50話 『紅と黒 後編』
「アルくんとイーナへ、僕からの最後の贈り物をね」
目尻が少し下がった、懐かしい表情で……ロンデルさんは笑っていた。
記憶のままの変わらない姿。
忘れていたわけではない。
忘れるはずがない。
そのはずなのに……今、仮面を外すまで、全く気が付けなかった。
……いや、違う。
……俺は……何か他にも大切なことを……?
――ズキン、と。
針で刺されたような鋭い痛みが、唐突に俺の頭を襲った。
とても耐えきれるようなものではなく、一瞬で視界が白く染まる。
「――さんっ! アルさんっ!」
体が揺すられる感覚がして、再び焦点が合うと……すぐ近くにイーナの顔があった。
イーナは心配そうな顔で、
「大丈夫ですか? 立てますか? 椅子か何か――」
「いや、大丈夫大丈夫。ちょっと立ち眩みがしただけだから」
「本当ですか? 無理したらだめですよ」
苦笑しつつ視線をあげると、イーナの頭越しにロンデルさんの姿が見えた。
俺と目が合った瞬間、ロンデルさんは、
「仲睦まじいようで、なによりだよ」
俺は、無意識に目を逸らしていた。
「いや……その、すみません」
「なんで謝るの?」
……何でだろ?
自分でも疑問に思って、俺は一瞬言葉に詰まった。
そこへ、
「あの……神官様、失礼しました――」
イーナは笑顔で振り返りながら言って、その途中で不自然に体を硬直させた。
全く微動だにしないまま一秒二秒と経ち、俺は心配になってきて、
「おい、イーナ。どうかし――」
「だめ」
イーナの小さな呟きが、やけにはっきりと響いた。
そこで初めて気が付いたが……いつの間にか、周りには誰もいなくなっている。
「あれ?」
思わず間抜けな声をあげて、俺は慌てて周りを見渡した。
おかしい。
ついさっきまで、沢山人がいたはずなのに。
周りを囲んでいた村人たちは忽然と姿を消していて、当然、父上も母上も……後ろを見ると、新成人たちもやっぱりいない。
他のものは全部残っている。
美味しそうな香りを撒き散らす屋台。
木工細工が並べられている店棚。
食べくさしのお肉が乗ったままの、木皿。
緑の麦穂が風で揺れ、夏虫の声が色んな場所から聞こえてくる。
俺とイーナ……そして、深紅に染まった青石を挟んで反対側にロンデルさん。
それだけが、世界に取り残されていた。
驚きさえ感じない。
意味が分からない。
完全に思考が停止したところに、再び、
「だめ」
イーナの抑揚のない声が聞こえてきた。
一歩後ろに下がってきて、イーナの背中が俺にぶつかる。
「それは、イーナが決めることじゃないよ」
同時、ロンデルさんがノンビリとした口調で言った。
ロンデルさんは、混乱している俺の方を見ながら、
「アルくんが決めないといけないことだから。――どっちを選ぶかをね」
ロンデルさんが細い指先を伸ばし……その先端が、血の色に染まった青石に触れた――瞬間。
音も無く水晶玉は砕け散って、代わりに『ソレ』が、ロンデルさんの隣に立っていた。
『ソレ』としか言いようがない。
確かにそこに立っているはずなのに、認識できない誰か。
ちょうどそこへ、麦畑を越えてきた夏の風が、ざぁっと通り過ぎた。
その風に乗ってきたのだろうか? どこか、仄かに柑橘のような香りがした。
『ソレ』が、無言のままに一歩近付いてくる。
「アルさん!」
同時、イーナが切迫した表情で俺に縋り付いてきた。
「早く逃げてください! アレはだめです! 危険です、壊されちゃう……」
「ちょ、イーナ……」
ぐいっぐいっと、かなりの力でお腹の辺りを押されて、俺はたたらを踏んだ。
危うくイーナ共々こけそうになったが、数メートル後ろに下がった所で何とか踏みとどまる。
なおも押してくるイーナに抵抗しながら、俺は『ソレ』へと目を向けた。
一歩一歩、ゆっくりと。
『ソレ』は俺たちに近付いてきている。
いったい何なのか分からないけど、俺の感覚としては『ソレ』に対してあまり危険な感じはしない。
それに……。
チラリとロンデルさんを見ると、ロンデルさんは我関せずといったふうに、元いた場所に突っ立ったまま何か行動を起こそうとする気配がない。
もし、『ソレ』が危険な物なのだとしたら、ロンデルさんなら絶対に助けてくれるはずだ。だとしたら――
「アルさんっ!」
耳元に届いた声に、下を見ると……イーナが、俺の胸の中で泣いていた。
「お願いですっ……アレは、だめです……」
ぎゅうっと、俺の服を握りしめて、イーナは俺の胸元に顔を埋めた。
「……ロンデルさん」
「なに?」
ロンデルさんは、面白そうに笑っていた。
「別に、『ソレ』を倒してしまっても、構いませんか?」
「どうぞ、ご自由に」
腰元から剣を抜こうとして、そういえば今は帯剣していなかったのだと思い出した。
俺の愛剣は、俺の部屋でベッドに立てかけて置いてある。
――にも関わらず、手のひらにはヒンヤリとした感触が握られていた。
生まれてから何千、何万と繰り返した動作で、俺の正面に構えられた剣は、青色をしていた。
太陽が昇る直前の、どこまでも澄み切った空みたいな……綺麗な碧色。
全く見覚えがない。
そもそも、俺はどこからこの剣を取り出したのか?
色々と理性では疑問が浮かんだが、初めて見るはずの剣は、なぜか俺の手のひらにしっくりとハマった。
剣を左手に握り、イーナを右腕に抱える。
剣の先端が示す直線の上には、ちょうど『ソレ』の姿が重なっている。
あとは……『ソレ』が間合いに入った瞬間に、剣を縦に一回振ればいいだけ。
細かいことは、後から考えたらいい。
今は、『ソレ』を排除することが最優先。
たぶん、簡単に決着はつくだろう。
特に理由はないけど、なんとなくそんな感じがする。
『ソレ』の歩みは、お世辞にも軽やかとは言えない。
一歩一歩、ゆっくりと。地面を踏みしめながら近付いてくる。
むしろ、俺の間合いまでちゃんと来れるのか心配になるくらい、頼りない足取りだ。
あと、二メートル。
胸の布地が濡れているのを感じる。
俺の胸に顔を埋めたまま震えている、イーナの涙。
珍しい、イーナが泣くなんて。
もっと小さい頃はたまに泣いてた気がするけど……少なくともここ数年はなかったはずだ。
――ふわりと、いい香りがした。
ついさっき嗅いだのと、同じ匂い。
どこからするんだろう?
エンリ村では果物なんて高級品は育ててないが。
頭の片隅で思いつつ、俺は『ソレ』の一挙手一投足を観察していた。
あと、一メートル。
『ソレ』がもう一歩か二歩進めば、間合いだ。
腕に力を込める。
あと、一歩。
軽く剣先をあげる。
あと――
――刃が『ソレ』に触れる寸前、俺の動きは止まっていた。
俺の意思に反して、勝手に動きが止まった左腕を見て……愕然とする。
まるで石にでもなってしまったかのように、ピクリとも左腕が動かない。
「なん、でっ……」
そうやって俺が慌てている間にも、『ソレ』は着実に近づいて来ている。
突然、『ソレ』が何か恐ろしい物のように思えてきた。
イーナを右腕に抱えたまま、数歩後ろに下がる。
「ろ、ロンデルさんっ……腕、腕が……」
「腕が?」
「うご、かないんです! 突然、固まってしまって……あの、助けてくれませんか?」
ロンデルさんは不思議そうな顔で、首を傾げた。
「でも、固まってるって……僕の目には、ちゃんと両手とも動いてるように見えるけど?」
「え……」
言われて、自分の手を見る。
剣を握っている方の腕。
ついさっきまで、剣を振った時の姿勢のまま全く動かなかった左腕は、剣先を自然に地面へと向けていた。
筋肉が痙攣しているような違和感もない。
――ザッ、と。
土が擦れる音が聞こえた。
いつの間にか、すぐ目の前――手を伸ばせば届くくらいの距離に、『ソレ』は迫っていた。
実際、『ソレ』は俺に向けて手を伸ばしていた。
心臓が止まりそうになる。
足が上手く動かなくて、イーナの足と俺の足が絡んで、簡単にバランスが崩れた。
イーナを怪我させないように、それだけが意識の端に浮かんで、俺はイーナの下敷きになるようにして地面にお尻から倒れていた。
上から、『ソレ』が俺とイーナのことを覗き込んでいる。
万が一にもイーナに触れさせないように、剣を手放して、両手でイーナを強く抱きしめる。
モゾモゾと動く感触がして、
「……アルさん?」
小さな声が聞こえた。
目を向ける余裕なんてない。
こちらをジッと見つめている『ソレ』を、睨み返す。
絶対にそこにいて、俺の視界に入っているはずなのに……やっぱり見えない。
視界一杯には、雲一つない青い空が、どこまでも広がっていた。
一匹の鳥が、空の高い場所で飛んでいる。
その鳥の動きがどこかおかしいと気付いたのは数秒後だった。
ついさっきまで、自由に空に弧を描いていた鳥は、空に縦の直線を引いていた。
羽を折り畳み……降下している?
――いや、落ちている。
綺麗な落下ではない。
風に揉みくちゃされながら……北の森へと落ちていった。
鳥に続けて、どんどん破片が落ちていく。
……空の。
空が……落ちていた。
「は?」
自分がアホな顔をしているのが分かった。
あんぐりと口を開けて……ボロボロと崩れていく空を見上げる。
「イーナは、本当にそれでいいのかい?」
声が聞こえてそちらを見ると、ロンデルさんがこちらへと歩いて来ている所だった。
イーナ?
下を見る。
俺の両腕に抱きしめられた姿勢のまま、イーナは下から俺の顔を見つめていた。
涙でぐしゃぐしゃで、顔を苦しそうに歪めて……それでもジッと、目だけは俺のことを見ている。
「――さて」
ロンデルさんは、地面に転がっている俺とイーナのすぐ傍に立って、空を見上げた。
「あまり時間はないみたいだ。――ん」
手のひらが差し伸べられる。
俺は、躊躇いながら左手でそれを掴んで、イーナを片手で抱きかかえながら立ち上がった。
そこで気付いた。
『ソレ』の気配が、いつの間にか消えている。
周りを見渡しても、どこにもいない。
「本当は、アルくんに選んで欲しかったんだけどね」
「……なにを」
疑問のままに言うと、ロンデルさんは困ったように苦笑した。
「それを僕が言ったら意味がないでしょ。……でもまあ、イーナは選べたみたいだから及第点かな?」
「――あなたは、誰ですか」
イーナが俺の腕から抜け出して、ロンデルさんに向かって話しかけていた。
表情は見えない。後頭部の黒い髪の毛だけが見える。
ロンデルさんは薄く微笑んで、
「ただの……通りすがりの他人だよ」
「私が聞きたいのは、そんなことではありませんっ!」
苛立った口調で言って、イーナはロンデルさんへと荒い足取りで迫った。
「私が、聞きたいのは――」
「僕がどうしてここにいるか、かい? もちろんそれは……」
ちょんっ、とイーナの額を突いて、ロンデルさんは悪戯っぽく笑う。
「内緒だよ」
顔の半分だけ、イーナの唖然とした顔が見えた。
そんなイーナに構うことなく、ロンデルさんは俺とロンデルさんの間の空中に水晶玉を置いた。
深紅の霧の蠢く水晶玉は何にも固定されていないのに、当たり前のように宙に浮かんでいる。
「時間が無いからね。あとは彼女が全部やってくれるはずだから」
ロンデルさんは右手で俺の右手を掴んで、続けて左手でイーナの左手を掴んだ。
あっと言う間もなく、俺とイーナの手が繋がされる。
俺とイーナの手が、水晶玉へと誘導されて……
「もう無くしちゃわないように、ちゃんと護ってあげてね。いちおうこれでも、大事な一人娘だから」
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