30話 『暗躍』
「釣れないでしょう、こんな所では」
声をかけると、緩慢な動きでお義父さんは振り返ってきた。
「たまには釣れるぞ」
「ほれ」と言いながら釣り糸を水面から上げると、先っぽには赤色の……子供用の靴らしきものが吊り下がっていた。
俺の手のひらよりも小さなその靴の中には、なみなみと濁った水が入っている。
かなり古い。
……このドブ沼、変な物でも沈んでるんじゃないだろうな?
「汚いですから持ち上げないでくださいよ。服を汚したりしたら、またお義母さんに怒られますよ」
「なっはっは……確かにそうじゃな」
ドボン、と靴が沼に再び落ちると、そこを中心として波紋が広がった。
濁った水面映る、岸部に座るお義父さんと、その脇に座ろうとする俺の姿が掻き消える。
「いっつも思うんですけど、もっとキレイな所なんていっぱいあるのに、なんでお義父さんはわざわざこんな所で釣りをするんです?」
「ん? そりゃ、家から近いからじゃが」
チラリとお義父さんが視線を上げると、その先には赤と緑で派手に色彩された、背の高い建物が建っている。
ベランダには、なまっちろい肌を大胆に露出した、たくさん女性。
そのうちの何人かがこっちの視線に気付いたのか手を振ってきた。
それに両手で投げキッスをして返すお義父さんを白目で見つつ……俺は周囲に目を向けた。
ここは、鴻狼の南西。
大通りから路地の裏に入った場所で、俗に言う色街だ。
色街、と言えば治安が悪そうなイメージがあったが、むしろ治安は悪くない。
郷も国も、ここの存在を認識しているから警邏をたくさん配備してるし……仕事柄知ったのだが、普通の街以上に統制がしっかり行き届いているのだ。
「で、こんな真っ昼間からどうしたんじゃ?」
真っ昼間から仕事もせずに暇を持て余しているおっさんが、そんなことを尋ねてきた。
いつものことなので、特に指摘する気も起こらない。
「それがですね、ちょっと相談したいことがありまして」
「相談?」
「はい、例の二人の件で」
「理円の好きなようにしていいぞ」
顔を向けることもなく、お義父さんはボンヤリとした声で言った。
「じゃあ、サラ――乍 凛華を養子に取ってもらっていいですか? まだ分からないですけど、尹も一緒に取ってもらうことになるかもしれません」
「……」
無言でお義父さんは俺に顔を向けてきて、一度釣り竿の先端へと視線を戻し、それから再び俺に視線を向けてきた。
「はぁ? 何がどうなったらそうなるんじゃ?」
「それが――」
――
「……なるほどなぁ」
俺の話を聞き終わったお義父さんは、しばらく青空を仰いでいたかと思うと……突然背後へ首を捻じった。
俺もお義父さんの動きにつられて目を向けたが、
「……どうかしました?」
そこには、今にも崩れそうなボロ屋が経っているだけ。
一応はご近所さんとなるが、俺が華に来てから一度もこの建物に人が出入りしているのは見たことがない。廃墟なのだろう。
「……いや」
小声で言って、お義父さんは膝の上に頬杖をついた。
「まぁ、儂は別に構わんが。儂はよくても嬢ちゃんがうんと言うかの?」
「……ですよね」
何となく釈然としないが、まあいい。
気を取り直して、俺は再び喫緊の悩みの種に思考を割く。
嬢ちゃんとは、イーナのことだ。
イーナは俺が危険な状況にいることをよく思っていない。
例えば、俺が自分の手で追手を迎え撃つつもりだ、と言った時に、最後まで反対していたのはイーナだった。
気持ちは分かる。
俺だって、イーナが死ぬかもしれないことをしようとしてたら、全力で止めようとするだろう。
むしろ、何のかんの言っても俺の希望を通してくれたことが申し訳ないくらいだ。
で、俺が追手を迎え撃つことは許してくれたイーナだが、追手が恒久的に鴻狼にいることを許すだろうか?
しかも、追手はどちらも大きな脅威。
特にイプシロン。
サラは何とかいなせるかもしれないが、イプシロンは聖官拘束によって俺を瞬時に殺傷することができる。
そんな危険人物、俺だったら自分の家族の近くにいるのは嫌だ。
イーナも……おそらくそう思うだろう。
「でもまあ、あくまで可能性の話ですから。もしかしたらどっちも教会に帰るかもしれないですし、サラだけが残るのかもしれないし、今言ったみたいに両方とも残るかもしれません。
ただ、もしもイーナの説得が必要になった時は、私が何とか説得しますから」
「ん、分かった。まぁー、もともとが理円の問題じゃからな。好きなようにすればいいぞ。話はつけとくからの」
なんだかお義父さんが頼れる人に見えそうになるが、それは目の錯覚だ。
お義父さんがどうしようもない人だってことは、この一年で身に染みている。
お義父さんが日がな一日やってることは、釣りか昼寝か……あとは街をフラフラすることくらい。毎日が日曜日である。
たまーに、どっかに出た特級の魔物を爆散させに行くが、それ以外は基本何もしていない。
念のため言っておくが、お義父さんは無職ではない。ちゃんと仕事に就いている。
大闘仙。
闘仙府のトップ、つまりは華における武の頂点に位置する人間だ。
もちろん、大闘仙とは本来多忙を極める地位だ。
戦うこと以外にも、後進の指導や、闘仙たちの統率……等々、やらねばならないことはいくらでもある。
お義父さんは、それを全部放り出してフラフラしているのだ。
そして、お義父さんの代わりに放り出された仕事をこなしているのが、次官の……黒狼節の打ち合わせにも出席していたスキンヘッドのおっさん。
……本当に申し訳ない。
本当に申し訳ないけど……今回、俺のせいでまた迷惑をかけることになってしまう。
正確には、俺がお義父さんにした頼み事をお義父さんが全部スキンヘッドのおっさんに丸投げすることによって、間接的に迷惑をかけてしまう。
……あとで、菓子折りでも持っていこう。
――
さてと、これからどうしようか……。
人混みをすり抜けつつ、突如として湧いた面倒事に俺は頭を悩ませていた。
これも全部、サラのせいだ。
いや、サラのせいでもないけど……やっぱりサラのせいだな。
大人しく教会に帰ってくれたらいいのに、駄々をこねるからこんな面倒なことに。
けど、あの様子を見るに、俺に説得は無理だしな。
サラも華に残って、武仙として生きていく……実力的には問題ないし、さっきお義父さんから許可ももらった。不可能ではないだろう。
問題は、教会がどう行動するかだ。
イプシロンから聞いた話からすると、教会がサラを手放すことを認めるとは思えない。
でも、教会にサラを説得することができるかな?
無理やり連れ帰って、朝国と戦争してこいって言ってもサラは従わないだろうし。
……うん、分からん。
ともかく、あらゆる可能性を考えて……まずは教会とコンタクトを取らないと始まらない。イプシロンにも相談して――
「おや、これは奇遇ですねッ!」
半分笑っているような声に顔を上げると、そこにはヘラヘラした顔のおっさんが片手をあげて立っていた。
「どうです? ちょうど昼時ですし、ご一緒に」
狒狒の言葉に、少しだけ驚く。
緊急連絡とは珍しい。数月に一度あるかどうかといった所だ。
「……そうですね。では、いつものお店に行きましょうか」
このまま祭事殿に戻ってイーナの昼の調節をするつもりだったが、少しくらい時間をずらしても問題ない。
狒狒の連絡を優先して、二人で冗福へと向かうことにした。
――
「先方がですね……はふッ、気付いたようでして……会いたいと」
注文十秒で出てきた肉まんを早速頬張りつつ、狒狒は気楽な口調で言った。
けれど、目は全く笑っていない。
狒狒はふざけた男だが……これでも最古参の獣師。
数多くの修羅場を潜り抜けてきているはずだ。
俺にとっての狒狒は先輩みたいな存在で、怒られると少しだけ凹む。
まあ、俺がポカをしたんだから仕方が無いんだが。
先方、とは蔡家を表す隠語だ。
蔡家が気付き、俺に会いたいと言っている。
今の状況でそれが意味するのは、俺と丘錬のやり取りがバレたということなのだろう。
「すみません、私のせいで……急いで謝罪に向かいます」
「頼みました」
と、そこへ、お店の人が食事を持ってきた。
「華麺です」と言いつつ、眼前に丼ぶりが置かれる。
……ノンビリ食ってる時間はないな。
席を立ち、机にお金を置く。
「すみません、私はもう行くので……」
口いっぱいに肉まんを詰め込んでいる狒狒は、軽く手をあげて返答してきた。
……そんな食べ方をするから、口の周りが油でテカっている。
そういうとこだよなぁ。
そんなんだから、狒狒はモテないのだ。
仕事はできるんだけど、何と言うか……品がない?
なんてことを思いながらジッと見ていると、狒狒は俺の視線に気付いたようだった。
「どうしました? ……あッ、私に惚れちゃぁいけませんよ? 気持ちは嬉しいですけど、私は女性専門ですから!」
俺が頼んだ華麺を自分の方に引き寄せつつ、狒狒はとち狂ったことを言ってくる。
相手をしても時間の無駄なので、俺は狒狒の言葉を無視して出口の暖簾へと向かった。
○○○
壁には時計が掛かっている。
時計なんて高級品、こっちの世界ではほとんどお目にかかれない。
王国の王城の中で幾つかあるくらい。……まぁ、中央教会には大抵の部屋には設置してあったが。
そんな時計がここでは――蔡本家、応接間では、誇らしげに壁で時を刻んでいる。
……俺が時計を眺めている間に、長針はもう二周しただろうか?
いい加減見飽きたな。
憂鬱な気分で蔡本家に向かった俺は、すぐに応接間に通された。
「当主様はただいまご準備中ですので、こちらの部屋でしばらくごゆるりとお待ちください」とのことだった。
ごゆるりと待つこと二刻。
当主様の準備は想像を絶する時間がかかるらしい。
……というのは冗談で、おそらくは俺を待たせること自体が目的なのだろう。
普通、相手を待たせるのは失礼なことだ。
その失礼なことをわざとやってきている。
当然、俺はイライラする。
だけど、謝罪をしに来た立場だからこそ文句を言うわけにもいかない。
言い返せないからさらにイライラする。
……的な感じだろうか?
俺は専門じゃないからこれくらいしか想像できないが、蔡家は交渉事のプロ集団だ。
もっと深い理論的な意味があるのかもしれない。
例えば……そうだな、部屋の調度品一つ一つの配置にさえ意味があっても、俺は驚かないな。
……なんてことを考えつつ暇を潰すのも、そろそろ限界だ。
まぶたが、重たい。
ここで寝たら絶対に駄目だと分かってるけど、それでも居眠りしたい感情が高まってくる。
「……ふぅ」
欠伸を噛み殺して、ソファーから立ち上がる。
やっぱり、座りっぱなしっていうのが良くないのだ。立っていたら多少は眠気も晴れるだろう。
朦朧とする視界で、部屋の中を見渡す。
目に付いたのは、俺の座っていたソファーの真後ろの飾られている絵画。
真っ黒な背景の中央に、浮かび上がるようにして裸婦が一人佇んでいる。
「ふむ」
口元に手をやって息がかからないようにして、絵画に顔を近付ける。
……近くで見ると、離れてみるのとはまた受ける印象が変わってくる。
遠くから見たら黒の中に浮かぶ真っ白な女性に目が向かったが、近くで見るともっと細かな部分も見えてくる。
真っ黒な背景は、ただの平坦な黒ではなくて、筆のタッチでうねるような流れが付けられている。穏やかな波というよりは、燃え上がる炎。
真っ黒な炎の中に、裸婦が一人佇んでいる。
太っても痩せてもなく、美人でも不細工でもなく、平凡な女性だ。
しかも、表情がない。
冷たい瞳で俺を見ている。
どこまでも透き通った真っ黒な瞳。
その瞳にだけは、どこか感情が隠れているような気がした。
光の加減か、瞳に動きがあるような感じがするのだ。
不思議に思ってマジマジと観察してみて……しばらくしてから気が付いた。
やっぱり、俺の受けた印象は正しい。
この瞳は普通の瞳じゃない。
黒の絵の具で塗る代わりに、漆黒の……ガラス玉? が嵌め込まれている。
それが光を反射しているおかげで、瞳に動きが感じれたのだ。
……へぇー、細かい芸だ。
こういう、よく見ないと分からない工夫は結構好きだ。
派手じゃないからパッと見では分からないけど、足を止めて観察した人だけが気付くことのできる小さな工夫。
自力でこういうのを見つけられると、なんだかちょっとだけ嬉しい……。
「気に入られましたか?」
背後からの声にゆっくりと振り返ると、五十くらいの男性が部屋の扉を開けて中に入ってこようとしている所だった。
「はい、とても」
平静を装ったままに、白髪の混じった髪の毛をオールバックに固めた男性――蔡本家当主、蔡 清錬の方へと向き直る。
内心、かなり恥ずかしいのは内緒だ。
裸婦像をマジマジと眺めていた姿を見られたのは失態だが、その姿を見られて取り乱す様子を見られるよりはマシだった。
「ははは、流石は黒衣衆の首領という所ですね。狒狒殿があなたを認める理由がようやく分かったような気がしますよ」
苦笑いをしながら、精錬は後ろ手に扉を閉める。
……?
「恐縮です」
意味が全く分からないのだが、取りあえず分かっているフリをしておく。
精錬は小さく一つ頷いて、歩き始めた。
俺の対面のソファーの脇へと進み、当然の様に腰掛ける。
「どうぞ、おかけ下さい」
精錬が言ってきて、ようやく俺もソファーに座った。
「いやいや、今日はお忙しい所お呼びだてしてすみません」
「いえ、そんな……」
全く、白々しい。
人をこんだけ待たせといて、悪びれもなくよく言えるな。
俺がそう思ってることもどうせ分かっているんだろうが、そんな様子は毛ほども見せず、精錬は微笑みを崩さない。
おもむろに机の上からベルを取って、チリンと一度だけ鳴らした。
「失礼いたします」
静かに扉が開き、片眼鏡をかけた老爺が部屋に入ってくる。
「いけないよ。お客様にお茶もお出ししないで。早く用意を」
「失礼しました、急ぎ準備します」
次いで、老爺は俺に体を向けて、綺麗に直角に頭を下げてきた。
「伯 理円様、大変な御無礼を。お許しください」
「……いえ」
お爺さんは悪くないよ。
この腹黒の命令に従っただけなんだろうから。
しばらくして、老爺がお盆に湯飲みを乗せて部屋に戻ってきた。
精錬と俺の目の前に湯飲みが置かれ、再び俺と精錬の二人きりになる。
「さて、どうやらうちの倅がご迷惑をおかけしたようで」
思いのほか、精錬は率直に話を切り出してきた。
「……蔡 丘錬様のことでよろしいでしょうか?」
「そうですね」
「確かに、丘錬様から依頼をお受けしましたが……」
話しながら表情を確認するが、何を考えているか全く読めない。
……どう答えたら正解なのか。
「蔡家の方からの御依頼です。全く迷惑などではありませんよ」
「それはそれは、そこまで言っていただけると、こちらとしてもありがたいです」
ズズズと茶を啜ってから、精錬は続けた。
「ですが、あまり感心はできませんね。正規の手順を踏まなければ、秩序がなくなってしまいます。これまで長年積み上げてきた蔡家と黒衣衆の関係に傷を付けることになっては、互いに損でしょう?」
「はい、申し訳ありませんでした」
内心ホッとしながら、俺は頭を下げた。
どうやら、あまり大事にはならなそうだ。
「今後は互いに気を付けるようにしましょう。――では、念のため、倅の依頼した内容を私へ報告してもらっても?」
「はい、こちらです」
○○○
「あれで良かったのかな、狒狒?」
声をかけると、椅子に座って書物に目を通していた悪友が顔を上げた。
「ええ。助かりましたッ!」
なら、よかった。
仕事柄、昔から互いに詮索しないようにしている。
持ちつ持たれつ、困った時はお互い様だ。
私は書斎を縦断して、書棚の隣の絵画の傍へと向かった。
「……それにしても、焦ったよ」
描かれているのは裸婦。
数代前の当主が著明な芸術家に描かせたもので、調度品としての価値ももちろん高い。
けれど、この絵が書斎に設置されているのは、別の意味からだ。
軽く腰を曲げて、裸婦の漆黒の瞳を覗き込む。
すると、瞳の奥に丸く切り取られた景色が見えてくる。
応接間の光景だ。
この書斎からは、応接間の様子が見れるようになっている。
「まだ若いから、正直侮っていたんだけどね。彼、気付いたね」
「でしょう? 私も一目置いているんですよッ!」
嬉しそうに言って、狒狒は書物を閉じた。
「土竜と白虎、それに他の若人たち。彼らがいれば黒衣衆も安泰です。これでいつでも安心して引退できるというものですッ!」
「うん? 私を置いて一人だけ隠居なんて許さないよ?」
私も狒狒も……狒狒の正確な年齢は知らないが、まだ六十にはいっていないはずだ。
そろそろ隠居してもいい年頃だが、まだ……丘錬には早い。
私が引退するまでは付き合ってもらおう。
狒狒以外と仕事をするつもりはないからね。
○○○




