03話 『音無の森 一』
「ビビ」
地面から視線を外すと、ちょっと怒った顔でラウラが私を見下ろしていた。
「奥に行き過ぎたら駄目」
言われて初めて気付いたけど……周りを見てみると、確かに川からかなり離れてしまってる。夢中で獲物を追いかけてる間に、ここまで来てしまったらしい。
「だって、すっごく豊作なんだもん」
私は上機嫌で、掴んでいた欠伸草を腰籠に突っ込んだ。腰籠は三のニくらいは一杯になっている。これだけあったら、銅貨八十枚……いや、銀貨一枚は固い。地面から立ち上がって――そこで、ラウラの顔色がちょっと悪いことに気が付いた。
「どしたの? 体調でも悪いの?」
「ビビ……もう帰らない? あんまりよくない気がする」
「よくない気?」
聞き返すと、ラウラは周りへと目を向けながら、
「……上手く言えないけど。なんというか、不気味な感じ……」
ラウラに言われて、私も森へと意識を向けた。普通の、どこにでもある森。特段おかしな所はない。
「もぉ~、何言ってるの? お化けでも見たの?」
「……」
いつもは茶化したら怒るのに、何も言い返して来ない。真剣な表情で森の奥を睨んでいる。
……もう一度、今度は真面目に森を確認してみる。
やっぱり、特段変な所なんてない……普通の森。普段人が入ってないせいか、ちょっとだけ鬱蒼としてる感じだけど。今は真昼なのに薄暗い。
……確かに不気味とは言えなくもないけど。
「う~ん。ま、こんなに沢山採れたんだし、そろそろ帰ろっか」
私がそう言うと、ラウラはあからさまにホッとした顔をした。そんな顔を見せられると、ちょっとからかいたくなってくる。
「――と、その前に」
「ちょ、ビビ!」
森の奥へと向かって、五メルほど駆ける。勢いそのまましゃがみこんで、遠目にも目立っていた白葵を採取する。
白葵は香りが強いから、肉の匂い消しに使える植物だ。今日の夕飯用にちょうどいい。白葵を腰籠のてっぺんに放り込んで、私は立ち上がった。
「えへへ、驚い――」
――た――
最後の言葉が、やけに大きく森に響いた。
「え……」
振り返ったそこには、誰もいない。
「ら、うら……?」
ポツリと呟いた瞬間、木立の間を冷たい風が吹き抜けた。枝が揺れて、葉が擦れる。
数枚の木の葉がヒラヒラと舞い落ちて、木の葉の絨毯の上に降り積もった。
風が止んだ。
私が少し動くたびに、足元で木の葉が砕ける。
やけに遠くから聞こえる、川のせせらぎ。
そこでようやく……音がしないことに気が付いた。
秋の森を満たしているはずの、当たり前の音。
果実を啄む小鳥のさえずり。
木の幹を駆け上がる栗鼠の足音。
土の下を虫が這う、微かな騒めき。
――そんな音が、一つもしない。
ゾワリ、とした。
嫌な感じ。何か、取り返しがつかないことが起こってしまった様な。
私は森の奥へと目を向けた。
何の変哲もない、よくある森。昼でも薄っすらと暗い、吸い込まれそうな……。
思わず、両手で二の腕を擦る。
鳥肌が立っていた。
無意識に後ずさりすると、足元で木の葉が砕けた。その音が思った以上に大きいことに驚いて、足を止める。
……いや、そんなに大きい音じゃない。ただ……周りが静かだから、木の葉が砕ける音が大きく聞こえただけなんだと思う。
そうやって頭では分かってるのに、一歩も動けない。なんだか……何かに、足音を聞かれている気がして。
何か怖い物が、森の奥から私のことをジッと見ている気がする。もちろん、気のせいだとは分かってる。小さな子どもが、暗がりを怖がるのと同じ。
……ここで立ち止まってたって、どうにかなるわけじゃないよね。
精一杯の意志の力を振り絞って、足を踏み出す。とにかく、ラウラを探さないと。私が目を離してる隙に先に行っちゃったのかな? たぶん、そうだと思う。森の奥に行くわけがないんだから、森を出る方向――川に向かってるはず。
だから、川のせせらぎを目指したら、ラウラはいるはず。せいぜいが十数メル。そんなに森の奥にいるわけじゃない。十歩も歩けば川が見える。そしたらラウラと合流して、こんな薄気味悪い場所からさっさと離れよう。
ザックザックと、地面に降り積もった木の葉が砕ける。
……私の足音だけが聞こえる。
頭を振って、前を向く。もう、川が見えるはず。水が岩にぶつかる音がする。もう、森を出る。あと、三歩。三歩歩けば川が見える。
そのはずなのに、一向に川が見えない。
いつの間にか、私は走っていた。
もう、二百メルは走った。
いつまでも木立が続いている。
薄暗い、静かな森。
怖くなって、足が止まった。
「はぁ……はぁ……」
膝に両手をついて、息を整える。
脂汗が額に滲む。喉が渇く。
頭が真っ白で、何も考えられない。考えたくない。目を閉じて、自分の荒い息だけを聞く――。
ハッ、として、私は顔をあげた。
「あ……」
……川の音が聞こえない。
何も、聞こえない。
自分の息と、忙しい鼓動の音だけ。
確かに、川の音に向かって走ったはずなのに。
心臓が小さく縮むような気がして、私は即座にその場で回れ右をした。
走る。
走る。走る。
とにかく、さっきまでいた場所に戻ろう。
そしたら、また……。
――
……どれくらい走ったか分からない。
足を止めてしまったらもう走れないと分かってたから、息が続くまでずっと走ってた。
とは言っても、私はか弱い乙女なので、せいぜいが数キル程度のものだろう。力尽きて、木の幹を背凭れに座り込んでいた。
シン、と静まりかえった森の中で、空を見上げる。木の葉の隙間から見える、真っ青な空。
「あーあ、今日は野宿かぁ……」
ポツリと呟く。
返事はない。
野宿は嫌だけど……せめて、ラウラと一緒だったらな。
こんな状況でも、ラウラが一緒だったら……もっと、ちゃんとできるのに。冗談でも言って、笑い飛ばして……でも、私一人だったら、立ち上がる気力すら湧かない。
○○○
何かが弾ける音がした。
薄っすらと目を開けると、赤い……赤い?
一気に目が覚めた。
……どうやら、炎の色だったらしい。
そして、焚火の傍に座ってる人影がある。
「目が覚めましたか?」
「――えっ、あっ……は、はい」
慌てて返事をして、
「あ、あの……あなたは?」
「……アルと言います」
「アルさん」
話してるうちに、ちょっとずつ眠る前後の記憶が戻ってきた。越えちゃいけないって言われた川を越えて、ラウラがいなくなって……。
「――ラウラ」
そうだ。ラウラとはぐれたんだった。
慌てて身体を起こして、周りを見渡す。
暗い視界の中央には揺らめく焚火。そのすぐ傍に転がってる丸太の上に、アルさんが座っている。そこから視線を移しても、ただ暗がりが広がってるだけで誰もいない。ラウラの姿はない。
「あっ、あのっ! 私、実は仲間の子と一緒にこの森に入って、はぐれちゃって。それで、その……アルさんはその子のこと見ませんでしたかっ? 私と同い年くらいで、黒い髪の毛を眉毛くらいの高さで切り揃えてる子ですっ!」
私が藁にも縋る思いで聞くと、アルさんは言いにくそうな顔をしながら、
「すみませんが、見てません。この森に入ってから人と会ったのは、あなたが初めてですから」
「そ、そう……ですか……」
激しく燃えていた炎が、あっけなく消えてしまったような気がした。期待した分だけ、それが弾けた時には気分が落ち込む。
前に乗り出していた身体が重さに引っ張られて、背中が木の幹に着地する。木が揺れて、数枚の木の葉がヒラヒラと落ちてきた。
木の葉を目で追っていると、その内の一枚がちょうど私の方まで流れてきた。都合、視線が自分の身体に向いた。
その時、初めて自分の身体に布がかけられてるのに気付いた。私のじゃない。すっごく滑らかな手触り……こんな高級品、私は持ってない。
アルさんがかけてくれたのかな?
両手で広げて見ると、外套だ。袖が付いてる。
――キラリと、何かが光った。
なんとなしに目を向けると、外套の肩に刺繍がしてある。これが焚火の炎を反射して光ったらしい。
――三円環――
教会の印。
これが肩に刺繍された外套……って……え。
「あ、あ、あ、あの……一つ聞いてもよろしいですか?」
「はい」
「アルさん。いえ……アル様は、もしかして神官様なのでしょうか?」
「……少し違いますが、まぁ……そんな感じです」
私は疾風の如く駆けた。勢いそのままアル様の足元に跪く。もちろん、アル様のお召し物は両手で捧げ持って、少したりとも汚れないように。
「先ほどは失礼な言葉遣いをしてしまって、ごめんなさいでしたっ! それと、この……これ、ありがとうございましたっ!」
自分が何を言ってるのか良く分からない。すごく早口になってる気がする。
……神官様のことは、村にいた時に何度も見たことがある。村長さんがペコペコしてたから、何だか偉い人なんだなぁ~と思ってたけど、クマススに出てからその感覚が大きな間違いだと分かった。
クマススに来て初めて見た『儀式』。そこで初めて領主様――私からしたら雲のずっと上の人を見た。そのクマススの領主様が、神官様にペコペコしてる姿を。
――顎に沿って、タラリと汗が垂れた。
もしも……神官様の機嫌を損ねたら……。
……ドクドクと鳴る心臓の音に混じって、
「そんなに畏まらなくていいですよ。あんまり馴れ馴れしくされても困ってしまいますけどね」
苦笑交じりの声が聞こえてきた。
……良かった。マトモな神官様だった。たまにいる居丈高な感じの人じゃなかった……。
内心安堵しつつ顔を上げて、私は初めて神官様の顔を間近から見た。
光を纏ったかのような金色の髪の毛に、炎を映した瞳。……何だか、こっちが恥ずかしくなってしまうくらいの美男子だ。たぶん……女装とかしたら、私なんかよりも美人さんになるんじゃ?
ぽ~っと神官様の顔を見つめていると、ニコッと神官様が微笑んだ。
「それは貴方が着ていてください。夜は冷えますから」
「え、いえ、でも――」
私は、手のひらに載っている神官服を――肩の三円環を見つめた。
……正直、こんなの着たくない。絶対にお腹が痛くなる。確かにちょっと肌寒いけど。
「あの、ありがとうございます。でも……流石に」
「遠慮しなくていいですよ」
「いえ、その」
「……まぁ、そうですか――ところで」
神官様は服を受け取りつつ、
「貴方のことは何と呼べばいいですか?」
「あっ、私はビビアナと言います」
「ビビアナさんですね。おそらく、これから数日間の付き合いになると思います。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願ーー」
私は深々と下げていた頭を思わず持ち上げて、
「……え? 数日間?」
「実は、私も迷子でして……教会からの救助を待っている状況です」
「迷子って――あのあのっ、私……こう、この森に入ってからおかしくて。仲間の冒険者と二人で入ったんですけど、さっきまで目の前にいたはずなのに突然いなくなっちゃって。それで、急いで森を出ようとしたのに出られなくて……神官様も私と同じってことですか?」
「そうですね――あっ、座って下さい。そこに」
神官様は焚火の対面を指差した。そこには神官様が座ってるのと同じような丸太が転がってる。私が眠ってる間に用意してくれてたらしい。
「わっ、ありがとうございます!」
私が座るのを待って、神官様が口を開いた。
「私もだいたい同じです。この森に入って、気付いた時には迷っていました。当然、即座に脱出を試みましたが……それが、おおよそ五日前ですね」
「えっと……神官様でも、この森から出ることが難しい……んですか?」
「恥ずかしながら」
神官様は唇の端を歪めつつ答えた。
「すでに五日経過しているので、教会は私がマズイ状況にあることを把握しているかと思います。もう自力で脱出することは諦めたので……先ほども言ったように、教会の救助待ちをしているわけです」
「五日も……」
地図で見た限り、この森はそこまで大きくないはずだ。もちろんそれなりの大きさはあるけど、丸一日真っすぐ進んで外に出られないなんて大きさじゃない……やっぱり、この森は普通じゃないんだ……。
「あのっ、神官様。一つ、いいでしょうか?」
「どうぞ」
「その、さっきも言ったんですけれど……私、この森の中で仲間の子とはぐれちゃって。それで、その子も多分、私たちと同じように森の中で迷ってると思うんですけど……大丈夫なんでしょうかっ? もしかして、今、危ないことになってたりとか――」
神官様でさえ五日も抜けられない森。そんな異常な場所が、安全だとは思えない。嫌な想像ばかりが頭を過る。
神官様は一度目を閉じてから、小さく溜息をついた。
「ここで嘘を吐いても意味がありませんし、正確に言いますが……五分五分という所でしょうか。この森に魔物はほとんどいません。しかし、ゼロではありません。そして、それはそこそこ強力な魔物です。一般的な冒険者がまともに戦っても、勝つことは難しいと思います。ただ――」
神官様は真っすぐ私の瞳を見つめて、
「それはまともに戦った場合です。魔物から隠れ、見つかりそうになったら全力で逃げる。それを徹底していれば、生き残れる可能性もそれほど低くありません。その仲間の方の実力次第です。ビビアナさんがその方の実力を信頼しているのなら、再び会えると信じるべきでしょう」
私は返事をすることが出来ずに、無言で頷いた。
心の奥に鋭い針が刺さったような気がした。私が、川を越えようなんて言ったばっかりに、こんなことになっちゃった。しかも、私じゃなくてラウラだけ独りで、危険な状況にある。
もちろん、私はラウラのことを信頼してる。これまでずっと、私のことを護ってくれた親友だから。だけど、楽観的にはなれない。私のせいで、っていう気持ちと混ざって、頭の中がグチャグチャになる。
神官様は、何も言わずに黙っていてくれていた。
私は、ジッと、揺らめく炎を見つめていた。
知らず知らずのうちにウトウトとしていたようで、気付けば空が白んでいた。
○○○




