17話 『誕生会 前編』
引き留めようとするイーナを何とかを宥めて祭事殿の外に出ると、暖かい風が肌を撫でた。
一瞬、足が止まって……少しだけ感傷的な気分に浸る。
季節は春。
ほんの一月前までは息が白かったのに、あっという間に暖かくなってきた。
……思えば、俺が華にやって来てから一年が経ったのだ。
この一年の間、拍子抜けするくらいに何もなかった。
逃亡した聖官については色々と聞いてたので、俺としてはそれなりの覚悟の上で華に来たのだが……ここまで何もないと、逆に不安になってくるな。
いや、別に襲って欲しいわけじゃないけど……こう、お前なんかどうでもいいって言われてるみたいで、何だか複雑な気持ちだ。
「……」
まあ、いいか。
今はウジウジと考えている時間はない。
足を踏み出し、階段を下りる。
一路目指すのは、外宮。
内宮が陛下とそれに準じる人間のプライベート空間なのに対して、外宮は陛下の仕事場だ。今日は午後の三刻からそこで会議があるので……面倒くさいけど俺も参加しないといけない。
まあ、一刻程度、ただ座ってボーッとしていたらいい楽な仕事だ。
――
「――以上が今年の黒狼節の概要です。ご質問などありますでしょうか?」
進行役の学仙の言葉に答える人はいない。
会議の出席者の誰もが、椅子に深く腰掛け、どこかよく分からない場所を見ている。
今回の会議の内容については、事前に書面で知らされていた。しかも、その内容は例年通りで特に変更点も無い。疑問なんて生まれる余地もないはずだ。
それは進行役も理解しているようで、大した時間を待つこともなく、
「それでは、私からの説明は以上とさせていただきます。やはり分からない点があるという方は、掌行院祭祀部までご連絡ください」
続いて、別の学仙が前へと出てきて、今度は黒狼節当日のそれぞれの役割についての説明を開始する。
念仏のような説明を聞いていても退屈なので……俺は手慰みに、目の前の机に置かれていた書類の束を手に取った。
パラパラと捲って、ちょうど今、学仙が説明している部分について目を通してみる。
黒狼節当日、警備の中心は闘仙府……つまりはお義父さんの管轄となっている。
お義父さん自身は、どうせ当日行方不明になって、どこかで釣りでもしてるんだろうが……それについては周りも諦めているらしく、お義父さんには最初から仕事が割り振られていないようだ。羨ましい。
まあ、その分他の人に迷惑をかけることになるから、俺の性格上、一生こんないい御身分にはなれないだろうがな。
実際、今日のこの会議にもお義父さんが参加してないといけないはずなのに、大闘仙の椅子には次官のマッチョなおじさんが座ってるし……。
――あっ、目が合った。
なんかその目が俺のことを責めてるようだったので、俺は慌てて目を逸らした。
再び、手元の紙面へと視線を落とす。
闘仙府の各部署の配置なんかが細々と書かれている頁を捲っていくと、途中から技仙府の管轄の記載へと変化した。
技仙府の仕事は、その特性柄、あまり細かく記載されていない。
黒狼節の間に官府に出入する人を検査する仕事……具体的に書かれてるのはそれくらいか?
その他の大部分には、一言『警備』と書いてあるだけだったりする。
俺が所属する技仙府黒衣衆も例に漏れず、ただ一行、
『技仙府黒衣衆……警備』
とのことだ。
新人首領の伯 理円さんには、『警備』と言われただけじゃあ何をすれば全く分からない。なので、前任の首領に聞いてみたんだが、要は、いつもと同じ仕事をしてたらいいらしい。
コソコソ隠れて、色んな所を覗き見する……嫌な仕事だ。
○○○
黒狼節は特段騒ぎもなく終了した。
人ごみに紛れて小金稼ぎをしようとしてた奴らを何人かひっ捕らえて、闘仙に引き渡しはしたが……おおむね平和だったと言えよう。
黒狼節の三日間、基本暇だったので、お義母さんの誕生会に合わせて、イーナに何をあげようかという事を俺はずっと考えていた。
生憎と、妹の誕生日に何を贈ったらいいかなんて想像もつかない。ウィキさんがいれば話は早かったんだけど……ここにはいないし。
――と、いうわけで。
「どう思いますか?」
「いえ、私に聞かれても……」
いつもの場所。
官府内でそこそこの人気店、『冗福』にて。
俺の元へと定期報告に来た部下に尋ねてみると、困惑した表情が返ってきた。
「黒狼様への贈品を私などが提案するなんて畏れ多いですし……黒狼様もお望みではないでしょう」
「とは言っても、全然思い付かないんですよ。よくよく考えみれば、妹が何を好きかなんて知らなくて……」
イーナとは長年一緒に暮らしてきたわけだが、特段趣味だとかがあるようには見えなかった。
料理や裁縫なんかをやってる姿はよく見たけど、本人は頼まれたからやってただけで、特に好きなわけではなかったみたいだし。
……うーん、強いて言えばお茶か?
美味い茶葉でも贈ったら喜ぶかな?
「そうですね……確かに黒狼様はお茶がお好きなようですから、いいと思います。宜しければ専門店までご案な――い……しようかと思いましたが、そういえば任務が入っているのでした。確か……狒狒がお茶には詳しいので、呼んでおきましょうか?」
「すみません、お願いします。あっ、そうだ。これ――」
俺は懐から書状を取り出して、それを白虎へと渡した。
「今季の占です。陛下に届けてもらっていいですか?」
「分かりました。届けておきます」
白虎は胸元に書状を差し込むなんてベタなことをして、次の瞬間にはどこかへ消えてしまった。
いや、実際は普通に席を立って、普通に出口から出て行っただけなんだけど、白虎は全く気配がないので、よくよく注意していないとそれさえも認識できない。
この特性を利用すれは無銭飲食しほうだいのはずだけど、白虎は根っからの真面目なので、ちゃんと机にお金を置いて帰っている。
空き皿を回収に来た店員さんにそのお金を渡して、ついでに胡麻団子を追加注文して待つこと十数分。
「ごめんなさい。待ちました?」
目の前に五十半ばのおっさんが座っていた。
「四半刻程度ですかね? 突然呼んだのは私なのですから、多少待つくらい問題ありませんよ」
「――駄目、駄目ですよッ!」
なぜか突然キレた狒狒は、自然な手付きで俺の皿から胡麻団子を一つ摘まんで、それを口に放り込んでから続けた。
「そこは、『いや、僕もさっき来たところだから……』と返すのが定型でしょう!」
「……いや、半刻以上前からここにいますし。それに、狒狒も私がさっきまで白虎といたことを知ってるんでしょう? バレる嘘をついてどうするんですか」
「かぁッ! 相変わらず土竜は駄目ですね! そんなのだと一生モテませんよ!」
そういう狒狒がモテてるとこを見た事がないのだが……。
「私はそういった事にはあまり興味がありませんから。その話題は取りあえず置いておいて――」
「なーにがッ、興味ないですか! ……私、知ってますからね!」
……知ってる?
何を?
特に後ろめたいことはないはずだけど……。
「白虎の胸ッ! いつも目が釘付けですよ! そのくせして興味がないたぁ……そんなことは通りませんからねッ!」
「――なっ!? そんな、誤解ですよ!」
誤解……だよな?
確かに、偶に目が行くことはあったけど……そんな、釘付けだなんて……て……。
なんか、狒狒がものすごくいい笑顔で俺のことを見てるんだが……。
「分かる、分かりますよ……。確かに、白虎はいいッ! 胸元に書状を入れる動作だって、あれで本人は楽だからやってるだけですからね。
真面目な顔をして、所々の所作に艶がある。あれだけのいい女、普通なら周りが放っておかない所ですが、仕事柄競争相手もいませんからね……正直、狙い目だと思いますよ。私ももう少し若かったら、絶対に狙ってました……」
菩薩のように穏やかな表情をしながら、肩をポンポンと叩いてくる狒狒。
なんだかその手を振りほどく事ができないでいると――
「――ッと! こんな所でノンビリしてる暇はありませんね。そろそろ行きますか!」
突然、狒狒が慌てた様子で立ち上がった。
「どうしましたか? もしかして何か予定でも思い出しましたか?」
「いえいえ、今日は一日暇ですよ。でも、時は金と言いますしね……茶を選ぶのにも時間がかかるでしょうから、早く行った方がいいでしょう」
なんだか、何かを隠そうとしてるように見えるのだが……。
まあ、お互いこんな仕事だし、詮索する必要もないだろう。
俺も椅子から立ち上がって、ちょうど近くを通った店員さんにお金を握らせる。
見ると、狒狒は既に出口から出ようとしてるとこだったので、俺は小走りでその背中を追いかけた。
――
その後、鴻狼西部の茶葉屋まで案内してくれたのはいいのだが……棚にズラリと並ぶ茶葉を眺めていると、いつの間にか狒狒の姿が消えていた。
一人残された俺は、自分では茶葉の良し悪しなんて全然分からないので、店員さんに色々尋ねつつ四苦八苦すること二刻……。
「ありがとうございました!」
笑顔の店員さんから小包を受け取って、俺は店を出た。
空を見ると、大分日が傾いている。
午後の四刻くらいか?
思った以上に時間がかかってしまった。
その分、俺としては、イーナが好きそうな物を買えたつもりだけど……。
手元の、桃色の小洒落た紙で包んだ箱に目を向ける。
紙には香も焚き込まれているようで、ちょっとだけいい薫りがする。
……これで、大丈夫かな?
○○○
……で。
桃色の小包を懐から取り出し、それを机の上に置いて……俺はドカリと椅子に腰を下ろした。
部屋の中には俺の他には誰もいない……ように見えるけど、本当にいるのかいないのかよく分からないので、それほどリラックスはできない。
なにせ、ここは黒衣衆の官府だ。
黒衣衆は大きく分かれて獣師、蟲師に分かれているが……精鋭たる獣師ともなれば、ほぼ完全に気配を絶ってしまうことができる。
というか、気配を完全に絶つことができる事が、獣師に任じられる条件なわけだが。
で、気配を絶たれてしまえば、単純に五感しか頼りにできるものがないわけで……俺と違って幼い頃から訓練を積んでいる奴らを見つける事は俺には不可能だ。
……狒狒あたりが、どこかから見てるかもしれない。
まあ、そんな事を言ったら、どこにいても誰に見られているか分からないわけだが。
……なんか、華に来てからちょっと寝不足になった気がする。
――と、愚痴はひとまず置いといて、
「今日も渡せなかった……」
俺が今悩んでいるのはそのことだ。
目の前の机に置かれた桃色の包。
この十日弱、ずっと懐に入れて持ち歩いていたせいで、角が微妙に潰れて丸くなっている。
最初の頃はいい匂いがしてたのに……それも完全に取れちゃったし。
……なんでだろ?
別に、普通にイーナに渡せばそれでコトは済むはずだ。
そのはずなのに……なぜか渡せない。
懐からこのプレゼントを取り出そうとするたびに、直前で手が止まってしまう。
手が固まって……震えてしまう。
……緊張、してるのだろうか?
妹にプレゼント一つ渡すのに?
俺が?
……んなわけない。
この数日、何度も繰り返した自問自答をやってから、俺は椅子から立ち上がった。
机から桃色の包を手に取って、それを壁の戸棚の上に乗っける。
取りあえず、大分ボロくなっちゃったんで、明日新しいやつを買ってこよう。
で、新しい茶葉を買ってきたら、その足で直接戻って来て、さっさとイーナに渡してしまおう。
一人頷いて、俺は部屋を縦断して扉を開けた。
――
黒衣衆の官府を出ると、そこは内宮だ。
すぐ隣に立つのは、巨大な建物――祭事殿。
黒狼様――イーナが一日の大半を過ごしている場所だ。
後ろを振り返ると、そこには一見物置にしか見えない小さな建物が、祭事殿にへばり付くようにして建っている。
額縁なんて大層な物は設置されておらず……日中正面から出入するのも、俺と清掃係の女官くらいじゃないだろうか?
他の黒衣衆の面子も出入してるはずだけど、大抵はいつの間にか現れて、いつの間にか消えている。まあ、俺以外は面が割れるわけにもいかないから、当然の用心だろう。
――さて、気を取りなして……今日は例の日だ。
お義母さんの誕生日。
七刻から開始するとお義父さんからは聞いてるから、もう一、二刻しか時間がない。
薬筒を彩色屋から受け取るのと、食販店から食事を受け取る……時間的には大丈夫だが、あんまりノンビリしてるわけにもいかないな。
一瞬、祭事殿に意識が向かうが……まあ、大丈夫だろう。
最近はイーナの調子も安定してるし……もしもの時のために、今日は白虎がいてくれてる……。
……やっぱり、ちょっと様子を見ておこうか。
そう思って、爪先を祭事殿へと向けた所で、
「そこの。伯 理円と見えるが、合っているか?」
後ろから話しかけられた。
……人が近付いてくるのに気付いてはいたが、話しかけられるとは思ってなかったので内心驚きつつ、
「はい。そうですが……」
「話がある。――僕は、蔡 丘錬だ」
振り返ったそこには、偉そうな口調で話す、俺と同じくらいの年頃の青年が立っていた。
○○○




