38話 『記憶の欠片 二』
ドボンと水に落ちるような感覚だった。
真っ黒な視界。
体にまとわりつく、自分とは違う物の感触。
上も下も無いけれど、どっちが浅く、どっちが深いかは直観的に分かる。
反射的に、浮上してしまいそうになるけれど、その気持ちをグッと堪えて、底へ頭を向ける。
ただひたすらに落ちてゆく。
光も音も、何も無い。
けれど、怖くはない。
自分の周りには気配が満ちている。
慣れ親しんだ、イーナの気配。
――ここは、イーナの精神の中だという。
実際にこうやってここに来るまでは半信半疑だったが、今では実感として理解できる。
ここは、イーナの中だ。
このだだっ広い、宇宙のような空間。
最初は真っ暗闇だったはずなのに、目が慣れてきたのか、光の点のような物が見えてきた。
いや、そもそも目が無いから、目が慣れるもなにも無いんだが……それが一番近い感覚だ。
ポツンと、光の点が生まれたかと思うと、その数は指数関数的に増えていった。
大きな物から小さな物まで。
色も様々。
白、赤、青、黄、緑、桃、橙……。
視界一杯に、瞬く星が見えてきた。
――『迷子になっている精神の欠片を探してもらいます』――
聖女様の言葉を思い出す。
「迷子?」
「ええ、正確には違いますが、それが一番近い表現かと。この娘の精神は転移の影響で分裂し、奥深くに迷い込んでしまっており、結果として、意識を失っている……と考えればよいです」
俺はイーナの顔を覗き込んで、
「治せるんですよね?」
「勘違いしないで欲しいのですが、あくまで治せる可能性がある、です」
聖女様は淡々とした口調で続ける。
「この娘の精神は分裂したとは言っても、消滅したわけではありません。まだそこにあるのです。であるなら、元に戻すことも決して不可能ではない」
分かったような、分からないような。
そもそも、精神が分裂した状態というのが良く分からない。
多重人格、とは違うようだし。
「それで、探すというのは?」
「それは、そのままの意味です。あなたにはその娘の精神の中に入って、分裂してしまった精神の欠片を探してもらいます。
あなたが発見することができれば、マオ様がそれを感知し、その娘の精神を修復することができます」
「精神の中に入る?」
「口で説明するのは難しいですが、実際にやってみれば自身で分かるはずです。
それよりも重要なのは、アル聖官が娘の精神を見つけることが出来なければ、治すこともできないということです。つまりは、その娘を助けることができるかは、あなた次第」
……俺次第。
「そうですか。……その、一ついいですか?」
「なんでしょうか?」
「どうやって、探せばいいんでしょうか? 何か特徴とか……どんな見た目なのか、とか」
「それは色々なの」
マオさんが、聖女の胸に後頭部をぶつけながら言った。
「何かの物だったり、生き物だったり……見える物とも限らないの」
「……それじゃあ、見つけようが」
「それを見つけるのが、あなたの仕事です」
ピシャリと聖女様が割り込んでくる。
「その娘の欠片が何かは、私にもマオ様にも分かりません。なぜなら、私たちはその娘のことなど何も知らないからです。
ですが、アル聖官にとっては、違うのでしょう? だったら、見つけられるはずです」
「心配いらないの」
聖女様と対象的に、マオさんの口調は柔らかい。
「見つけたら、必ず分かるはずなの。だから、見逃すことは心配しなくていいの。
アルが気を付けないといけないのは、もっと別のこと。その子の精神に飲み込まれてしまうことなの」
「飲み込まれる?」
「そうなの……アルには、これからその子の精神の中に入ってもらうけど、本来は、それは不自然なことなの。だから、必ず抵抗されるの」
マオさんの背中の羽は、緩やかに開閉している。
「アルのしないといけないことは二つ。その子の欠片を見つけること。それと、戻ってくること。どんな抵抗がされるかは、それも色々だけど……危ないと思ったら、必ず戻って来てほしいの」
――
……抵抗、ねぇ。
今の所、それらしいことは何もない。
けど、用心をしているに越したことはないだろう。
ついには周囲を取り囲むようになった星々を眺めながら、気を引き締める。
――さて、いつまでもこうやって景色を眺めていても仕方が無い。
何か行動に移さないといけないけど……。
明らかに怪しいのは、この一つ一つの光点だろうな……。
一番近くにある、桃色の光点。
遠近感とかあるようでないので、近いのかは怪しいが、何となく一番近くに感じた光点に近付いていく。
近付いてみると、案外とそれほど大きくはない。
というか、小さい。
結構離れた場所からあれだけの大きさで見えたんだから、数メートルはあるかと思ってたんだが……せいぜい両手で抱えられるくらいの大きさだ。
表面はボンヤリとしている。
霧のような、雲のような。
人差し指を突き出して、俺はその光点に指先で触れた――。
○●○
「はぁ……兄さんっ……」
――!?
くちゅっ、と湿った音がして、瞬間意味不明な感覚が俺の背筋を貫いた。
なんだ、コレ? なんだ、コレ!?
混乱が頭を満たす。
身体の、自由が利かない。
まさか、抵抗?
「んぁっ」
――っ!?
頭が真っ白になりそうだ。
何か、拍動のような物を感じる。
それはドンドン大きくなってきて――
「はぁ……はぁ……。ふぅ……今日はここまでですね」
息が、苦しい。
全身に倦怠感が残っているのに、身体が勝手に動く。
見える光景が変わって……光。
光、光が見える?
……なんだ?
縦に一直線に、光が見えている。
それが何かを見極める前に……また、身体が勝手に動いて、今度は視界が下に落ちる。
あの変な感触から回復してみると、色んな物が見えてくる。
ここは、どこかの部屋だ。
さっきまで、イーナの精神の中にいたはずなのに。
相変わらず身体の自由が利かない。
視線を動かすことさえできず、ただ、正面の光景しか見えない。
「えっと、手巾は確か……」
左手が勝手に動いて、何か柔らかい物を掴んだ。
視界に何か白い物を持った手が入って来て、それが湿った指先を拭う。
というか……これ、俺の手だ。
全く俺の言うことを聞いてくれなくて、まるで糸で操られているような感じだから実感が薄いが、感触がある。
どうやら、もう片方の、湿っている手も俺の物らしい。
「ふぅ……」
視界が、ちょっとだけ動いた。
応じて――
――
……俺は悪くない。
だって、俺には目を逸らすことも閉じることも出来ないんだから。
ただ、俺の記憶からさっきの光景は、永遠に消えることはないだろう。
消したくても、完全に視界に焼き付いてしまったから……。
……そして、その途中で、俺は気付いてしまった。
俺の意思で体を動かせないから、気付くのに時間がかかったが……所々、視界に見覚えのある物が入ってくる。
ここ、イーナの部屋だ。
祭事殿ではない。
エンリ村の、俺の実家のイーナの部屋。
造りは俺の部屋とあまり変わらない。
増築して作った物だから、ちょっとだけ小さい。
違いはそれくらいだ。
そして――
体が勝手に動いて、さっきの縦の光の元へと向かう。
その、窓の隙間から漏れる光。
そこに俺の指が引っ掛かると、窓が開いた。
パッと、視界が明るくなる。
視線が上がり、夜空に輝く満月が視界の中央にやってくる。
体が動き、窓枠に両腕が乗せられる。
その上に頬っぺたを乗せて、それでも視線は満月を捉えていた。
「……兄さん」
唇が動き、熱い吐息が漏れたのを『感じた』。
どうやら、俺はイーナの体に憑依しているらしい。
憑依とはいっても、体の自由は俺にはない。
俺にできるのは、イーナの五感を感じ取ることだけ。
何を考えてるか、とかは分からない。
加えて、イーナがエンリ村の、この部屋にいる。
満月をイーナと一緒に眺めながら、俺は自分の考えが正しいことを確信していた。
これ、イーナの記憶だ。
口に出して呟く代わりに、心の中だけで言う。
ちょうど、それを同じくして、体が動いた。
窓を閉じて、寝台へと向かう。
どうやら、もう眠ることにしたらしい。
寝台に体を横たえて、瞼が閉じられる。
瞼の裏が見えるから、全くの真っ暗ってわけじゃないが……当然何も見えない。
――
えっと……コレ、俺……いつまで暗闇を見てればいいんだろう?
もう大分時間が経ったと思うんだが……。
何も見えないから、時間の経過が分からない。
でも、もう数分は経ったと思うんだけ――
――ど?
さっきまで真っ暗だったのに、突然視界が開けた。
目の前にあるのは……桃色の球体。
……戻ってきた?
うん、戻ってきたみたいだ。
周りの景色には見覚えがある。
大小様々な光点が、真っ黒な背景に浮いている。
目の前の、桃色の球体を見つめる。
さっきの……イーナの記憶。
想定外の、見ちゃいけない物を見てしまったが……というか。
ついさっき見てしまった、イーナの記憶。
その中で……その、なんだ、イーナは一人で致していたわけだが。
いや、まあ……別に、それは構わない。
イーナも年頃の一人の少女だ。
そういったことをしていても……うん、普通だろう。
問題は……兄さんって、俺しかいないよな?
……これから、どうやってイーナと接すればいいんだろう?
俺とイーナは兄妹で……だから、その、なんだ。
……取りあえず、今は保留しておこう。あとでまた、考えたらいい。
周囲へと目を向ける。
そこには、目の前にあるのと同じような、様々の色の光点が、数えきれないほど浮かんでいる。
あの、一つ一つが……イーナの記憶。
ついさっき……俺が見たのと同じように、記憶が詰まっているのだろう。
これは、イーナも俺も……多分誰しもが同じだと思うが……誰も、自分の記憶なんて見て欲しくないだろう。
イーナがその時、何を考えていたか。
それだけは分からないけど、それ以外の……何を見て、聞いて、感じたのか。
その全部を、俺はこの記憶を通して経験してしまう。
――そんなこと、してもいいのか?
イーナの精神の欠片を探すこと。
俺の目的はそれだけだ。
イーナの記憶を覗き見することは目的ではない。
……とはいえ、他に何をすればいいのか分からない。
俺が見つけられなければ、マオさんがイーナの精神を治すことは出来ない。
治せなければ、イーナはこのまま永遠に目覚めることが出来ない。
他に手がかりがないのなら――
――偶々目に付いた、少し離れた場所にある青色の光点。
次に、俺はそれを目指すことにした。
○●○




