18話 『二人旅路 後編』
「この辺りなら、そう人は来ないだろう」
そう言ってナジャーハ様が騾馬を止めたのは、濁った湖の湖畔だった。
「お前も御苦労だった」
そう言いながらナジャーハ様が騾馬の首筋を撫でると、嬉しそうな鼻息が返ってきた。
もう一度首筋をポンポンと撫でてから、ナジャーハ様は騾馬から降りた。続いて、俺も鞍から降りる。
「さて、騾馬が頑張ってくれたわけだから、私たちが食事を用意せねばな。と言うより、食事を与えなければ、メフィス・デバイまでコイツが持たん」
縄を、ちょっと頼りない細さの木の幹に結びつつ、ナジャーハ様がそんなことを言ってくる。
「そこの湖で鰐が獲れるんですか?」
「ああ、そうだぞ」
俺は、濁った湖を眺めてから、
「でも、着替えとか持って来てませんけれど……大丈夫でしょうか?」
「…………確かに、そうだな」
おい、どうすんだよ。
騾馬、食べ物あげないとメフィス・デバイまで持たないってさっき言ってたけど。
ナジャーハ様は難しい顔をしてたかと思うと、
「――あ」
「ど、どうかしました?」
「いや……」
「むぅ」と小さく唸ってから、ナジャーハ様は腰に提げていた刀の柄を叩いた。
「今日、刀を一つ与えようかと思っていたのだが、今の貴様は丸腰ではないか。素手で鰐狩りとなると……少し厳しいような気も」
確か、朝国の獣はナジャーハ様の足を奪うくらい強いんだったよな。
そんなんと素手でって……いやまあ、『能力』を使ってもいいんだったらいけるかもしれないけど、ここで『能力』がどれくらい使えるかも分からないし。
「だが……私だけ汚れて貴様が綺麗なままなのは、何と言うか…………むぅ」
何やら、ナジャーハ様はお悩み中の御様子。
地面の上にへたり込んでいる騾馬と、ボーっと見つめ合っていると、
「――よし! では、こうしよう」
ナジャーハ様が両手を打った。視線を騾馬から外す。
「鰐を狩る所までは私がやろう。体がどうしても汚れるだろうから、その体は貴様の外套で綺麗にする。無事メフィス・デバイに戻った折には、貴様は外套無しの恥ずかしい恰好となるが、それは仕方の無いことだと諦めよう」
「ああ、いいですよ。分かりました」
「いいのか?」
ナジャーハ様が不思議そうな顔で俺の目を見つめてきた。
「別に構わないですけど」
「……貴様は変な奴だな。私に裸を見られることは恥じるのに、公衆の面前に外套無しで出ることは恥ずかしくないのか?」
「え、だって……鎧はちゃんと着てるじゃないですか」
というか、マントがあろうがなかろうが大して変わらないし。
恥ずかしいと言うならこの鎧自体が恥ずかしいです。
ナジャーハ様は首を捻っていたが、
「まあいい。貴様が構わないと言うなら、そうしよう」
言いながら、おもむろに鞘から刀を引き抜いた。
一瞬刀身が霞んだかと思うと、ポテ、とナジャーハ様のすぐ傍に何かが落ちた。
それが何かと俺が確認するよりも先に、ナジャーハ様は切っ先でソレを刺し貫いて、胸前まで持ち上げる。黒地に赤色の斑模様……どう見ても毒蛇だ。頭部は切断されてすぐそこに落ちてるから、もう生きてないはずだが、元気に尻尾をくねらせている。
どうやら、コイツは騾馬を結んでる木にへばり付いていた所をナジャーハ様に一刀両断されたらしい。さすがに、あまりの早業で自分が切られてることに気付いてないせいで動いてるってわけじゃないだろうが、多分痛みはなかったんじゃないかな?
「うーむ、これくらいで足りるだろうか?」
ナジャーハ様は別に蛇が苦手じゃないらしく、至近距離から切断面を眺めている。
「何がですか?」
「血だ」
「血?」
俺が眉をひそめながら聞くと、
「鰐を呼ぶのに一番てっとり早いからな。普通の鰐狩りなら壺に血を入れて持ってくるのだけどな。今回は突然だったから……取りあえず手近にいたコイツを」
ナジャーハ様の話を聞いて、俺も顔を近付けて丸い面を見つめる。
真ん中から少しずれた場所に脊椎らしき白い丸があって、その周りにピンクの部分がくっついている。血は……滲んではいるけど、噴き出したりはしてない。
「でもまあ、上下ひっくり返したら、中にあるのが出てくるんじゃないですか?」
「……そうかも知れないな。ひとまず、これでやってみるか」
小さく嘆息したナジャーハ様は、刀を握ってない方の手で両肩の紐を手早く解いた。
マントが地面に落下する前に、器用に片手で掴み取ってから綺麗に正方形に畳んだ。
「では、汚れないように貴様が持っていてくれ」
「あ、はい」
慌てて受け取ると、ナジャーハ様は刀に蛇を刺したまま湖へと向かって歩き始めた。蛇の動きは大分大人しくなっていて、時折思い出したように身を捩るだけだ。
スタスタとちょっとだけ低い位置にある水辺へと向かうナジャーハ様を見つつ、俺は木陰へと移動する。
水際に辿り着いたナジャーハ様が刀を軽く振ると、五、六メルほど離れた水面に蛇の死体は落下した。
蛇が着水した場所を中心として、茶色とも灰色とも言えない汚い湖に波紋が広がる。
湖面は凪いでるから、幾重に重なる波紋は乱されることなく綺麗に円状だ。
その一番外側の円が、ちょうどナジャーハ様の足元に辿り着くか付かないかという時だった。
――突然、蛇がいた場所に巨大な柱が立った。
ボーっと見ていた俺は、思わず身を乗り出した。目に魔素を集める。
ちょっと距離が離れてるから実感は湧きにくいけど、ナジャーハ様と比較して見ると……三メルくらいあるんじゃ? 真っ白な飛沫に遮られて、それを立ててる張本人はまだ見えない。
徐々に水が重力に負けて、その中央からそいつの姿が現れた。
バックリと広げられた口の中は真っ赤。鋭い牙がズラリと並んでいる。肌は真っ黒な……鱗だろうか? 顔は俺のイメージにあった鰐のまんまだけど、こっちは違う印象だ。どっちかというと魚に近い雰囲気。
警戒色なのか、真っ黒な鱗の首の辺りには、横一文字に真っ赤な線が見える。
そこまで見た所で、鰐は水の中に沈んでしまった。
俺の視線はナジャーハ様に移る。
目的は鰐狩りなんだから、当然、ナジャーハ様は鰐を追いかけるのだろう。ナジャーハ様のことだから大丈夫だと思うけど……ちょっとだけ不安だ。
鰐の水上に出ていた部分が三メルだとすると、全長は倍の六メルくらい。俺が想像してたのよりも、倍は大きい。
確かにナジャーハ様の剣技は卓越してるけど、それが対人戦では役に立っても対怪物でも役に立つとは限らない。デカイ敵を倒すのに必要なのは、技術というよりも単純なパワーだ。
そんなことを思いつつ、いざとなったらすぐに助けに入れるように、身構えていたのだが……。
――?
ナジャーハ様、動かないな?
鰐が出現する前と後で一歩も動かないまま、水際に突っ立っている。
このままじゃ逃げちゃうけど……。
「……ん?」
違和感に気付いて、俺はナジャーハ様――の向こう側の水面へと目を向けた。
透明度がゼロの濁った水面……が、赤く染まっている。
その赤色は俺がこうして見ている間にも、ちょっとずつ広がっていて――プカリと。
赤色の水面のど真ん中に、ついさっき一瞬見えた、鰐の凶悪そうな頭……だけが浮かんだ――。
――と思ったら、その鰐の顔に、飛沫を上げつつ別の顔が食らいつく。
……今度は見えたな。
一瞬、飛沫が不自然に途切れたのが。
波が収まると、予想通りに新たな生首が一つ湖面に増えていた。鰐の生首に食らい付いてる別の生首。
ナジャーハ様の足元に寄せる波は、鰐の血で真っ赤に染まっていた。
――
そこからは、俺は塵一つも心配なんてすることもなく、リラックスしながらナジャーハ様の様子を眺めていた。
血の匂いに吸い寄せられた鰐がワラワラと登場して、その大多数は同朋の死体に食らい付いたのだが、それにあぶれた一部の鰐の視線は、無防備に突っ立っている獲物へと向かった。……運の悪いことに。
鰐は地上でも移動できるようで、ヨタヨタとした足取りで逃げる獲物を追いかけた。
ナジャーハ様はどうやら狩りに慣れてるようで、うまーく鰐を俺と騾馬のいるすぐ傍まで誘導して……鰐自身が気付いた頃には、既にそこはナジャーハ様のまな板の上だった。
……で。
今、俺の目の前には、砂のお山ができています。
砂をこうやって最後に弄ったのは、運動会の練習中だった気がする。前世の中学校ぶり……となると、ざっと二十年ぶりくらい?
俺の隣ではナジャーハ様もしゃがんでいて、その目の前にも砂のお山が出来ている。
「よし、これで四半刻くらい待っていれば焼けるだろう」
パンパンと手を叩きながらナジャーハ様は立ち上がった。
俺も立ち上がって、二人して木陰へと避難する。
木陰では、騾馬が生の鰐肉に貪り付いてる。ナジャーハ様いわく、騾馬は生でもお腹を壊したりしないらしい。もちろん、俺たち……いや、俺は多分生で食べても問題ないと思うけど、普通はお腹を壊すので、鰐肉を砂の中で蒸し焼きにしてから食べることにした。俺も、せっかく食べるなら美味しい方がいい。
太陽が出てる時間の砂漠なんかに直に座ったら熱いけど、木陰の砂はヒンヤリとしていて気持ちいい。
俺とナジャーハ様は、小さな木陰に肩を寄せ合うようにして座った。隣からは、少しだけ血生臭い匂いがするけど……一番嫌なのはナジャーハ様自身だろうから、文句を言ったりはしない。
「ヒシャーム」
名前を呼ばれたのが聞こえて、次の瞬間には俺の体はナジャーハ様のマントに包まれていた。
「なっ!? ……ちょ、ナジャーハ様」
「肩が日向に出ているぞ。皮が剥けるのが嫌なら、大人しくしろ」
耳元に、女性としてはちょっと低めの声が聞こえる。
……ナジャーハ様が言いたいことは分かるけど。
俺は体を硬直させて、肩とか腕とかにピタリと吸い付く体温……をできるだけ意識しないようにしたいけど、無理だ。
ナジャーハ様と一緒に騾馬に乗る時もかなり接触面積が多いけど、あれは太腿とかを除いたらマント越しだ。今みたいに、直接肌と肌が触れ合うことはない。
とはいえ、二人で一つのマントの中に包まってる関係上、無理に間を開けようとするとナジャーハ様からマントを引っ張ってしまうことになる。
……うん、諦めよう。
一つだけ救いがあるとすれば、ナジャーハ様からかおる匂いがより濃厚になったことだ。この、香しいとは言えない匂いに集中すれば、多少なりとも煩悩が小さくなる気がする。
「――なあ」
声に引かれて隣を見ると、すぐ近くにナジャーハ様の顔があった。
俺とは違って平然とした表情をしていて、真っすぐ遠くへと目を向けている。
「もしもメフィス・デバイに戻れなかったら、貴様は華に戻りたいのか?」
ナジャーハ様は俺に目を向けない。濁った湖を、瞳に映している。
俺も同じ方向を見てみると、湖はつい半刻前とは打って変わって波一つなく凪いでいた。
「……はい」
「そうか」
短く言って、それでナジャーハ様は口を噤んでしまった。
「……ナジャーハ様、やっぱり一緒に来てくれませんか? ナジャーハ様なら華でも――」
「――言うな」
俺が隣を向くと、黄色い……鋭い瞳が俺を睨み付けていた。
「言ったはずだ。私はアメルナの庇護から外れるつもりはない。この砂の地で生まれ、生き……死ぬと心に決めている。例えオトリスの審判を受けることが多少早くなったとしても、地の国には行きたくないのでな――そして、それは貴様も同じだ」
マントの中で、ナジャーハ様の左手が俺の右手を強く握る。
「私は、貴様が地の国に落ちるのも座視するつもりはない。……そもそも、貴様は私の奴隷なのだ。仮にメフィス・デバイに戻れずとも、勝手に華に向かうのを許すつもりはない。どうしても戻りたいなら……私を下してからにするのだな」
「……ですが、それはナジャーハ様が信じてるだけの話じゃないですか。アメルナだとか地の国だとか、そもそも存在するかどうか分からない物のために、命を投げ捨てるなんて間違ってます」
「ふん。では聞くが、アメルナも地の国もないのなら、人はどこから生まれ、死んだらどこへ向かうのだ」
「父親と母親から生まれて、死んだら塵になるだけです」
「それは身体の話だろう。私がしているのは霊魂の話だ」
「だから! そんな物は存在しません!」
……なんでこんなに腹が立つんだろう?
我ながら不思議だ。人の信仰に口を出す権利なんて俺にはない。
でも、思わず声が荒くなってしまって、俺はナジャーハ様の左手を強く握りしめていた。
ナジャーハ様の驚いた顔を見てそのことに気付いた俺の中から、霞みのように怒りの感情が消え失せる。
「……すみません」
「いや、私も少し我を忘れていたようだ」
互いにちょっと気まずくなって、俺とナジャーハ様はどちらともなく顔を逸らす。
俺の視線の先では、誰の足跡もない砂丘が果て無く連なっていた。
○○○
夕日を右に見ながら、俺とナジャーハ様は騾馬を走らせていた。
行きはナジャーハ様が前で俺が後ろだったが、今は逆の位置に座っている。
というのも、マントが一つ鰐の血で着れなくなってしまったので、二人で一つのマントを分け合わないといけないからだ。ナジャーハ様の方が俺よりも大きいので、後ろからを俺のことを抱きかかえるような姿勢になっている。
ドギマギしたのは最初のうちだけで、半刻も経った頃には、ただただ無心で俺は正面を見つめていた。
その視線の先に――
「――あ、ナジャーハ様。正面に砂嵐が見えますよ!」
「ん?」
後ろから聞こえた反応に、マントの中から右手を出して、遠くに小点のように見える靄を指差す。
「あそこです。ちょうど真っすぐ見える……」
「むぅ……ああ、見えた。確かに砂嵐だな。早めに避けておくか」
言って、ナジャーハ様は進路をやや南に逸らした。
砂嵐は、遠くにあるうちから注意を払っておかないといけない。進路に予想が付かないから、勝手にどこかへ消えることもあれば、まるで追いかけてくるみたいに急速に近付いてくることもある。
今回は――
「む……」
小さく、ナジャーハ様の漏らす声が聞こえた。
砂嵐が、ちょうど騾馬の進路と同じ方向に動いたからだ。しかも、結構な速度で近付いているようで、さっきの四倍くらいの大きさに見える。
落ち着いた手付きで、ナジャーハ様が今度は騾馬の進路を北に変えた。
「――っ……」
その、変えた進路の先に、いつの間にか別の砂嵐が発生している。距離は、最初に見つけたのと同じくらい。おおかた数キル……まだ離れてるとはいえ、それが二つとなると少しだけ面倒だ。
間を通るのはリスクが高いから、大きく二つの砂嵐を迂回しないといけない。
「北側から抜けた方がいいですかね? 南向きの風が吹いてるっぽいですし」
「う……む。そうだな、少し遠回りになるが。もしかしたら、日が沈むまでにメフィス・デバイに着かないかもしれないな」
メフィス・デバイの門は、日が沈むと閉まってしまう。
とはいえ大門がしまるだけなので脇の小門から入ることはできる。違うのは、小門から入る際には身分証――民票と呼ばれる鉄の板を提示しないといけない。
というか、そもそも街の中の様子も見ずに戻るのは怖いので、大門が閉まってしまったらアウトだ。もしも俺とナジャーハ様が指名手配とかされてたら、小門を訪れた瞬間に捕まってしまう。
「と、なると。今日は野宿ですかね」
「できれば避けたい所だがな。こんな格好で夜を迎えるのはかなり厳しいぞ……私と貴様と騾馬で抱き合って寝ることになるかもな」
「……騾馬とですか」
ナジャーハ様とならともかく、それはちょっと……。
ナジャーハ様も同じ気持ちらしく、少し固い気配が背後から伝わってくる。
「よしっ。とにもかくにも急がねばな。まだ時間は――」
気合いの入ったナジャーハ様の声は、中断させられた。
俺も、突然体を包み込んだ冷気に驚いている。
……水?
脳裏に単語が浮かんだのと――すぐ目の前に砂嵐が出現したのは、同時だった。
何が起こったのかを理解する間もなく、体に浮遊感が生まれる。
反射的に目を閉じたから、何も見えない。
肌に小さな針がたくさん突き立ってくるように感じる。
――とはいえ、そんな混乱も一瞬で、即座に自分が砂嵐に入ったのだと理解する。
俺が吹き飛ばされてるなら、ナジャーハ様は? ちゃんと着地できるのだろうか? ナジャーハ様は、戦闘力は高いが、魔素で覆われていない体の防御力は無に等しい。ダメそうなら、何とかしないと。
とにもかくにも、周りの様子が把握できなければ始まらない。
眼球を魔素で保護して瞼を開くと、予想通りに視界は茶色かった。
背景に薄っすら空らしき薄赤色が見えるけど、ほとんどは砂で覆いつくされている。
空中では体の自由が利かない。目と頭だけを動かしてナジャーハ様の姿を探していると、何かが砂の中に見えた。
近付いてくる。
砂を貫いて真っすぐ。
ブツカル。
反射的に両手で体を防ぐと、何かが腕にぶつかったのが分かった。
柔らかい。
衝撃を想像してたのに、落差に頭が軽く混乱する。
柔らかい……のが、まとわりつく?
柑橘の香り。
瞬きをする暇もなく、目の前に太陽が見えていた。
あと数刻で沈む太陽。
空が、微かに赤く染まっている。
深紅の――髪の毛。
トン、と。
軽い衝撃が体に伝わってきた。
マジマジと、髪の毛と同色の綺麗な瞳が俺の顔を覗き込んでいる。
「アル、どうしてオンナの子になってるの?」
○○○




