25話 『大闘仙』
夜の九刻。
日はとうの昔に沈んだが、鴻狼の街は未だ眠らない。至る場所に煌々と光が灯され、道行く人々の姿を照らし出す。
国府の立ち並ぶ北部も、やはり少なくない数の学仙、武仙が行き交っている。
それらに混じって、二人組の男女が何を話すでもなく並んで歩いていた。
彼らの姿は、人目を引く。
背の低い方は、今年採用の武仙の中でも一番の注目を集めている存在だ。
闘仙府に配属された彼女は僅か数日のうちに単独での魔物初討伐を終え、その後も危なげなく任務をこなしている。
それだけなら、よくある事だ。
彼女が注目されているのは、彼女が、今年採用された武仙の中で唯一の女性だからだ。加えて優秀で、好みはあるだろうが整った顔立ちをしている。
若い男性武仙たちが、虎視眈々と彼女を狙っているのは周知の事実だった。
比して、女性よりも少しだけ背の高い方は、学仙第三席として今年採用された叡才だ。
彼は、隣を歩く女性と比べると、やや異なる注目のされ方をしている。
まず、入府先として宮内府を選んだ時点で周りを驚かせた。学仙上位採用者は三院のどこかを選ぶと相場が決まっている。六府に入府するのはそれにあぶれた者たちで、特に宮内府は一番人気が無かった。
加えて、彼の異端さをより際立たせるのは、女性と見まがうばかりの端正な顔立ちだ。
多くの人々からの熱い視線を、一身に受ける事になったのは、当然の結果だったのかもしれない。
そんな二人が、並んで歩いている。
目立たない方が難しいだろう。
とはいえ、国府を行き交う人々は概して忙しい。声をかける、ましてや二人の後をつけるような暇のある者は誰もおらず――
道の角を曲がった二人の姿が消えたことに気付いたのは、数人に過ぎなかった。
その数人は、不可思議な現象に足を止めて首を傾げたが……しばしの後に目元を揉んで、過労で幻覚まで見てしまった自分を笑うのだった。
――
内宮の広い敷地には、巨大な建物が余裕をもって配置されている。
建物の無い場所には塵一つ落ちていない白砂の海が広がっていて、建物同士を繋ぐ黒石の路は、海を貫く橋だった。
人気は、無い。
もちろん警備の武仙も内宮には配置されているが、重要な施設――皇帝の寝殿や寵姫の宮、宝物殿など――以外の警備はむしろ薄い。
全ての区域を同様に警備するならば大量の武仙が必要で、そうなってしまえば武仙に混じって賊が侵入してしまうかもしれない。本末転倒だからだ。
「……ここ、よね?」
夜空にそびえる巨大な影を前にして、サラ聖官は呟いた。
「はい。乾衣殿、ここのはずです」
目に魔素を集めた私は、入り口にかかる額縁の文字を読み上げた。
「いるわね」
「ですね。中に一人……アル聖官ではありませんが、誰かがいます」
「どうする?」
サラ聖官の瞳には、警戒の色が滲んでいる。
「乾衣殿に、しかもこんな時間に人がいるとは考えづらいです。アル聖官の魔素がここから発生したことと合わせて考えたら……呼んでいるのでしょうね」
「よんでいる?」
「はい。アル聖官を探している私たちを――呼んでいます」
「あぶないわよね」
「そうですね」
言って、私は乾衣殿の入り口へと足を進めた。
「ですが、例え危険なのだとしても……これが、ようやく手に入った手がかりです。最初で……おそらくは、最後の。だから――」
「行くしかないわよね」
私を追い抜いたサラ聖官は、入り口の扉へと手をかけた。
少し遅れて、私もサラ聖官とは反対側の扉の取っ手を握る。
互いに視線を交差して――
私とサラ聖官は、同時に入り口の扉を開いた。
――
乾衣殿とは、香を焚き、服に薫りを付ける為の建物だ。
建物内には内宮女官たちの色とりどりの服が干されていて、その間を薄く煙が漂っている。
香の種類ごとに部屋は分けられているらしく、私とサラ聖官は幾枚もの扉を開けることになった。
白檀に杉、柚子――様々の薫りに燻されていく内に……遠くにあったはずの気配が、すぐ傍にまで近付いていた。
目の前の扉。この漆黒の扉の向こうに……確かに、いる。
その気配に揺れはない。
建物の外に感じた時と、同じだ。
つまり、私とサラ聖官の接近に向こうも気付いているはずなのに、全く動揺していないという事だ。
やはり、私たちがやって来る事は想定済み……というよりも、私たちを呼ぶこと自体が目的なのだろう。
サラ聖官と顔を見合わせて、私が扉に手をかける。
そのまま力を入れて、ゆっくりと扉を開けると……想像通り、即座に攻撃がやって来ることはなかった。
扉の向こうは広間となっていた。見るに、今まで通ってきた部屋と同じ作りだから、偶々香が焚かれていない部屋なのだろう。
壁の低い場所にある採光窓から、微かに月光が広間に注ぎ込んでいる。
普通の人間ならほとんど何も見えないほどに暗い。けれど、魔素で視力を補助している私には、昼間のようにはっきりと見えた――
「感心せんのぉー。こんな夜中に、二人みたいな可愛い子ちゃんが出歩いていると……誰かに襲われても、文句は言えんぞ?」
闇を貫いて、半笑い混じりの声が広間に響く。
同時、床に座っていた声の主は、立ち上がった。
「……狼円さん」
「おじさん――」
「今の儂は、伯 狼円じゃないぞ?」
いつになく真面目な顔をした狼円さんは、静かな声で続けた。
「儂は、大闘仙――闘仙府の長じゃ」
瞬間、背筋を何かが這い上がった。
「サラ聖官っ!!」
私が言うでもなく、すでにサラ聖官は臨戦態勢に入っていた。
顔を覆っていた覆面は霧散して、深紅の髪と瞳が現れる。
次の瞬間には、同色の鎧がサラ聖官の全身を覆っていた。
私の方も、覆面を保っている余裕などない。
さっさと脱ぎ棄てて、いつ戦闘に入ってもいいように全身の意識を研ぎ澄ませる。
瞬間的に容姿の変化した私たちを前にして、しかし狼円さんは動揺を見せない。
表情を変えることなく、特段構えをとるというわけでもなく……ただ、自然体のままに私たちと相対していた。
――にも関わらず、私もサラ聖官も、狼円さんに対して最大限の警戒をせずにはいられなかった。
信じられない程に高密度に練り上げられた魔素。
それが、狼円さんの体の表面を覆っていく。
一枚一枚、狼円さんは魔素の衣をまとってゆく。
魔素というものは本来、感じることはできても、目で捉えることはできないはずのものだ。
そのはずなのに……狼円さんの体の表面を、赤い光が覆っていた。
「さて、侵入者よぉ。こんな夜中に儂を駆り出すなぞ……この罪、生半の物ではないぞ? 覚悟はできとるんじゃろうな?」
狼円さんから放たれる怒気に、思わず撤退してしまいたくなる。
私では……力不足だ。絶対に勝てない。
サラ聖官でも……相対するには、まだ早い存在だろう。
私たち二人が組んだ所で、どうなるものでもない。
今のうちに、まだ逃げられるうちに、撤退を――
「おじさん。アルはどこにいるの?」
鎧越しの、サラ聖官のくぐもった声が聞こえた。
サラ聖官の問いかけに、狼円さんは薄く笑って、
「アル・エンリなら、この向こうじゃぞ? 会いたいなら、別に向かっても構わんが」
自身の後ろの扉を指差しながら……半歩、左に移動した。
「ありがと」
「ああ。暗いから、足元に気を付けての」
その扉へと一直線に向かうサラ聖官の腕を、
「……ちょ、ちょっと待ってください、サラ聖官!!」
私は慌てて引き留めた。
「どうしたの?」
「どうしたの、ではありません! 不用意に動かないでください! 今、私たちの目の前にいるのは、あの伯 狼円なのですよ。そのような事では困ります!」
「なんで? だって……おじさん、ワタシたちとやる気なんて、ぜんぜんないでしょ?」
意味が分からなくて、私はサラ聖官の瞳を見つめていた。
「やっぱり、儂に演技は無理じゃのう。見抜かれてしもうたか」
声に目を向けると、ちょうど狼円さんがその場に腰を下ろして胡座をかく所だった。
その姿勢で、狼円さんは後ろの扉を指差して、
「もう、まどろっこしい事は止めじゃ。乍ちゃんは行っていいぞ。その扉を抜けて真っすぐ進んだら、いるはずじゃからな」
次いで、私へと目を向けた狼円さんは、自身の目の前の床を指差した。
「尹ちゃんには、儂に付き合ってもらおうかの。まあ、取りあえず……そこに座りんさい」
――
「生憎と酒は持って来ておらなんだ。気が利かんですまんのぉ」
「……いえ」
「おぉっ! そこじゃ、そこ! もっと強く!!」
「……こうですか?」
狼円さんに言われた場所を、もっと強く揉んでみる。
「あぁ……いい、いいぞ……。尹ちゃん、肩揉むの上手いのぉ」
狼円さんの言う通り、現在私はこの人の肩を揉んでいる。
床に胡坐をかく狼円さんの後ろに回って、膝立ちになった姿勢で……魔素による武装を完全に解いた狼円さんの肩を両手で掴んでいる。
つまりは、今の狼円さんは無防備だ。魔素による防御をほとんどしていないから、普通の老人よりはちょっと体の強い、ただの老人に過ぎない。
私が一発でも頭部を殴ったら、それで終了だろう。なんなら、このまま両手に力を込めて、肩の肉を引き千切るだけでも、十分狼円さんを無力化できる。
狼円さん曰く、「魔素なんぞで体を覆っていたら、肩揉みなぞ出来んじゃろうが!」……らしい。
私は今の状況に困惑しつつ、ただ狼円さんの肩を揉んでいた。
「……狼円さん」
「なんじゃ?」
「いつから、私たちが……教会の関係者だと気付いていたのですか?」
「昨日の晩じゃの」
昨日の晩といったら……私とサラ聖官が、狼円さんの家にお邪魔していた時だ。
「……何か、正体を気付かれるような失敗を、私たちは知らない間にしていたのでしょうか? よければ、教えて頂けますか?」
「教えて、と尹ちゃんに言われたら、逆立ちしてでも教えてあげたい所なんじゃけどなぁ……儂は全く気付かんかったから、教えられんの。じゃが、確か……口の動きがどうとか言ってたのぉ」
……口の動き?
口?
口……ああ、そうか。
思わず、私は小さく溜息を吐いていた。
私たち白服や、聖官の話す言葉は、聖女の力によって自動的に翻訳されている。このおかげで、私たちは言語の異なる地域――王国と帝国以外の地域でも問題なく会話をすることができる。
つまり、私やサラ聖官が話しているのは、教会語であって華語ではない。
口の動きと、相手に伝わっている音の間には乖離があるから……そのせいで疑われた、ということなのだろう。
けれど、一つ疑問がある。
口の動きと音に乖離があるのには気付くかもしれない。けれど、それが即座に教会と結びつくかと言われると……かなり難しいのではないだろうか?
そもそも、教会と華には接点が少ないので、華の人間が聖官や……ましてや白服と出会う機会なんて、全くと言っていいほどにない。
いくら優秀だとしても、意識の埒外の事を人は想定出来ないはずだ。
いったい……誰が気付いたのだろうか?
その事を狼円さんに尋ねようと思って、私が口を開く直前――
「お父さん、終わりましたよ」
背後から、声が聞こえた。
全く想定していなかった声に、思わずその場を飛び退く。
慌てて振り返った私は……そこにあった光景に、完全に思考が停止した。
いつの間にか、そこに現れていた……理円さん。
彼の両手には、力無く目を閉じている少女が抱えられている。
深紅の髪の毛に、見慣れた顔立ち。
――意識を失ったサラ聖官が、理円さんの腕に抱えられていた。
聖官第九席。
今では、赤『能力』としては教会で最大の戦力となったサラ聖官が、目立った外傷もなく無力化されている。
目を見開いて、理円さんをただ見つめることしか出来なかった私は、ソレに気付くのに一瞬遅れた。
瞬間的に私の体を包み込んだ――碧い霧。
「すみません、イプシロン。今は……眠って下さい」
眼前に立つ理円さんの口から、覚えのある声音で放たれた言葉。
反射的に、身体の表面を魔素で覆う。
その上に電撃を滑らせてやれば……受け流せるはずだった。
私を覆う魔素が、霞のように消えた事に気付いた瞬間――意識は、暗闇へと落ちていた。
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