20話 『手紙 前編』
「……――さま……黒狼様」
声が聞こえた。
遠慮したような、小さな声。
目を開けるのは面倒な気がしたけれど……もう何刻も眠っていたから、微睡むことさえできない。
私は、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前に、白虎が跪いている。
「……どうしましたか」
「お休みの所、申し訳ありません。急ぎ伝えなければならないことがありまして――」
「――前置きはいりません。早く、用件を」
白虎は、一度頭を下げてから、
「それが……先ほど、闘仙府から、伯狼円様が危篤だとの連絡がありまして……それで、『最後に、黒狼様に会いたい』と言っている、と」
「それはそれは、大変ですね。御山の上でもお元気で、と返事をしておいてください」
それだけ言って……私は再び瞼を閉じた。
目の前が真っ暗になる。
眠ることはできない。
ただ、目の前の暗闇に目を凝らす。
こうしていれば……なんだか、心が落ち着いた。
私は、目を閉じたままに、
「白虎」
私の前で跪いたままの白虎に向けて、声をかける。
最近、白虎はこうやって、すぐに姿を消さないことが多い。何を考えているのかは分からない……知る気もない……。
「――?」
いつもなら即座に姿を消すのに……聞こえなかったのだろうか?
「……白虎、いつまでそこにいるんですか?」
ちょっと、強めに言ってみる。
「――黒狼様。私は……一度、伯狼円様に会ってもよいかと思います」
目を開けた。
白虎が、心配そうな表情を浮かべながら、私を見上げている。
「……何を言っているのか、理解ができないんですけれど。一昨日は食毒、昨日は火疱疹、今日は危篤……私はあのご老人がそれほど壊れやすいとは思ってません」
「はい。私が伺った際には、伯狼円様は闘仙府にて酒を嗜んでいらっしゃいました」
「では、なおのこと、わざわざ会う必要もないでしょう」
「……黒狼様」
「――下がりなさい」
「……はい。出過ぎたことを、申し訳ありませんでした」
白虎の姿が、視界から消えた。
おそらくはすぐ近くにいるのだろうけれど、『声』が聞こえなければここまで存在が分からないなんて……改めて、白虎――いや、黒衣衆たちが凄い人たちなんだと実感する。
私なんて……何の努力もしてないのに、生まれながら『能力』を持っていたというだけで、黒狼様だなんて持ち上げられている。黒衣衆の一人一人は、生まれながらに何も持っていなかったからこそ、辛い訓練を乗り越えて、今ここにいる。
私は、それを知っている。
知っているから、そんな黒衣衆を羨ましいと思っている自分に嫌気がさす。
「……」
……こんな『能力』、なければなかった。
こんな『能力』さえなければ……今頃は、どこか近隣の家にでも嫁いで、誰かの妻として、母として、家事に追われていたことだろう。
私はそれなりに幸せな日々を過ごして……なによりも――
○○○
「――静か……」
私の呟いた声は、自分でも驚くくらいに、がらんどうの黒狼殿に木霊した。
誰もいない暗闇の中。入り口の扉の隙間から、白い光が差し込んでいる。
……目覚めて、微睡んで、それを繰り返しているうちに今日も一日が終わっていた。日が沈んで暗くなってくると、頭の中が少しだけ冴えてくる。
冴えたとしても、すべきことは何もない。
椅子から、立ち上がる。
漆黒の苞の裾を整えて――段差を降りた私は、広場をゆっくりと縦断する。
少し油断すれば足を滑らしてしまいそうなほど磨かれた木床。実際、華に来た当初は慎重に歩いたものだけど……数月も経てば、床板は私が歩く時の癖を掴んでくれたみたいで、今では安心して歩くことができる。
黒狼殿の扉の目の前に辿り着いた。
当然のごとく、扉は勝手に開いた。
「……早いお戻りですね。そんなにすぐに御山を降りてしまっては、天界へは昇れませんよ?」
そこに立っていた老人は、ニンマリと笑って、
「嬢ちゃんがあんまり無下にするもんで。こりゃぁ、化けて出て……いっちょ驚かしてやらにゃあと思ってたんだがのぅ」
「そんなに気配を撒き散らしていたら、嫌でも気付きます。白虎あたりに弟子入りしたらどうですか?」
「おぉっ! 白虎ちゃんの個人授業か! 儂はいつでも大歓迎じゃぞ!」
「……やっぱり、さっきの話は忘れてください。白虎に迷惑をかけるわけにはいきません」
私が不快感をあらわにしていても、伯狼円は表情を崩さない。
私に脅威を感じていないからだろう。――実際、私自身の『能力』では、困らせることくらいはできても倒すことはできない。この老人に傷を付けることに比べたら、金剛石を粉末に変える方が簡単だ。
「――それで、なんですか用件は? 再三呼び出したりなんかして。わざわざ外に出てきてあげたのですから、早く言ってください。私も暇ではないので」
私が早口で言った瞬間、ピシリ、と。
伯狼円が立っている部分の床板に深い亀裂が入ったのが見えた。
伯狼円は動揺した様子もなく、懐から何か四角い物を取り出した。
笑顔を浮かべつつ、それを私に差し出してくる。
「……なんですか、これは」
「聖女ちゃんからじゃ」
想定外の人物の名前に、私は伯狼円の手の中の物を凝視する。
――封筒。
刻印された教会の忌々しい三円環が、月光を反射して銀色に輝いている。
「……なぜ、あなたがそのような物を」
聖女は――確かに、十日ほど前に訪ねてきた。
けれど、私を挑発したあとに、すぐに聖国に帰ったはずだ。
伯狼円と会う時間なんて……。
封筒に手を伸ばす直前、少しだけ躊躇したけれど……何かを私にするつもりならわざわざこんな回りくどいことをする意味もないか、と思い直して、私は伯狼円から封筒を受け取った。
蝋の封を剥がして、中身を取り出す。
中には一枚の羊皮紙が入っていて――
「――?」
裏返してみても、やっぱり何も書いていない。
どういう意味ですか、と目を向けると、
「聖女ちゃんから嬢ちゃんへの文ではないぞ。嬢ちゃんが、中身を書くんじゃ」
「私が? ……ですが、私から聖女へ話したいことなんて――」
「――理円に」
伯狼円が、私の言葉を遮った。
好々爺然とした表情を浮かべながら、
「理円には、伝えないといけないことがあるんじゃないかの?」
「……そういうこと」
怒りのままに、私は伯狼円を睨み付けた。
「あなたも、聖女から何か入れ知恵でもされたのですか。いいですか……私からアルさんに話すべきことは一つもありません――こんな物」
封筒を両手に持って、二つに引き裂こうとした時、
「――ちょ、ちょっと待ってくれんかの!」
伯狼円が慌てたように声を上げた。
……一旦手を止めて、視線を正面の老人へと向ける。
「もちろん、聖女ちゃんから色々と話を聞いたのは事実じゃ。嬢ちゃんが何を考えてるのか儂にはさっぱりじゃが、嬢ちゃんが、大好きな理円が華に戻って来るのを嫌がっとるのも知っとる」
「だ、大好きなんて私――」
「――惚気は後じゃ。いずれにせよ、嬢ちゃんは理円に言っておかにゃならんことがあるじゃろ?」
……アルさんに、言っておかないといけないこと?
少し熱くなった頭で、伯狼円の言葉を考えてみる。
アルさんに……華に帰って来ないように伝えるのは、聖女がしてくれるはずだ。その部分については、言質を取ったし問題ないだろう。
聖女は必要とあらば約束なんて簡単に破くだろうけれど、意味も無く破るような人ではない、と私は思っている。
「……何ですか、それは」
「嬢ちゃんが、定期的に仙力の調整をしなければ死んでしまう――という設定。これについては、ちゃんと理円に伝えてるのかの? 理円の性格からして、キチンと嬢ちゃんの言葉で説明しておかんと、周りから止められても華に帰って来ると思うぞ?」
「……」
……確かに。
忘れていた。
私は、アルさんにそんな嘘を吐いてたんだった。
全てが嘘というわけではない。
私が華に来た当初、どうにも体内の魔素が荒れて体調が悪かったのは事実だ。けれどもそれも、今では十分慣れて、自力で制御できるようになっている。アルさんの手を借りる必要はない。
こんな嘘を吐いていたのは――一つは、アルさんを華に繋ぎ止めておくため。アルさんがいないと私が死んでしまう、と言っておけば、アルさんは絶対に私の傍にいてくれる――という打算があった。
二つ目は……まぁ、単に、毎日アルさんと合法的にくっつくことができるから。
「この手紙を書いたら、聖女経由でアルさんに届けられるのですか?」
「そうじゃの」
「……分かりました。明日までに書いて、黒衣衆に届けさせます」
封筒を懐にしまって黒狼殿の中に戻ろうとした時、伯狼円が気味の悪い笑顔を浮かべながら私を見ていることに気付いた。
「……なんですか」
「いやぁ、儂。嬢ちゃんにこうやって、文を届けてやったじゃろ?」
「そう、ですね」
「しかも、何度も嬢ちゃんのことを誘ったのに、嬢ちゃんは儂のことを無視するしの」
よよよ、とわざとらしく泣き真似をする老人に、若干引きながら、
「気持ちの悪い言い方をしないでください。何をいいたいのですか」
「ありがとう、お父さん! って、笑顔で言ってもらえたら、儂の努力も報われるんじゃがのー」
「……色々と言いたいことはありますが、そもそもあなたは私の父親ではありません」
「理円が儂の息子なんじゃから、理円の妹の嬢ちゃんは、儂の娘みたいなもん――」
最後まで言う前に、伯狼円の足元の床が砕けた。
老人の姿が穴の中に消えたのを目の端で見つつ、私は黒狼殿の中に戻った。
――
「お召し物が少々汚れていましたが、お怪我無く、先ほど帰られました」
書卓の前に座っていると、いつの間にか背後に現れていた白虎が、律義にそんな報告をしてきた。
「伯狼円が、床下に落ちた程度で怪我するはずがないでしょう。そんな分かり切ったことをわざわざ報告する必要はありませんよ」
「はい、失礼いたしました」
白虎に背中を向けたまま、目の前のまっさらな紙を見つめる。
右側には硯と筆。
尖った筆先には、墨が染み込んでいる。
「――それで」
右手に筆を握って、筆先を紙面に落とす。
「伯狼円と聖女が接触した件、私は報告を受け取っていないのですが……把握できていなかったのですか?」
私の問いかけに、背後で空気が揺れる気配が伝わってきた。
……けれど、何も返事をしない。
ただ、私の背後で、無言のままジッとしている。
――耐え切れず、
「……白虎――」
筆を硯の上に置いて振り返った私は、その途中でピタリと体の動きを止めた。
白虎は……泣いていた。
片方の目だけ。
溢れた涙が一筋だけ……白い頬を伝って、曲線を描いている。
「びゃ、白虎、どうし――」
「――黒狼様は」
微かに震える声で、白虎は続けた。
「黒狼様は……もう、私の心の内を覗いてくださらないのですか?」
細い指先で、自分の豊かな胸元を押さえる。
「どうして、質問なんてなさるのですか? こうやって、今も……たくさん、思っているのに……黒狼様は……」
「ちょ……ちょっと、落ち着いて下さい」
いつも、見た目は冷静な白虎が、涙を流している。
たったそれだけのことに、私は自分がこれ以上ないほどに動揺しているのを感じていた。
懐から手巾を取り出して、それで、白虎の涙を拭う。
「……申し訳ありません、情けない所を」
「別にいいです、そんなこと。白虎の情けない所なんて、散々知っていますから」
「そ……うでしょうか?」
キョトンとした白虎には、自分が頭の中で考えていることが、どれだけ情けないかの自覚がないらしい。
いや……もしかしたら、そこまで私に聞こえていることは知らないのかもしれない。だとしたら……知らぬが吉だろう。
取りあえず落ち着いたみたいなので手巾を仕舞う。
……チラリと伺うと、いつもの――怜悧な白虎がそこに戻っていた。
――何を考えてるのか、知りたい。
けど……この『能力』は……
「白虎、その……私は、もう……『声』を聞きたくはないんです。だから――白虎の考えてることを……私に教えてもらっていいですか? 私は、白虎の気持ちが知りたい……です」
「え」と、白虎は小さく声を漏らした。
「……イヤですか?」
私が聞くと、白虎はブンブンと首を振った。
それから……何とも言えない、嬉しそうな表情を浮かべて、
「イヤでは、ありません。むしろ……嬉しいです」
「そ、そうですか?」
「……はい、とても」
……真っすぐな瞳で言われると、ちょっと照れ臭い。
ソワソワしてしまう私とは対照的に、白虎は照れた様子もなく……胸を、軽く押さえた。
「あの日――突然、黒狼様とアル様が姿を消して、私たちは心臓が止まる思いをしました。……もう、二度と会えないのではないかと、そんな考えも頭を過って……。だから、黒狼様が戻ってきてくださって、とても安堵しました」
「けれど……」と白虎は続けた。
「黒狼様が、アル様が華に帰還することを許さない、との命令を出されて……しかも、その理由は全く教えてくださらなくて、私たちは困惑しました。それに……なんだか、お辛そうですし……」
キッ、と。
白虎は目を三角にした。
「もしや、聖女が黒狼様に何かしたのでは? とも思いました。ですが、どうやらそういう様子でもないみたいですし……もしも、私たちがお役に立てるのなら、相談してくだされば……なんて、畏れ多いことを考えてしまったり……」
「…………なるほど」
なんだか、顔が熱くなっているのを感じる。
人の、色んな恥ずかしい『声』をこれまでは聞いてきたけれど、面と向かって、こうやって言われると……何とも言えない気恥ずかしさがある。
――でも、白虎の気持ちは……よく分かった。
「白虎……その、そんなに心配をかけてるとは知らなくて。すみませんでした……何も言わないままで」
そこまで言って、心の中に躊躇が生まれる。
自分の気持ちを……人に晒すのが、恥ずかしい。
私は、私のことが嫌いだ。
そんな自分を晒して……もしも、白虎に嫌われる、なんてことがあったら……。
「……白虎。少し長いですけれど、私の話を聞いてもらっても、いいでしょうか?」
○○○




