45話 『橙色の日常』
コンコンと、玄関の扉が叩かれた。
「私です」
扉越しに、女性のくぐもった声。
それが聞こえた瞬間、明らかにラインハルトの背筋がピンッと伸びたのが見えた。
「いいぞ、入り給え」
……給え?
ラインハルトの裏返った声に気を取られていると、玄関の扉が外側から開かれた。
背中に太陽の光を背負って、背の高いシルエットが見える。
足がビックリするくらい長い、絵に描いたようなモデル体型。唇は固く結ばれ、細い眉はツンッと反り立っている。
似合わないエプロンを着て、背中に赤ん坊を背負っている彼女――オルヴィアさんは、両手に折り畳んだ綺麗な青色の絹生地を持っていた。
オルヴィアさんの肩の向こう側に、ヒョコリとイーナの姿が見えている。
オルヴィアさんは、パタ、パタ、と。つっかけの音を鳴り響かせながら、大股で室内に入って来て、その圧力に身を仰け反らせているラインハルトの眼前に、仁王立ちした。
「私が荷物を持ってくることくらい予想できましたよね? あなたが敷布を倉庫から持ってこいと、自分で言ったのですから」
「そ、そうだな」
「――オイ」
ラインハルトの全身が震えていた。
膝をピッタリとくっつけ、太腿の上に握りこぶしを並べて置いている。
「分かっているのなら、開けてあげようとか思いませんか?」
「申し訳ございません」
「給え、なんて言っている場合じゃありませんよね?」
「ごめんなさい、少し調子に乗っていました」
冷徹な瞳でラインハルトを見下ろしていたかと思うと、オルヴィアさんはクルリとその場で体の向きを変えた。
仮面が付け変わるかのように、綺麗な笑顔が現れ……オルヴィアさんは、子爵令嬢に相応しい流麗な所作で頭を下げてきた。
「申し訳ございません、エンリ男爵。お恥ずかしい所をお見せしました」
……こ、こわ。
そんな内心は露ほども出さず、俺は笑顔で挨拶を返した。……ちょっとだけ、表情が硬かったかもしれないが。
「こちら、探してみたところ予備の敷布がありましたので、使ってください。……少し古びていますけれど」
「いえ! 本当にありがたいです、助かりました」
オルヴィアさんから敷布を受け取って見ると、確かにちょっとだけ色がくすんでいるが……きちんと処理をしたら何とかなる程度のものだ。
ひとまず今年はこいつで乗り切って、来年までに何とかすればいい。
……ただ、絹って無駄に高いんだよな。貯金がかなり削れてしまう。仕方ないけれど。
軽く鬱な気分になりつつ、俺は……入口のあたりで突っ立っているイーナに目を向けた。
目が合ったとたんイーナはぷいっと顔を背け、そそくさと髪の毛を整える。
……どうやら、ラインハルトが言ってた通り、イーナにもしっかりと話が行っているらしい。
「……えっと、イーナもそんな所に立ってないで、中に入ったらどうだ?」
「は、はい!!」
大きな声で答えてから、イーナは挙動不審を絵に描いたような様子で室内に入ってきた。
キョロキョロと目は泳ぎ、俺の上を言ったり来たり。カクカクと体の動きは固い。
「どうぞ。イーナ嬢はこちらの席へおかけください」
と言って、オルヴィアさんが俺の隣の椅子を動かすと、イーナはペコペコと何度も頭を下げながらそこへと腰を下ろした。
椅子に座ってからも落ち着きなく、横目で俺を見たり、そっぽを向いたり。手のひらで服の端をギュッと握りしめたりしている。
こんなに動揺しているイーナを見るのは珍しい……とか、見るの初めてかもだ。
俺はイーナに目を向けることなく、真っすぐ正面――未だに小さくなっているラインハルトと、その隣の椅子にちょうど座ったオルヴィアさんへと、交互に頭を下げつつ、
「本当に、敷布を貸して下さりありがとうございます。エンリ男爵としてお礼申し上げます。もしシエタ領になにか困ったことがあったら、気軽に声をかけて下さい。シエタ領とエンリ領はこれまでも、そして今後とも同朋ですから」
「……いえいえ、それこそ同朋だからね。困ったときはお互い様。アルくんこそいつでも僕を頼ってくれ。できるだけ力になるから」
なんだかんだ言いつつ、ラインハルトも立派な領主。スラスラとお返しの言葉を述べてきた。
それから、ラインハルトはおもむろに椅子から立ち上がって、窓際へと向かう。
「うーん。ちょっと前から思ってたけど、やっぱり雲行きが怪しいね。どうする? もう暖かくなってきたから雨に打たれても凍えはしないだろうけど、泊ってく? 村の外れに小屋があるから、そこに泊ってもらうことになるだろうけど」
……一瞬、ラインハルトの言っている意味が分からなかった。
ラインハルトの向こう側に見えるのは、小春日和の長閑な風景。とてもじゃないが、雨が降りそうには見えない。
恥ずかしそうなイーナの表情が視界の端っこに入ってきて、ようやく気が付いた。
反射的に拒否しそうになって、その直前で思い直す。
……そもそも、貴族の結婚にはどんな意味があるか?
貴族同士の派閥争いやら、各地と血縁を深めて、緊急時の保険にするとか……色々と大事なことはあるけれど、一番は一つだけだ。
――跡継ぎを作ること。
要は、やることやって、子どもを作らなきゃならない。ラインハルトとオルヴィアさんみたいに。
俺と、イーナが。
現実逃避したくなるが、目を逸らしたところで……この意味不明な状況を回避できるわけでもない。
伯爵さんとか良く分からないし、そもそも何で俺とイーナだけが知らない所でそんな話が進んでたんだとか、ほんと理解不能だし、あり得ない――愚痴を言っても仕方が無いな。
元々俺と婚約関係にあったラインハルトの妹が、諸々の事情で他家に嫁いだ結果、俺の相手はいなくなってしまった。運が悪いことに、近隣に独身令嬢がおらず、中央も何かのゴタゴタがあって、エンリ村みたいな辺境まで手が回らない。
普通は小学校高学年くらいで婚約して、中学校卒業くらいに結婚するこの世界において、十八目前にして独身の男爵家当主――それが、今の俺の立場だ。
ポツポツと回ってくる婚姻話は、俺の倍以上の年齢の準伯爵令嬢とか、明らかに地雷臭のするものばかり。
そんなのと比べたらイーナは……そもそも比べるべくもないレベルだ。
兄の贔屓目を差し引いても、完全なる美少女だと断言できる。
……少なくとも、今の時点で俺はイーナに対して嫌悪感を持っていない。
イーナと……まあ、そういうことをしなきゃいけないかもしれないと考えても、拒否感はもちろんあるけど、嫌悪感は微塵もない。
……これは、ラインハルトの与えてくれた、最後のチャンスじゃないか?
普通、そういうことをするのは、婚姻が終了した後。婚約から婚姻の間は清純でなければならないとか、法律でも決まってるくらいだ。
もちろん、婚姻が正式に成り立ってしまったら、もう後戻りはできない。
その段階になって、やっぱり無理となるよりは……今、小屋で確かめておいた方がいいのか?
エンリ村だとやっぱり周りの目が気になるし。田舎の家の壁は薄い。夜中に村を歩いていたら、はっきりと動物の鳴き声が聞こえてくることも……たまにある。
その点、シエタ村にはそもそも知り合いなんてほとんどいないし……。
「……そうですね」
俺は、机に落としていた視線を持ち上げて、
「父上もいますし、私が一日いなくてもなんとかなるでしょうし……今の時期に風邪をひくわけにはいきませんし」
「そう、分かったよ――」
振り返ったラインハルトは、真面目な顔をしていた。
「それじゃ、オルヴィア。夜支度の準備をお願いしてもいいかな、二人分。僕は全然分かんないから」
「分かりました」
「実は僕、今日は安息日なんだ」
ラインハルトが俺のことを見ながら、そんな突拍子もないことをいきなり言ってきた。
「え、ああ、はい。……というか、シエタ村が今日は安息日だと分かってたから、今日訪ねたんですし」
「そう? うん、そりゃそうか。――でね、何を言いたいかというと……今日、僕は暇なんだよ」
「ん? 書類仕事はあるんじゃ――」
「それは、また次の安息日に回すとして」
腕を組み、大胸筋を微妙に動かしながらラインハルトは、
「というわけで、これから僕とアルくんで……猪を狩りに行きましょう」
「えっ、猪ですか?」
困惑して聞き返すと、ラインハルトは大きく一つ、頷いた。
「だって、よく言うでしょ? 猪の睾丸を食べると、精が出るんだ」
●○●
「できれば大きいやつがいいんだけどねぇー」
剣の柄に腕を乗せつつ、ラインハルトはノンビリと呟いた。
「私は小さい方がいいですね」
「えっ、なんで?」
意外そうに俺の顔を覗き込んできたラインハルトに、俺は苦い表情を返す。
「だって、猪の睾丸って苦手ですから。昔、一度……熱を出した時に母上が茹でた物を用意してくれたんですけど、生臭くて生臭くて……それ以来一度も食べてないです」
「あー、なるほど。確かに、独特の香りはあるかもだ。ちなみに、それっていつの話?」
……あれは、いつだったか?
「確か……十歳かそこらだったと思います」
「じゃ、今食べてみたら案外と美味しいかもしれないよ? 十歳の味覚と十八歳の味覚は全然違うからね」
「……そういうもんですかね?」
「そういうもんだよ!」
やけに力の籠った声で言ったラインハルトが、足を止めた。
俺もほぼ同時に立ち止まり……十数メートル先に落ちている黒い物体に視線を向ける。
「おっと、やっと見つかったよ。どうかなー、大きさ的にオスの糞っぽいけど……どう思う、アルくん?」
「うーん、ここからではなんとも」
言いつつ、俺は猪の糞らしきものの傍まで近付いて、その場にしゃがみ込んだ。
至近距離から、糞の中に混じっている茶色に毛を観察する。
「オスっぽい、ですね。この体毛の感じだと。……まあ、メスがつがいの毛を食んだっていう可能性も捨てきれませんけど」
「ここ最近はずっと晴れ続きだったからねー。足跡が残ってれば判断がついたかもしれないけど、やっぱこれだけだと難しいね」
俺の肩越しから糞を観察していたラインハルトも、俺と同じ結論に達したようで、互いに苦笑いしながら立ち上がる。
「これまでの人生で、こんなに真面目に猪を探すのって初めてかもしれないです。いつもの討伐の時なら嫌になるくらい会うのに、いざ探そうとすると中々見つからないですね」
「いつもなら、二日三日に一回くらいかな、猪と遭遇するのって。言ってもまだ三刻くらいしか経ってないしね。……このままだと、日が落ちるまでに間に合うか怪しいかも」
俺も空を見てみると、太陽は頂点から四分の一ほど傾いていた。
やや、オレンジ色に色付いてきているような気もする。
明日も晴れかー、とか益体もないことをボンヤリと考えながら空を眺めていると――ふと、頭の片隅に引っ掛かることがあった。
「……ところでですけど」
「ん?」
話しかけると、ラインハルトは空から俺に顔を向けた。
「いや、全然今と関係ないんですけど……」
「別になんでもいいよ。どうせ暇だしね」
「いつの間に、二人目の子が生まれてたんですか? 何も言わずシレっと赤ん坊がいるから、今更になって気付いたじゃないですか」
ついさっき、オルヴィアさんに背負われていた赤ん坊を思い出しつつ、俺はラインハルトを睨み付けた。
「オルトくんの時もそうですけど、お祝い事があるならちゃんと早めに言って下さいよ。突然だと祝儀の準備もできないんですから。また後日、何か送ります」
「……ん? 二人目? 何のことだい?」
「いや、とぼけなくていいですから。オルヴィアさんの背中にいた子のことです」
ラインハルトは、目をパチパチと瞬かせた。
「何言ってるんだい? あれは、オルトだけど? 二人目なんて生まれてないよ」
「……は?」
いやいやいや、それは流石に無理があるだろ。
「確か、オルトくんって、今三歳か四歳くらいでしたよね?」
「この間三歳になったよ」
「……どこからどう見てももっと幼く見えましたよ。オルヴィアさんに背負われてた赤ん坊。三歳というか……せいぜい一歳くらい」
俺は、自分が赤ん坊だった時の記憶を持っているから良く分かる。
あの、無力な感じは、一歳かそこらだ。上手く言えないが……三歳ころになると、もっとパワフルな感じがする。
ラインハルトはニカリと笑って……くれるかと思っていたのだが、依然として困惑……というか、心配そうな表情を浮かべていた。
「いや、そんなこと言われても……オルトはオルトだし。もしかして、そんなに変に見えるかな?」
「えっと……変、というか……アレ? 本当にオルトくんなんですか?」
「うん」
全くふざけているようには思えないトーンでラインハルトは頷いた。
……ガチ、なのだろうか?
もう一度、つい数刻前に見た赤ん坊の様子を思い出してみる。
小さな、赤ん坊。
やっぱり……あまりにも小さいと思う。
「……私は別に専門家でもなんでもないので、下手なことは言えないですけど……一度薬師に診せた方がいいかもしれないかな……と思います。というより、シエタ村の他の人とか、あとはラインハルトのお母様とかが、何か言ってないですか?」
「うん。オルトが小さいなんて言ったのは、アルくんが初めてだよ」
「……」
俺が初めてってことは、別に問題ないのかな?
明らか変だったら、俺よりも先に誰かが気付きそうなもんだしな……。
「……どう、なんですかね? いや、ラインハルトさんも知っての通り、子育てなんて一度もしたことない素人意見なので、あんまり深刻に捉えないでほしいですけど……そうですね。あんまり問題ないのかも?」
「うーん。……でも、一度オルヴィアと相談してみるよ。なんてったってアルくんの意見だしね。ありがと」
「いえ、いらない心配をかけたかもしれないです」
「いや、貴重な意見だよ」
心配そうな表情を浮かべていたラインハルトの顔が、突如スッと引き締まった。
ラインハルトの、視線の先――俺の背後。
そこに気配がある。
俺は柄からゆっくりと剣を引き抜きつつ、その場で振り返った。
体長二メートル。
茶色い体毛でビッシリと覆われた体には、縦に二本。白色のスジが入っている。
大物の部類に入る猪が、そこで俺らのことを睨み付けていた。
「僕の一人息子だからね」
後ろから、ラインハルトの静かな声が聞こえた。
「ちっちゃいなんて言われてちゃ駄目だよ。腹いっぱい食べて、いっぱい寝て、大きくなってもらわないと」
シャリンと剣を抜く音が聞こえて、俺の左肩に固い手のひらが置かれた。
「取りあえず、こいつにはオルトの糧になってもらおうか。支援は任せたよ、アルくん」
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