとしたら、先に加護がかかってたの……」
「加護ですか! し、しかし……」
銀髪と蝙蝠はコソコソと何かを話したかと思うと、しばらくして蝙蝠が俺の方へと飛んできた。
俺の正面、一メートルくらいの所で停止すると――突然、白い煙を上げて爆発した。
また何かされるのかと恐々としていた俺は、超展開に混乱しつつ……大量の白い煙が晴れるのを、呆然と待っていた。
「先ほどの無礼、失礼しました! 全て私の独断です。なにとぞ、マオ様はお見逃し頂きたく!」
絨毯に片膝をついて、頭を下げている女の人がいた。
銀髪と対をなすように、金色の長髪だ。
頭を下げてるから、顔は見えない。けど、声は聞き覚えのある物だった。
……そして、青い神官服を着ている。
そういえば、今の今まで意識が及ばなかったけど……銀髪も、身にまとっているのは青色の神官服だ。
ということは……この二人は神官様、なのか?
全くもって意味が分からない。色んなことが一度に起こりすぎて、頭が追い付かない。
とはいえ、一つだけ知っていることがある。
神官様は、俺なんかよりもずっと偉いのだ。
そんな人に頭を下げられると、すごく居心地が悪い。
「あの……ひとまず、頭を上げてくださいませんか?」
「はっ!」
こっちが気圧されるほどの返事をして、金髪の女性は顔を上げた。
キリリとした眉に、意思の強そうな赤い瞳。
真っすぐな鼻梁から、固く結ばれた口元に続く。
顔を勢いよく上げる動きに合わせて、大きな胸元が持ち上がり……重量感を感じさせる動きで、元の位置に戻った。
「……えっと、その……正直なところ、状況が全く分かっていないのです。気付いたら、ここにいて……」
今なら俺の話を聞いてくれそうなので、正直に伝えてみる。
金髪は訝し気な表情を浮かべつつ、俺のことを睨んでいる。
いや、本人は睨んでるつもりは無いのかもしれないが……眼光が鋭すぎて、すごく怖い。
そこへ、黒い翼をパタパタとさせながら、銀髪が歩いてきた。
「つまり、コテイが送ってきたわけじゃないの?」
「……少なくとも、私はコテイって方の名前に聞き覚えがありません。気付いたらここにいて、何がどうなっているのか……」
正直に答えると、銀髪は難しい顔をした。
眉間に、むむっと力を入れて……算数の問題を一生懸命に考えてる小学生のように見える。
こんな状況なのに、思わずほっこりしながら銀髪のことを見守っていると――
「ちょっと来るの」
銀髪が手招きをした。
言われるまま近付いて、その目の前でしゃがみこむと、銀髪は小さな両手で俺の頭を包みこんだ。
……何をされてるのかは、分からない。
ただ、動いてはいけない感じがした。すぐ隣で、金髪が俺のことを鬼のような眼光で睨みつけてるし……俺はじっと動かずにしゃがんでいた。
十分だか十五分だかの間、銀髪はずっと、俺の頭を両手で掴んでいた。
そろそろ足が痺れてきたころ、銀髪は俺の頭から手を離した。
「たしかに、コテイに関する記憶は一つもなかったの」
銀髪は開口一番そう言った。
「なるほど。と、いうことは、処分しても構わないのですね」
傍らから冷たい声が聞こえた。見ると、金髪が赤い瞳で俺のことを睨んでいる。
金髪の腰には、剣なんて差さってない。
鍛えてはいるようだが、ラインハルトのようにバキバキではない。
それだけを見れば、普通は俺に分があるはずなのだが……全くもって、勝てる気がしない。
信じ難いけれど、この金髪の正体は、あの蝙蝠なのだろう。
同じ声だし、金髪から感じる圧迫感も、あの蝙蝠と同じだ。
あの蝙蝠は、俺には理解できない力を使いこなしていた。
似たような不思議な力を使う存在を、俺は一人だけ知っている。
ラインハルトだ。
あいつは、影の中から手を出すという、変な力を持っていた。
『奪嫁の儀式』の後で聞いてみたが、本人もよく分からないと言っていた。
気付いたら、出せるようになっていたらしい。
俺にも不思議な力が備わってるかもと思って、色々試してみたけれど……結局俺には、何も出せなかった。
――この金髪は、持っている側なのだろう。
そして、その力は、ラインハルトと比べ物にならないほど強力。
まともに戦えば、数秒と待たずにお陀仏だろう。
そんな金髪から殺気を向けられて、俺が硬直していると――
「待つの」
銀髪が金髪に声をかけた。
「アルにはコテイに関する記憶はなかったの。でも……コテイの加護が掛かってるのは変わらないの」
殺気が消えた。金髪は困惑している様子で、銀髪を見た。
「それは、どういうことでしょうか?」
「分からないの。でも、コテイの眷属なら、下手に手を出さない方がいいの」
金髪に向けてそう言うと、銀髪は俺へと視線を向けてきた。
「いきなり痛いことしちゃって、ごめんなさいなの。怪我は全部直してみたけど……どうなの?」
言われてみれば……たしかに、耳や頭の痛みだとかが、全部キレイに無くなっている。
「……えっと、はい。痛みとかは無いです」
「よかったの……」
胸に手を当てて、銀髪は心底ほっとしてる様子だった。
そんな姿を見せられると、何でも許してしまえそうな気になる。
まあ、そもそも怒ってなかったんだけど。展開が急すぎて、怒る余裕すら無かった。
「それと……もう一つ、ごめんなさいなの」
銀髪は、しょぼんと肩を落としながら続けた。
「元いた場所――エンリ領に、アルを返すことはできないの。エンリ領には、私から伝えておくの」
「えっ……ど、どうしてですか?」
不思議と、銀髪がエンリ領や俺の名前を知っていたことについては、気にならなかった。
でも、エンリ村に帰れないなんて……いきなり言われて、はいそうですか、なんて言えない。
「それが、アルのためになるからなの。本当にごめんなさいなの」
俯いていた銀髪が、顔を持ち上げた。
瞳から――青色の光が漏れている。
その光を見ていると……なんだか、ぼーっとしてくる感じがした。
頭の中では、走馬灯のように、エンリ村の人たちの顔が流れていく。
「……せめてものお詫びなの。私にできることなら一つだけ、何でも聞いてあげる。言ってみるの」
青色の光は、だんだんと強くなっていくようだった。
その光を目に捉えながら……俺は走馬灯の最後に、ある一人の人物を見ていた。
どうしてだろう?
あんなに強く、忘れないと決心していたのに……いつの間にか、忘れていた人。
……ひょっとしたら。
この子なら、見つけてくれるかもしれない。
「――」
自分の声は、もう聞こえなかった。
……ちゃんと、言えただろうか?
どんどん強くなる、青い光を見ていると……思考が次第に溶けていく。
「……分かったの。だけど、条件があるの。アルが今いるこの場所に、もう一度帰ってこれたら……その時は、望みを叶えてあげるの」
その言葉を最後に、俺の意識は闇へと落ちていった。
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