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14話 『二人旅路 中編』



「ヒシャーム、中へ来い」


 騾馬のブラッシングをしていると、幌越しにナジャーハ様の声が聞こえた。


 手に持っていたタワシを鞍の上に置いて、俺は駆け足で荷車の後ろへとまわった。幌を左手で避けて中へ入るとーー


「わっ!?」


 慌てて幌を閉じて、荷車の外へと出る。顔が熱くなってるのを感じる。一瞬見えた、一糸纏わぬナジャーハ様の姿……。


「何をしている? 早く中へ来い」


 堂々と胸を張って出てきたナジャーハ様が、俺のマントを引っつかんだ。抵抗する間もなく、荷車の中へと引きずり込まれる。


 どこを見たらいいか分からず、ナジャーハ様から目を逸らしていると、顔面に冷たいものが投げつけられた。


「背中の油塗りを」


 ナジャーハ様は俺に背を向けて床に座った。三つ編みの髪の毛を持ち上げて体の前側に回すと、スッと真っすぐに伸びた背筋が露わになる。


「えっと、いつもは自分でしてるのに、なんでまた突然?」


 右手に油の染み込んだ布を握ったまま、困惑する。


 日差しで火傷をしないように肌に油を塗り込むことを、油塗りと言う。


 二人での旅路も今日で五日目だが、これまではナジャーハ様は自分でやっていて、頼まれたことは一度もない。


 ナジャーハ様は「ああ」と思い出したように声を出して、首だけで振り返った。


「今日明日中にはメフィス・デバイに着くからな。私とて、多少の見栄えは気にするのだ。いつもは背中も自分でしているが、抜けがあっては一大事。せっかくここに下僕がいるのだ、使わない手はないだろう」

「見栄え?」

「肌艶だ。砂に吹かれていると、どうしてもくすむからな」


 ナジャーハ様は顔を正面に戻した。無防備な背中を晒している。


 俺は、ナジャーハ様の後ろに膝立ちになって、


「……それでは、失礼します」


 「ん」とナジャーハ様は何の疑問を感じていない様子で返事をした。


 騾馬の操縦については十分に慣れた。だから、全て俺に任せてナジャーハ様は荷車の中で眠ってでもいたらいいのだが、時折俺の後ろに乗ってくる。


 そんなものだから、どうしても体に砂が付いてしまっている。確かに、肌色は少しくすんでいるように見える。


 砂を拭い取るように、俺は油でヌメヌメの布をナジャーハ様の背中に滑らせた。


 いくらナジャーハ様が男勝りと言っても、やっぱり体の構造は男と違う。バランスよく筋肉が付いているが、マッチョって感じではない。うすーく、筋肉の線が浮かぶくらい。


 ……うぅ、なんか、変な気分になってくる。


 俺は急いで砂拭きを終えて、


「終わりました」

「んむ、御苦労」


 ナジャーハ様はスクッと立ちあがって、俺の方へと振り返った。俺に、手を差し伸べてくる。


 その手を掴んで立ち上がっても、ナジャーハ様はまだ俺よりも背が高い。ちょうど目の前に、でっかい二つのお山の上丘が見える。


「やはり、こういう時に部下がいると便利だな。一人だと、中々面倒でな」

「そ、そうですか……」


 思わず目を逸らした俺を、ナジャーハ様は不思議そうな目で見つめてくる。


「何度か思っていたが……もしや、ヒシャームは裸を恥じているのか? 女同士なのに?」

「え、えと……大大陸では、あまり肌を晒したりしないもので」


 ナジャーハ様は「む」と短く唸って、


「確かに、言われてみれば教会の武人らなどは概して厚着だな。疑問に感じたことも無かったが、そういう風習があってのことだったか。だがーー」


 言って、ナジャーハ様は腰に両手を添えて、胸を張った。


「アメルナの兵たる者、己の肉体には自信を持たねばならぬぞ。誇らしく思うことはあれど、恥じるなど、鍛錬が足りぬ証拠だ!」


 ナジャーハ様の大きな声に、二つのお山が振動している。


 俺は、思わず吸い寄せられていた目を逸らし、自らの行動に恥じ入った。


「そう、ですね。すみません、ずっと大大陸で暮らしていたもので、朝国の風習に慣れるのにはまだ時間がかかるといいますか……」

「よい、分かっている。少しずつ馴染んでいけばよかろう。当面の課題はーー」


 俺の両肩に、ナジャーハ様の手のひらが乗った。グイッと力を込められて、自然背筋が伸びる。


 すると、俺は下からナジャーハ様の顔を見上げるような状態になった。


「いつも恥ずかしそうに背を丸めていては、侮られてしまうぞ。もう、メフィス・デバイに着く。これだけは意識してもらわないとな。何と言っても、貴様は私の下僕なのだから」

「が、頑張ります」

「よろしい」


 言って、ナジャーハ様はマジマジと俺の事を見つめてくる。


「……どうかしましたか?」

「いや、貴様もかなり砂で汚れているなと思ってな」


 俺は下を向いて、自分の……あまり認めたくないが、現在の自分の体を確認する。


 ナジャーハ様と比べるのもおこがましいほどの平坦な胸。とはいえ、確かに存在する控えめな膨らみ。


 指先で胸の上の方を撫でると、そこに薄く積もっていた砂が取れて、褐色の肌に線が引かれた。


「ですね。よければ、私も油塗りをする時間を頂きたいのですが、構いませんか?」

「ああ、もちろん構わぬぞ」


 ナジャーハ様は俺の肩から手を放し、幌の奥へと向かった。そこに置かれていた陶瓶を拾って、俺に差し出してくる。


「あ、すみません、ありがとうございます」


 頭を下げて瓶を受け取ろうとすると、スッとナジャーハ様が腕を引いた。瓶を掴もうとしていた俺の手は、宙を握る。


「先ほど私の油塗りをやってくれたからな。今度は、私が貴様の油塗りをやってやろう」

「え? い、いえ、自分でできますからっ! 大丈夫です!」

「そう遠慮せずともいいぞ? いいから座れ」


 ナジャーハ様が俺の頭頂部をグイッと押してきた。


 そんなに強い力ではないから抵抗しようと思えばできたのだが、あんまり拒否するのもどうかと思って、俺は困惑しつつもナジャーハ様に背を向けて座っていた。


「布」


 肩越しから伸びてきた手のひらの上に、さっきナジャーハ様の油塗りをした布乗せる。


 陶瓶の栓を抜く、キュポンッという音がすると、続けてゴポッ、ゴポッ、と瓶から油を流してるらしき音も聞こえた。


「邪魔だから、外すぞ」


 突然耳元で聞こえたので、ちょっとビビる。


 見ると、左肩の留め金ーーマントをビキニの肩紐に括り付けている部分を、ナジャーハ様が触っていた。


「は、はい!」


 俺が答えるとナジャーハ様が左肩のマントを外し始めたので、俺は自分で右肩のマントを外す。


 黄色のマントが床に落ちて、一気に俺の視界に映る肌色面積が大きくなる。


「……上鎧も、外すぞ?」


 ナジャーハ様が囁き声で言ってきたので、俺は無言でコクリ、と頷いた。


 落ちてしまわないように、胸の部分を自分で押さえる。


 ロックを開く微かな音が聞こえると、肩紐が重力に従って落ちた。それを拾って、胸部装甲の窪みの中に収納し、うるさい音が出ないように慎重に床の上に置く。


 ナジャーハ様がやりやすいように、背筋を伸ばして待っていると……ピチャ、と音を立てて、背中に冷たいものが張り付いた。


 ……ヌメヌメが、上下に動く。


 俺は無言で背筋を伸ばして、ナジャーハ様も無言で俺の背中を拭う。


 だだっ広い砂漠の中、今、俺とナジャーハ様は二人っきりだ。風の音と、風に擦れる砂の音。完全な無音よりも、一層静かに感じる。


 ピチャピチャと、俺の背中から時折鳴る音が……少しだけ恥ずかしい。


 数分くらい経って、ナジャーハ様の手が止まった。


「終わったぞ……前側も、私がしてやろうか?」

「い、いえっ! 前は、自分でできるので……」


 思わず胸を両手で押さえると、「ははは」と楽しそうな笑い声が聞こえた。


「冗談だ。次の休憩までは私が一人で操縦するから、貴様は中でゆっくりしていていいぞ」


 ぽんっ、と俺の頭を小突いてから、ナジャーハ様は颯爽と荷車から出て行った。



 ーー



 青い空には、今日も雲の一つも無い。


 ただただ、吸い込まれそうな透明の青が広がっている。遠く東の方では砂嵐が起こっているようで、そこだけ空がぼやけている。


 そんな光景を、俺は荷車の後ろ側に座って眺めていた。


 ちょうど日陰になってるし、程よく風も肌に当たって心地いい。


 夢現の中、ボンヤリと茶色と青色の景色だけが目に映る。


 ……五日。


 ナジャーハ様との旅も、もう五日目に突入した。


 視線を地面に落とす。


 そこでは、砂が高速に流れている。荷車はかなりの速度が出る。時速四十キルーー俺が走るのと同じくらいの速さ。


 とはいえ、この程度の速度なら、飛び降りても問題ない。


 今俺が、お尻半分だけ前に身を乗り出せば、それだけで俺は荷車から脱出できる。


 いや、そんなことを言ったら、これまでに何度でも逃げ出す機会はあった。


 ナジャーハ様は俺のことをほとんど警戒してないみたいだし、夜闇に紛れるなんて簡単だった。


 もちろん、逃げ出そうとしてる所を発見されたらマズイだろう。確実にボコボコにされる。


 『能力』を禁止されてるとはいえ、剣術にもそこそこ自負があったのに、鍛錬ではまるで歯が立たないし……。


 でもまあ、ナジャーハ様と戦って歯が立たなかろうが、逃げる事はできる。ナジャーハ様は逆立ちしたって、俺と同じ速度では走れない。


 たったとこんな場所から脱出して、フレイさんたちと合流して、作戦を練り直す。そして今回の任務を終えたら、その時は……中央教会とは永遠におさらばだ。


「ーーって、上手くいけばいいんだけどなぁ……」


 自分の体を見下ろす。


 五日間、全く元に戻る気配がない。むしろ、俺の方がこの体に馴染みつつある。


 この体、聖女様かマオ様なら、元に戻せるんだよな……?


 右手を持ち上げて、凝視する。キメの細かい肌。笹の葉みたいな、滑らかな形をしている。

 

 ……ここに浮かんでいた、緑色の文字。


 だいぶ昔のことで咄嗟には思い出せなかったけど、後になってゆっくり考えると思い出せた。


 中央教会で会った、苞を着た美人さんに書かれた文字だ。


 あの女の人、聖官……だったんだよな? 中央教会にいたんだし。


 あの時、男を女に変える『能力』をかけられて、それが今になって発動した……?


 頭の中に、当時の記憶を描こうと努力してみるけど、やっぱり何度やってみても容姿の細かい所までは思い出せない。


 美人で胸がデカかったと思うけど……顔とかはボンヤリだ。


 あの美人さん、中央教会にいるよな? もしいなくて、しかも聖女様もマオ様も俺の体を元に戻せないとなったら……いや、やめよう。ポジティブに考えよう。中央教会に帰れば何とかなる。


 視線を、再び遠くへと向ける。


 この荷車は南西へと向かっている。だから、左を向けばそのずっと先に聖国があるはずだ。


 連なる砂丘の端。陽炎の向こう側。


『レト……イァ……』


 ……また地呼びってやつか。


 今回のはちゃんとした意味を持ってない、途切れ途切れの女の声。


 騾馬を操縦してる時なんかも、ちょこちょこ地呼びを聞いた。ハッキリと意味を持った文章の時もあれば、今みたいなのもある。


 なんか、日を追うごとに頻繁に聞こえるようになってる気がするんだよな……今日はもう三度目だし。


 確か、オトリスーー地の底にいる死を司る神の呼び声、だっけ?


 アホらし、って思わなくもないが、そう言い切れないのがこの世界の面倒な所。『能力』とか魔物だなんて物があるんだから、死神の一人や二人いても不思議じゃない。


 ……真っすぐ、遠くへと目を向ける。


 荷車が通った跡。砂漠に、緩やかに蛇行した線が引かれている。


「……今日も暑いな」


 誰に向けるでもなく独り言を呟いて、俺は荷車の中へと戻った。



 ○○○

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