32話 『脱獄 後編』
――脱獄。
汪騎さんの発した物騒な単語に、俺は頭が真っ白になった。
「ああ、あくまで可能性ですからね! もしかしたら、何かの手違いかも知れませんし……」
慌てたように汪騎さんが付け加える。
「……ですよね。そう簡単に特別監獄が破られる訳がないですもんね」
「そうです。まずは確認を――理円さんは中を確認しましたか?」
「中?」
「監獄です。本当に二人とも牢の中にいないのか、目で確認しましたか?」
……あっ、そういえば――
「してないです」
自分では冷静なつもりだったが、案外と俺も動転していたらしい。
サラとイプシロンの身柄が移送されたと受付から聞いて、それが本当なのか確かめもせず鵜呑みにしてしまっていた。
もしかしたら何かの勘違いで、案外と二人とも牢の中でグースカ眠っているかもしれない。
……そう思いたい。
――
結果から言うと、二人とも牢の中にはいなかった。
どっちも空っぽ。
匂い消しの残り香だけがそこにはあった。
再び闘仙府に戻った俺と汪騎さんで、即座に対策を練った。
まず、取りあえず指名手配……といきたい所だが、ことはそう単純じゃない。
そもそもからして、二人の存在は極秘事項だからだ。
存在しない人間を指名手配することはできない。
――どうして二人の存在が極秘事項なのか、そこにはなかなか複雑な理由がある。
では、仮に大々的にサラとイプシロンを指名手配にかけたとしよう。
それを見た一部の人はこう思うだろう。
「この二人は、一体何のために鴻狼に侵入したのか?」と。
正解は、「アル・エンリが鴻狼にいるから」なのだが、残念ながらアル・エンリなんて人物はここにいないことになっている。
存在するのは、伯 理円――大闘仙、伯 狼円の義理の息子だけだ。
まあ、仮の話だ。仮に、適当にそこらへんの、二人の目的をぼやかして指名手配をして、無事二人を捕まえることができたとしよう。
今度は、捕まえた二人の身柄をどう扱おうか、という話になるだろう。
少なくとも、俺の意思で動かす事のできない場所に二人の身柄は行ってしまうだろう。
そういった諸々の面倒事を考えて、指名手配をするという案は、話し合うこともなく暗黙の了解で却下になった。
二人の事は探さないといけないが、あくまで秘密裏に実行しないとならない。
――ここで、ちょうどいい機会なので、俺はこれまでの顛末を汪騎さんに伝えることにした。
サラは華で武仙として所属することを希望しているが、俺としては反対であること。そして、イプシロンの話によると、教会の立場からしてもサラが教会から離れる事は許可できないらしいこと。
この二点だ。
「――なるほど、つまり再度捕まえる必要はないということですね。連絡さえ取れればいいと」
理解が早くて助かる。
「はい。特にイプシロンの方と連絡を取れたらと」
「なるほど……とはいえ、そのイプシロンというのは、かなり危険な聖官だという話を聞きます。無力化しないと話ができないのなら、結局、一度捕まえねばならないのではないですか?」
汪騎さんの表情は険しい。
どうやら、イプシロンが危険な聖官だというのは、割とポピュラーな話らしい。
そういえば白虎もイプシロンのことを元々知ってたみたいだしな……一体、何をやらかしたんだ、あの人は。
「うーん、けど、イプシロンは即座に危害を加えてくるような人じゃないですし、そこまで危険視しなくても大丈夫だと思いますよ」
できるだけ軽い調子で言うと、汪騎さんは鋭い目つきで俺を見てきた。
「それは、確実ですか?」
「えっ……いや、多分ですが」
「私は多分に部下の命をかけるつもりはありません」
ピシャリと言って、汪騎さんは続ける。
「ここは安全策でいきましょう。どうやって二人を捕まえるか……何か意見はありますか?」
――
一刻ほど、汪騎さんと話し合って、大まかな作戦を立てた。
サラとイプシロン、二人がどんな目的をもって脱獄したのか分からないが、いずれにせよ、むこうから俺にコンタクトを取ってくるだろう、という部分では俺と汪騎さんの意見は一致した。
だから、そこを迎え撃てばいい。
最初の作戦と一緒だ。俺がエサになって、そこに食らいついてきた所を引き上げる。
もちろん、こっちから二人の行方を探す努力もする。
人探しは技仙府諜報部が専門だが、黒衣衆も似たようなものだ。
あくまで探すだけでひっ捕らえようとか、危険なことはしない。
捕まえるのは、最大戦力――お義父さんを配置している場所で、だ。
作戦は以上の通り。
シンプルだが堅実なものだ。
そんな作戦だが、一つだけ不確定要素がある。
――誰が、二人の脱獄を手引きしたのか?
知っての通り、二人の存在は極秘事項だ。
そもそも二人が特別監獄に捕らえられていることを知っている人間は、それほど数はいない。
しかもそのうちで、二人に協力するような人……ちょっと心当たりがない。
強いて言えば俺ぐらいだ、二人と親交があるのは。
もちろん、犯人は俺ではない。
――で、まずは今朝、二人が特別監獄から出たと思しき時間帯に、監獄の受付をしていた人物を呼びつける事にした。
応接間に入ってきたのは、三十代ぐらいの痩せた男だっだ。
かなり緊張しているようで、額には汗が光っている。
「座りなさい」
俺の隣のソファーに腰かけている汪騎さんが、対面のソファーを手で示した。
「は、はい」
男はソファーにおずおずと座って、
「そ、その……私なにか、してしまったでしょうか?」
汪騎さんは破顔する。
「いやいや、別に君を叱責しようというわけではなくてね、ちょっと聞きたいことがあって呼ばせてもらったんだが――」
汪騎さんが話している間、俺は男の顔を観察してたんだが……どうやら、この男は犯人ではないようだ。表情が柔らかくなった。もしこいつが犯人なら、逆に強張るはず。
……まあ、わざと表情を操作してるのかもしれないが、そんな高度な技術を身に付けてるなら、こんな捨て役みたいな場所に甘んじてないだろう。
「今朝、二名が監獄から移送されたらしいが、覚えはあるか?」
「はい、確かにそんなことが、ありました」
「……収監者を移送する時には、書類が必要なのは知ってるよね。きちんと確認したか?」
「い、いえ……」
「してないのか?」
汪騎さんは驚いたように目を見張った。
「はい」
「なんで、確認していないんだ」
横から聞いても分かるくらいに、その声には怒気が含まれていた。
直接、その強烈な怒りを向けられた男は、見てるこっちが可哀そうになってくるくらいに萎縮している。
「収監者を移動させる時には、必ず書類を確認すること。教育されなかったか?」
「は、はい」
「なら、なんで確認しなかった」
「そ、それは……」
冷や汗を顎から垂らしながら、男は喉から絞り出すように言った。
「私も、確認しようとしたのですが……後で書類は持ってくると、大闘仙が」
○○○
俺と汪騎さんが立てた作戦は、その根本から崩れた。
慌てて、汪騎さんは手の空いている数十人の闘仙に命じて、俺は部下の蟲師に命じて、お義父さんの姿を探させたが……たった数刻ではお義父さんを見つけることはできなかった。
だから、最後の手段。
あまり頼りたくはなかったが、時間を無駄に使う気はない。
俺は祭事殿に戻って来ていた。
イーナには、未来を予知する力がある。
対象は、魔素の少ない人間、あるいは漠然とした自然。
相手が目の前にいる必要はない。
具体的にどの程度の距離までかは俺は知らないのだが、少なくとも鴻狼内であれば、誰の未来でも見ることができる。
実質、予知眼と千里眼が混じっているような物だ。
今からコンマ一秒後に誰それがそこで何をしているか分かるわけだから。
この力を使えば、直接は未来を見る事のできない相手の未来もいくらかは予測することができる。
例えば、俺が食事に行ったなら、そこのウェイトレスを見れば、俺から注文を聞く姿が見えるだろう。
だから、イーナはお義父さんの姿は直接見えずとも、お義父さんを目撃した誰かの姿を見れるはず。そう思って、俺はイーナに見てもらうように頼んだ。
「えっ……」
俺の諸々の説明を聞いて、イーナはかなり驚いているようだった。
まあ、脱獄に、お義父さんが突如不可解な行動を取っている、という、二重の衝撃だからな。驚くのも無理ないだろう。
俺も訳分からないんだから。
「狼円さんが行方不明、ですか?」
「ああ。闘仙の人たちと、俺の部下の蟲師に探してもらったんだけどな。見つからないんで、イーナに頼もうと思って」
「……ちょっと、待って下さいね」
早速、イーナは探し始めてくれたようだ。
……数分して、イーナは目を開いた。
「……ごめんなさい、せっかく頼りにしてくれたのに……何も、見えないです」
言って、イーナは額に滲んだ汗を、真っ白な手巾で拭った。
流石の黒狼様でも、鴻狼のどこにいるかも分からない相手を探すのは疲れたのだろう。
「そうか……」
まあ、何も見えないのも成果だ。
逆に言えば、少なくともこの数刻以内に、お義父さんはイーナの力の対象範囲内の人間の前に現れないということだからな。例えば……俺以外の黒衣衆の前とか。
「分かった……確か、今晩のイーナの警護は、白虎だったですよね?」
イーナの後ろに控えている白虎に聞くと、
「はい、そうですが……」
「なら、今晩だけ、私も一緒にいてもいいですか?」
こうすれば、一石二鳥だ。
俺としては、念のためイーナを護れる場所にいたいし、俺自身の安全も保障される。
「私は構いませんけれど……」
なぜか困惑したような表情の白虎が、イーナへと目を向ける。
当然、イーナも同意してくれるものだと俺は思っていたのだが、
「……サラさんとイプシロンさんの目的は、兄さんですよね?」
難しい顔をしながら、イーナがそんな当然のことを尋ねてくる。
「ああ、そうだが?」
イーナは何かを考えているようだ。
口を堅く引き結んで、床に目を向けている。
「ここは……予想されやすいですから、兄さんはここにはいない方がいいです」
イーナは視線を俺へと向ける。
「取りあえず、数日間……兄さんには誰も知らない場所に身を隠してもらえれば、その間に狼円さんも見つかるかもしれません。そうすれば、目的を聞いて――」
「黒狼様」
何かをイーナは続けようとしていたが、それを珍しく白虎が遮った。
「……どうか、落ち着いて下さい」
ハッ、としたような顔で、イーナは白虎の顔を見つめる。
そのままの表情で俺へと顔を向けてきて、一瞬目が合ったが、慌てたようにイーナは視線を逸らした。
「……サラ聖官とイプシロン聖官、二人の目的は土竜なのですから、一旦土竜には身を隠してもらった方がいいと思います。黒狼様のことなら、私たちでしっかりと護りますから」
イーナの様子が少し気になったが、ひとまず俺の意識は白虎へと向かった。
「確かに、私だけのことを考えるなら、身を隠すのでもいいと思いますが……同じ安全度なら、イーナも護れた方がいいじゃないですか。私もずっと心配しながら隠れてるのなんて嫌ですし」
「……ですが、土竜の居場所として、祭事殿は予測が付きやすいですし、やはり避けた方が……」
……? どこか、話が噛み合っていない気がする。
「イーナにお義父さんの姿が見えなかったんだから、少なくとも数刻内に白虎の前にお義父さんは現れないんでしょう?
元々、今夜の警護は白虎の予定だったんですから、今の時点で白虎の未来が乱れてないってことは、普段と違うことは白虎の身に起こらないってことだと……私は理解していたんですけど」
イーナの未来予知には色々と細かな制限があるらしいが、今回の件では例外には当てはまらないはず。少なくとも、俺が知っている範囲では。
「あ……いえ、そうですが」
さっきから、どこか白虎の歯切れが悪い。
イーナも様子がおかしいし……。
何か、隠し事でもされてるんだろうか?
気になるけど……でも、まあ……二人が俺に隠し事をするなら、それなりの理由があるんだろう。何の意味も無く、そんなことはすまい。
「分かりました、よく分かりませんが、しばらくは二人の言う通りに姿を消そうかと思います」
俺が言うと、明らかに白虎はホッとした様子だった。
イーナは白虎ほど露骨ではないけど、幾分か雰囲気が和らいだように見える。
「ただ、一つだけ。私が言うまでもないですが、その間……イーナのことは任せましたよ」
「もちろんです。黒狼様はこの身に代えても護り通します」
まあ、サラとイプシロン、あるいはお義父さんがイーナに危害に加えるとは思えないからな。白虎が身を投げうつ必要はないだろうが。
仮に三人以外の誰かが祭事殿までやって来ても、それが最低でも聖官レベルの実力者でもなければ、白虎が遅れを取ることは無いだろうし……そもそも、そんな存在はほとんどいない。
――にしても、それよりも問題は、どこに身を隠すかだが。
家の目の前のあの廃墟でいいかな? いや、お義父さんもあそこは知ってるから駄目か。
他には――
「全く、親子揃ってどうしてこんなに面倒事を引き起こすのか。どちらも実力があるから、たちが悪いですね」
「……は?」
何の前触れも無く、背後に極大の気配が現れていた。
俺には、間抜けな声を漏らしながら、ゆっくりと振り返ることしかできなかった。
「はぁ……さっさと行きますよ」
祭事殿のど真ん中に立っていたのは、金髪の女性。
力の籠った真っ赤な瞳に、青い神官服。
神官服の胸元は、滑らかな曲線に大きく盛り上がっている。
聖女様が人差し指を向けてきたかと思うと、俺の上下に、回転する二つの青色の円盤が生まれた。半透明の円の中には、細かな文字が幾何学的に刻まれている。
「……えっ……どうして?」
どうして、聖女様がここに?
頭が……全く追い付かない。
聖女様にも、説明する気は全くないようだった。
俺が何もできずに硬直していると、キンッと金属のような音が上下に聞こえた。
同時に、二つの円盤の回転が止まる。
「兄さん!!」
どこか遠くから、イーナの声が聞こえた気がした。
景色が伸びて……暗転する。
○○○




