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29話 『一騎打ち 前編』



「……貴様、死のうとしているだろう」


 ナジャーハ様は、呟くように言った。けれど、その声は不思議と、俺の耳によく染み渡った。


「死のうと……え? いえ、私がですか?」

「そうだ」

「それは……そんなこと、ないですよ。そもそも、死にたいなんて一度も考えたことないですし」

「いいや、違うな。貴様は自分では気付いていないだけで、そう思っているはずだ――今の状況そのものが、それを表している」

「今の、状況……?」


 ナジャーハ様は切っ先を床に突いて、


「大した理由もなく、こんな死地にノコノコと来ているだろう」

「ですから、それはナジャーハ様から理由を聞きたくて――」

「本当にそうか?」


 トン、と。ナジャーハ様は、もう一度切っ先を床に突いた。


「本当に、そうか?」

「……はい」


 俺は……困惑しつつも頷いた。


 実際、俺は死にたいなんて一度も思ったことはない。そりゃあ、まあ、エンリ村にいたころに、村の女子から迫害されて泣きたくなったことはあるけど……せいぜいが、その場限りの感情だ。本気で思ったことなんてない。


「ふんっ……そう言い切るなら、それもよかろう。だが、貴様の言うことが本当なら、私がこのようなことをした理由さえ知れたらなら、貴様がここにいる理由はなくなるはずよな?」

「それは、そう……ですね」


 俺が応えると、ナジャーハ様は床から切っ先を引き抜いた。次いで、鞘の中に刀を納める音が聞こえた。


「なら、望みの通り、理由を聞かせてやろう――」


 ナジャーハ様の声の余韻が闇に消えていく中、代わりに浮かび上がってくるものがあった。


 それは――緑の光。


 ナジャーハ様が胸元にまで持ち上げた、手。その甲で文字が輝いていた。



 ――『椛』――



 あれは……。


 ナジャーハ様の顔は、緑の光で下から照らされていた。誇らしげな表情で、


「貴様が脱走した後、私は一人でメフィス・デバイに戻った。そして、その場で憲兵に拘束された。やはり昼間の件がマズくてな。一瞬逃げようかとも思ったが……どこかの奴隷に裏切られた私には、それほどの気力が残っていなかった。大人しく掴まって、獄に突っ込まれたよ――そして、そこに顕現された」


 うっとりとした――どこか焦点の合っていない目を柔らかくして、ナジャーハ様は手の甲に頬ずりをした。


「デル・ト・アメルナが、私の元に来てくださった。私の身体に証を刻んでくださり……そして、おっしゃったのだ――『憂いている』と。『信仰を弄び、私欲を満たしている輩がいる』と。……貴様はアメルナのことに疎いから知らないだろうが、現在のアメルナは大臣どもが牛耳っている。もとは、祭祀官だった者どもだ。しかし、長い年月をかけて、彼らは私欲に溺れるようになっていた――そして、そんなことはメフィス・デバイの誰もが知っていたのだ」


 目を伏せて、ナジャーハ様は手を下ろした。途端に、緑の光が消えてしまった。荷車の中が、再び暗くなる。


「知っていて、大抵の者はそれを放置していた。私は幾らかの問題意識を持ってはいたが……せいぜいが、将軍として多少は現状を改善しよう、程度にしか思っていなかった。そして、あの教会の武人――フレイ・フィーネと言ったか? 貴様とともにいた、あの男だ」

「はい」

「フレイに一騎打ちで敗北した私は、もともと大臣どもから敵視されていたこともあって、将軍の任を解かれた。そこまではいい。そこまではいいが……その後、私は奮起するでもなく、折れてしまった。正直に言おう。私は、どうとでもなれ、と思っていた。生き恥を晒してしまった私に、なんの価値があるのか。こうして伝達官として生を終えることになるなら、こんな生には意味がない、とな。……そんな時に、貴様と出会ったのだ」


 突然俺の話が出てきて、内心少しだけ動揺する。


 ナジャーハ様の小さな笑い声が聞こえてきた。


「貴様がどういうつもりだったのかは知らないが……バレバレだったぞ、貴様がアメルナの民ではないことはな」

「えっ……」

「それはそうだろう。最初こそ、大臣の手先かとも思ったが、それにしてはあまりに物を知らなすぎる。まぁ……そんなことも、どうでもよかったが。殺したいなら殺しに来ればいい、気が向けば殺されてやるし、向かなければ返り討ちにしてやろう、程度に思っていた。まさか、教会の武人だとは思っていなかったがな」

「……では、敵だと分かっていて、私に剣術の稽古を付けてくれたり、色々教えてくださったのですか?」

「そうだな。暇だったし……それに、貴様の筋がなかなか良かったのもある。玉鋼は、打たねば惜しいものだ」


 ……これは、褒められていると思っていいんだろうか?


 だとしたら……かなり、嬉しい。


 俺よりも強い人はたくさんいるけれど――例えば、フレイさんとか風音聖官とか、あとは聖女様とか――この人たちの持っている『能力』が、俺より強力なのは確実だ。


 だから、心のどこかでどうしても、それは『能力』が俺よりも強いからだ、と言い訳してしまう自分がいる。


 その点、ナジャーハ様は『能力』なしで、純粋な自分自身の力だけで……たぶん、俺よりも強い。だから、俺はなんの言い訳をすることもなく、ナジャーハ様を尊敬することができる。


 そんなナジャーハ様に褒められたら……そりゃぁ、やっぱり嬉しい。


 内心、悦に入っていると、


「貴様のおかげだ、私が今こうしてここにいるのは」


 ナジャーハ様が、しみじみと言った。


「私の?」

「ああ、そうだ。貴様のおかげだ――貴様が、私にアメルナを捨てるように誘ってくれた。だからこそ私は、自分がアメルナのことを愛していることを再確認できた。貴様が私自身のこの気持ちに気付かせてくれたから……私は、デル・ト・アメルナが顕現なされた時に、すぐ決心がついたのだ。――この国を変えよう、と」

「……だから、こうやって、一つの軍隊を強奪したんですか」

「そうだ。私は国を変えるために、この軍を強奪した。この軍とともに、メフィス・デバイを落とす」


 ……前までだったら、こんな話には現実感がなかったのかもしれない。


 でも実際、二千年続いた王国は、ついこの間滅んでしまった。名目上はまだハインエル王国は存在しているが、ハインエル王家は途絶えてしまった……実質、滅んでしまったようなものだろう。


 だからこそ、ナジャーハ様の言葉は夢物語に聞こえないし……たぶん、朝国の人たちにとっても、それは現実の話だ。


「どうだ?」


 ナジャーハ様の声に、俺は我に返った。


「どう……とは?」

「私の行動の理由を知って……それで、貴様がここにいる理由は、他には微塵も残っていないのか?」


 俺が、ここにいる理由。無事に帰れるかどうかは別として、帰れたとして……。


 朝国軍が撤退するのを見送って、教会に帰還して、それから、華に戻って……。


 ……どうして、ナジャーハ様の話を聞く前と、ほとんど気持ちは変わらないんだろう?


「黙っているのを見るに、図星だったのではないか?」

「いや、そんなことは……だって、たとえそうだとしても、死にたいだなんて」

「しかし、そうだろう? 私の話を聞くという理由がなくなったのなら、そこに残っているのは、敵地の只中という状況だけだ。つまりは、貴様はその状況を望んでいたということだろう」


 俺が、危険な状況を望んでいた? ……そんな馬鹿な。


 でも……確かに、自分でも自分の行動がよく分からない。


 単身で敵地のど真ん中に突っ込んで、しかも、その行動に何の理由もないんだとしたら……その行動自体が目的だったことになる。


 そうなのか? いや、そんな……だって、まだやりたいことがたくさんある。


 前世は十八で死んで、今世もまだ同じくらいしか生きてない。


 一人前の大人になりたいし、中年くらいになって師匠みたいに弟子を教えたり……ダンディな爺さんにも憧れる。それに、俺に可能なのか分からないけど、子どもとか……父上が俺にしてくれたみたいに、剣の稽古を付けたり。


 ほかにも、たくさん。


 父上と母上、ラインハルト、ミーシャさん……もう、しばらく会ってない。


 マエノルキアにもう一回行って、アトラス医師やマエノ医師に挨拶がしたい。


 ……エトナとは、また会えるか分からないけど、成長した姿を見れたら嬉しい。


 イーナとかお義父さん、お義母さん、黒衣衆たち。会えなくなるなんて、考えられない。


 それに……ロンデルさんだって。ようやく、手掛かりを得られたかもしれないのだ。話したいことが、たくさんある。


 これまでだって、こんなにたくさんの人たちと会えたんだから……これからも、たくさんの大事な人と会えるはずだ。それを全部捨てることを、俺が望んでるわけが――


「あ……」


 そうか、俺は――


「違う」


 絶対に違う。そんなわけがない。


 俺は……自分に失望したくない。


「ここまで言っても否定するなら、私もこれ以上は言うまい。だが、私は優しい主人なのでな。所有する奴隷の気持ちを汲み取って、ここで首を刎ねてやろう」


 冷たい声とともに、凍った何かが喉に突き立つのを感じた。


「――ッ!?」


 間一髪で、真後ろに跳ぶ――いや、転んだ。足がもつれて、俺は床に尻餅をついた。


 頭のすぐ上を、風が走った。



 ――キンッ――



 そんな音が聞こえて……暗闇の中を数瞬、沈黙が満たした。


 ……まず、白い線が見えた。


 真っすぐ、横一文字の白い線。


 次いで、何かが擦れるような音がする。


 それと一緒に、白い線がどんどん太くなってゆく。


 その時になって、俺はようやく……荷車が両断されたのだと気付いた。


 あまりにも滑らかに斬られたせいか、荷車の上部は崩壊することなく、斬り口に沿って滑ってゆく。


 満天の星空と、俺たちが今いるような荷車が何台も整列している景色。


 数十メル離れた所を歩いていた何人かの朝国兵が、荷車の上部が地面に落ちる音に、何事かとこちらに注目しているのが見えた。


「アーディル兵長ッ! 五数える内に、こちらへ来いッ!」

「はッ!!」


 ナジャーハ様が大きな声で指令を出すと、その朝国兵のうちで一番年上らしき男が、こちらに全力疾走してきた。


 アーディル兵長は一瞬だけ俺の方に目を向けたが、すぐに視線を切って、踵を揃えて直立した。


「暇そうにほっつき歩いている、ということは、全軍の出立準備は大方完了しているのか?」

「はいッ! 我が小隊については、すでに準備を完了しておりますッ!」

「他の隊は?」

「他の隊は……申し訳ありません、存じ上げませんッ!」

「自部隊の任が完了したのなら、他部隊の補助をすべきだろう!」

「も……申し訳ありません」

「まあ……いい。以降注意するように。代わりに、兵長に新たな任を与える。手の空いている兵のうち……そうだな、百程度。広場に集めよ。時間は、四半刻」

「はッ!! 了解いたしましたッ!!」


 アーディル兵長を見送ったナジャーハ様は、未だに尻餅をついている俺を見下ろした。


「立て。相手がそのような無様を晒していては、恰好がつかぬ」


 てっきり、戦闘が始まったのかと思っていた俺は……やや拍子抜けしつつ、立ち上がった。


「あの、さっきのは……」

「せっかくだからな、観衆が多い方が嬉しかろう」

「観衆?」


 ナジャーハ様が荷車から飛び降りた、視線で、付いて来るように言っている。


 俺も荷車から飛び降りると、


「貴様は、死にたいわけではないのだろう? つまりは、生きてここから脱出したいわけだ」

「はい……そうですけど」

「忘れてもらっては困るが、貴様は私に一度敗北している。そして、私の奴隷となった。……逃走した奴隷に与えられるのは死と決まっている。加えて、今の私は、この軍の将軍だ。侵入者を見逃すようなことはできない――ならば、貴様の選べる選択肢は一つしか存在しない」


 ナジャーハ様は、鋭い――黄色の瞳で俺を貫いて、



「アル・エンリ。貴様に、一騎打ちを申し込む!」



 ○○○

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