05話 『音無の森 三』
「今日はこれくらいにしましょう」
茜色に染まってきた空を見つめながら、神官様が言った。
ラウラのことを思うと、もっと急がなきゃという気持ちになるけど、ただ運んでもらってるだけの身なので何も言えない。
それに昨日の晩、私が眠りこけちゃったせいで神官様は不寝番をしているのだ。
幾ら神官様が常人離れしてるとは言っても、眠らないと死んでしまう……と、思う。たぶん。
ーー
秋になると、夕焼けが夜に変わるまではあっと言う間だ。
できるだけ手早く夕食を済ませたつもりだったけど、食べ終えた頃にはすっかり日は沈んでしまっていた。
「明日も早いですし、ビビアナさんはもう休んでもらっていいですよ」
食事の片づけをしようとしていた私に、神官様がそう声をかけてきた。
「えっ、いえ、やりますよ? 神官様の方こそ休んでください」
「いえいえ。食事の準備をしてもらって、そこまでやってもらうわけにはいきませんから。あまり自分では分からないかもしれませんが、慣れない環境でビビアナさんも疲れてるはずです。少しでも長い時間ぐっすり眠って、しっかり体力を回復してください」
私は思わず神官様の顔をマジマジと見つめてしまった。……今、神官様、ぐっすり眠ってって言った? もしかして、二日連続で不寝番をするつもり?
「……神官様はどうされるんですか? 私が休んでしまったら、神官様は?」
「私は大丈夫ですから」
そっか、大丈夫なのか。神官様がそう言うんなら、たぶんそうなんだろうと思う。今日一日で、神官様がどれだけ常人離れしてるか分かったから、あまり驚きでもない。
神官様は枝の上を馬車よりも早く飛び跳ねられるし、一級冒険者が数十人束になっても敵わない魔物を不思議な力で一瞬で倒しちゃうし、ついでに寝なくても大丈夫なのかもしれない……。
私は手に持っていた鍋を地面に置いて、神官様の手から器をひったくった。神官様にとって予想外だったのか、目を真ん丸にしてる。
「私の方が余裕です。私、神官様にずっと運んでもらってただけですからね! むしろ、体力が有り余って困るくらいです!」
「え、ああ……そうですか?」
「そうなんです!」
ふんっ、と鼻を鳴らして、私は手に持ってた器を鍋の中に突っ込んだ。それから鍋を持って、
「だから片付けと不寝番は私がやります」
「ですが」
「――神官様の方こそ、休んでください!」
大声で言うと、神官様は驚いた顔をした。私は、その碧色の瞳を見つめながら、
「私、そんなに頼りになりませんか? 私だって銀級冒険者ですっ。確かに、神官様と比べたら塵みたいなものですけど、それでも、少しくらい頼ってくれたって……」
……言っているうちに段々冷静になってきた。それに応じて、尻すぼみに声が小さくなっていく。
私、何やらかしちゃってるんだろ。よりにもよって神官様を怒鳴りつけるなんて、分不相応にも程がある。
……もちろん、神官様は怒ったりしないだろうけど、それを見越したうえでこんなことをしちゃう自分に嫌気がさす。
案の定、神官様は頭を下げて、
「……そうですね、すみません。確かに、一人前の人に対して失礼でした」
神官様は顔を上げて、
「では、お先に少し休ませてもらいます。三刻ごとに交代、でいいですか?」
「は、はいっ! 大丈夫です」
「それでは、頼みました」
――
寝つきが良いのか、少しと経たずに神官服を布団代わりに眠り始めた神官様を見つつ……私は、神官様の『頼みました』という言葉を頭の中で反芻していた。
さっき自分に嫌気がさしたばっかりなのに、『頼みました』と言われただけで嬉しくなってしまう自分の単純さに呆れてしまう。
――神官様から視線を外して、夕食の後片付け始める。まず、鍋を洗わないと。
手に鍋を持って目指すのは、数メル先にある池。
中身は大して汚れてないから軽く濯ぐだけでいいんだけど、面倒なのは鍋の外側だ。焚火の炭がこびりついてるので、擦り落とさないといけない。
面倒くさがってちゃんと落とさないと、炭の上にさらに炭が重なって、後からひどく後悔することになる。だから、炭はさっさと落とすのが鉄則だ。
藁を束ねた物で擦ると綺麗に炭が落ちるんだけど、生憎と街中でもなければそんなものを持ち歩いてるわけもない。そういう時に役に立つのが――
右手で砂をすくい取って、それで鍋を擦る。すると、かなりの炭が取れた。
――こうやって、砂を使うのが効率がいい。クマススで、先輩の冒険者に教えてもらった。
何度か繰り返していくうちに、気にならない程度に鍋が綺麗になってきた……と、思う。日が沈んじゃってるので、焚火と月星しか光がない。なので細かい所までは見えないけど、たぶん大丈夫だと思う。
最後に鍋の内側と外側を濯いでから、腰に提げてた布で水気を取る。鍋を地面の上に置いて、
「ふぅ……」
腰を伸ばす。取りあえず、一段落。あとは器と火箸を洗うだけ。
神官様との交代まで二刻半以上。時間はたっぷりある。急ぐ必要もない。むしろ、できるだけゆっくりした方がいい。不寝番の最大の敵は、退屈さと眠気。何か作業をしてないと自分に負けてしまう。
腰を伸ばしたまま空を見上げる。
幾つか雲があるけど、秋の空に典型的な細長い形。だから、雲に覆われてる範囲はそんなに大きくなくて、大部分の星空がちゃんと見える。
ただただぼぉ~っと星を眺めてると、ふと、小さい頃のことを思い出した。昔、確か……七か八歳の時。ラウラと一緒に星空を眺めながら、星占いっていうのをやったことがある。
もちろん、ただのお遊びだ。そんなことは当時も分かってたけど、旅商人のおじさんから教えてもらったその日に、早速やってみたんだっけ。
まずーー
両手で丸を作って、それを利き腕と同じ方の目で覗き込む。
そして、見えた星の数を数える。
次に、利き腕と逆の方の目で覗き込む。
同じように星の数を数えて、それを、さっきの数と足してあげる。
その数が、あなたが死ぬまでの年数です。
……今から思うと、なんでこんな不吉な星占いをしたのか不思議だ。当然、今の状況でやってみる気にはならない。
視線を空から前に戻す。目の前には細長い形の池が広がってる。長さは十メル、幅は五メルくらいかな。この森で何個も池は見てきたけど、比較的大きい方の池だ。
これだけ大きい池だったら魚でもいそうなものだけど、水音一つしない。夜の森はシンと静まりかえってて、焚火の弾ける音だけが場違いに響いてる。
やっぱり不気味だけど……音が無い分、景色は綺麗。鏡面のように凪いだ水面には、もう一つの星空が広がってる。
――チョ――ダイ――
すぐ傍から声が聞こえた。
視線を下に向けると、そこには私がいた。
水面に映る、もう一人の私。
唇がニィッと裂けた、満面の笑みの私。
「――っ」
喉がひゅッと鳴った。
声は出なかった。
水の中から腕が伸びる。
生っ白い腕が私の手首を掴む。
ヒンヤリと冷たい手のひらは、滑っていた。
信じられないほどの力で引っ張られる。
抵抗する間もなく池に引き摺り込まれる直前ーー
――碧い霧が私を覆った。
「目を閉じて」
そんな声が聞こえた瞬間、私は身体に染み込んだ習慣の通りに、ぎゅっと目を閉じていた。
同時、瞼の裏側が真っ白に染まった。
「ーービビアナさん、大丈夫ですか?」
肩に手を置かれる感触がした。私は恐る恐る瞼を開いて……隣に屈んでる神官様を見上げる。
「大丈夫、ですか? 怪我とか?」
神官様は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「う、あ……はい。ちょっと驚いただけで……怪我は、ないです」
「そうですか、よかったです」
神官様はホッとした様子で呟いてから、私の隣に置かれていた鍋を持ち上げた。
「取りあえず、池から離れませんか? おそらく、少なくともすぐには出ないとは思いますが、念のため」
私は弾かれたように立ち上がった。
さっきの、水の中の私。あの時は突然のことだったから何も考えられなかったけど……今から思い出して、ゾッとする。
もしも神官様が助けてくれなくて、『あれ』に引き摺り込まれてたら……どうなってたんだろう。
ブンブンと頭を振って、神官様の傍に寄る。こっそり神官様の服の裾を指先で摘まんだんだけど、神官様は何も言わずにいてくれた。
池とは焚火を挟んで反対側に、神官様と二人並んで座る。
「心配しなくて大丈夫ですよ」
落ち着いた声で神官様が呟いた。
「ビビアナさんのことは、私が守ります。また『あれ』が来ても」
「……はい」
どうしてだろう、何だか身体が熱い。神官様の声を聞いてるだけで、隣に座ってるだけで……。
引かれるように、神官様にもたれかかろうとした、ちょうどその時――
「では、私は眠るので二刻後に起こしてください」
神官様はそれだけ言うと、目を閉じてしまった。唖然とする私を他所に……少しすると、スース―と寝息を立て始める。
「……」
まだ火箸と器の片付けが終わってないけど、流石に池に近寄る気にはならない。……これからは、神官様に片づけを頼むことにしよう。何てったって、神官様は寝なくても大丈夫なくらい頑丈らしいから。
そう決心して、私は焚火に両手をかざした。
何だかちょっと肌寒い。
もうすぐ冬が来る。
○○○
二回目の朝。
サッパリとした目覚め……とは、口が裂けても言えない。
精神的にはすっごく疲れてたんだけど、眠りに落ちる寸前に、水の中に見えた『あれ』の笑顔を思い出してしまって、ぜっんぜん眠れなかった。
自分では見えないけど、目の下に隈ができてるんじゃないかなぁ~と思う。恥ずかしい。年頃の乙女にあるまじき醜態だ。
冷たい水で顔を洗ったら多少はマシになるかなと思って、池に爪先を向けて……躊躇する。
もう日はすっかり昇ってるから、辺りは明るい。だから、池の中に何もないことがはっきり見えるんだけど、それでもやっぱり怖い。
「大丈夫ですよ。近くに魔物の気配はありません」
さっきまでは丸太に座って何かをしてた神官様が、いつの間にか私の隣に立っていた。神官様が自然な足取りで池へと向かうので、私の足も釣られて動く。
数歩も歩けば池の正面で、神官様はそこで足を止めた。波一つ立ってない水面は大きな鏡みたいで、二人並ぶ私と神官様の姿をクッキリと映している。
私は、私の姿を見つめながら、
「……あれって、魔物だったんですか?」
少なくとも私が知ってる魔物はあんなのじゃない。見た目はほとんど野獣と同じで、違いと言ったら倒した時に魔石に変化するかどうか、くらいの認識しかない。
『あれ』は人間――真似た人の姿をしてた。しかも、何を言ってたのかはよく分からなかったけど、何か話してたような気もする。あの姿で街に出現しても、魔物だと気付く人はいないと思う。
「魔物、の一部だと思います。倒した後に魔石が残ってませんでしたし、そもそも姿を変えられる魔物にしては気配に乏しかったですから。まぁ、気配を隠すことのできる魔物もいますが、そうだとするならちょっと力不足かなと」
魔物の一部? よく意味が分からないけど、
「えぇと……それは、また出るかもしれないってことですか?」
「可能性はあります。でもあまり心配しなくてもいいですよ。あの程度の魔物なら、確実に処理できますから。くれぐれも、私の視界から出ないようにお願いします」
「はいっ。気を付けます」
神官様はぽんっと私の肩を叩いてから、また丸太の方へと戻って行った。
……神官様の背中から視線を外して、水面を見つめる。そこに浮かぶ私は……何と言うか、不細工だ。粘土で固めたみたいな強張った表情。
唇の端っこを、むにゅぅ、っと摘まんでみる。いつも仏頂面のラウラに、私がたまにやってあげてるみたいに。しばらく唇を上下に動かしてから手を離すと、心なしか美人になった気がした。
あとは……やっぱり、目の下に隈が出来てるみたい。
私はその場にしゃがんで、両手でお椀を作った。池に入れるとヒンヤリと冷たい。バシャバシャと何度か顔を洗うと、サッパリと目が覚める。視界が少しだけ明るくなる。
その視界の端っこに、何かが過った。ちょっと気になって視線を戻すと、そこには草が生えていた。一見地味なただの草。
「……神官様」
立ち上がった私が呼ぶと、神官様は私へ目を向けてきた。
「あのっ……もしかしたら、森を脱出できるかもしれません」
○○○




