20話 『お付き合い 後編』
「ほら、お茶」
「うん、すまんの」
老婆は老人へと雑に、
「はい、どうぞ」
私とサラ聖官へと丁寧に湯飲みを渡した。
「ありがとうございます」
「ありがと!」
「そんな美味しくないけどねぇ……ま、量は沢山あるから、好きに飲んでくださいな」
卓上に急須を置いてから、老婆はうんしょと椅子に腰を下ろした。
「いやいや。でも、また会えるとはねぇ。……あんたが連れてきたのかい?」
老婆が老人……もとい老爺へと目を向けると、
老爺は悪戯に成功した子どものような顔をして、
「驚いたじゃろ?」
「そうさね、久方ぶりに驚いたよ。ありがとね」
続いて老婆は私たちへと顔を向けてきて、
「二人共、改めてありがとねぇ。オレもまだまだやれると思ってたけど、ぶっ倒れて人様に迷惑をかけちゃって……二人みたいな親切な人がいてよかったよ」
「いえ……大したことではないですから」
私は無難に答えて、
「ねぇ……おいしいものは?」
サラ聖官の意識は既に老婆から外れていたようで、老爺に向けて失礼なことを言っていた。
「飯は……いつだったかの、婆さん」
「もうそろそろだと思うんだけどねぇ。リエンがこっちに来るついでに持ってきてくれるって」
「ふーん、そうか。――にしては遅いのぉ」
「ま、あんたと違って真っすぐ来るはずだから、忙しいんだろうねぇ。気長に待とうかね」
ズズズとお茶を飲んで、老婆は息を吐いた。
……というか、考えてみたら私、この老婆と老爺、どちらも名前を知らないのですが。
サラ聖官は知っている雰囲気ですけれど。
「あの……お婆さん」
「ん? なんだい?」
「その、以前会った時は名前を教えてもらえませんでしたけれど、今なら教えてくださるでしょうか?」
「――あっ……そういえばそうだったね。そうさね、今なら問題無いけど……なんだか畏まって自己紹介なんて、ちょっと恥ずかしいねぇ」
小さく苦笑しながら、老婆は続けた。
「オレは、ハク フエンっていう。普通の伯に、芙の苑ってね」
芙苑さんは隣に座っている老爺を指差して、
「伯 狼円の嫁なんてやってるから、あんまり簡単には名乗れんのよ。変な事を考える輩が多いから」
――
伯 狼円。
『東方無双』の二つ名と共に知られるその名前は、あまりにも有名だ。
若い頃、教会から『赤』の称号を与えられ、それを四十年以上も護り続けている――それほどの実力を持っているのだから、有名になって当然だろう。
その伯 狼円が……。
「――おっと」
小さく漏らしたかと思うと、狼円さんはお尻を片方上げた。
直後、椅子とお尻の間から軽快な音が鳴り響く。
何事もなかったかのように狼円さんはお茶をすすり、何かの書類を読み続ける。芙苑さんとサラ聖官も全く気にならなかったようで、会話を続けている。
……気になってしまう私がおかしいのだろうか?
「お父さん、お客さんのいる場ではやめて下さいよ」
――えっ?
慌てて振り返ると、そこにいつの間にか人が立っていた。
「おお、リエン。やっと帰ったか。待ちくたびれたぞ」
「あはは、すみません。ちょっと……色々ありまして」
言いながら、その人は手に提げていた紙包みを卓の上に置いた。紙包みは雨に濡れて、所々が斑点に変色している。
次いで、その……男は私とサラ聖官へと顔を向けて、
「えっと、お客さんですよね? お待たせしてすみませんでした」
「……いえ、お気になさらず」
この人が件のリエンさんらしいから、取りあえず返事を返したけれど……。
私は警戒心を解かず、子細に眼前の男を観察した。
声と服装からして男だとは思うけれど、確信は持てない。なぜなら、顔の上半分を漆黒の仮面で覆い隠しているからだ。
その時点でも、かなり奇異。けれども私が警戒心を抱いているのは見た目に対してではない。
……全く、気配がしない。
人間なら誰しも微弱な魔素を放出しているはずなのに、目の前の男からは全く感じられない。実際ついさっきも、すぐ背後に近付かれていたにも関わらず、声がするまで全く気が付かなかった。
これが意味するのは……驚異的な魔素操作術を、この男は持っているということだ。
……そんな私の視線を気にすることなく、男は芙苑さんの隣の椅子へと腰かけて、
「お母さん、お誕生日おめでとうございます。些細な物ですが……これを」
懐から小さな木箱を出して、芙苑さんへと差し出した。
「まっ、オレにかい? ありがとねぇ。開けてもいいかい?」
「どうぞ」
芙苑さんが箱を開けて、中から摘まみ出したのは、
「薬筒です。前に靴擦れが辛いと言ってたので……腰元にそれを吊って、いつでも薬を塗りやすいように」
「かっ! 流石、リエンは気が利くねえ! 爺さんとは大違いだよ!!」
「なんじゃ、そこの二人を連れて来てやったじゃろう」
「ああ、それは確かに。今年は珍しく良い事をしたねぇ。いつもは焼餅とか適当なもんなのに、突然こんな気の利いた事をするなんて……そろそろおっちぬのかい?」
「おいおい、儂はまだまだギンギンじゃぞ」
「だから、お父さん……お客さんの前でそういうのは止めてくださいよ」
男――リエンさんは、三人の会話を聞く限り二人と仲が良いようだ。相変わらず全く気配が感じられないのは怪しいけれど……取りあえず、警戒は解いていいだろうか?
卓上の紙包みから漂う匂いに、サラ聖官がウズウズしている事に気付いたのか、
「まっ、全員揃ったことだし、早速飯と行こうかねぇ」
芙苑さんが紙包みへと手を伸ばした。
――
「養子、ですか」
食後の口直しとして芙苑さんが出してくれた橘を剥きつつ……理円さん、そして狼円さんと芙苑さんの顔を見て……私は納得した。
確かに全く似ていない。
両親が平凡な顔立ちなのに対して、理円さんは整った顔立ち……だと思う。下半分しか見えないから確証はないけれど。
「はい。小さい頃に家が火災に遭いまして。家族は全員亡くなって、一人だけ生き残った私は孤児院に引き取られました。そこから拾ってくれたのがお父さんです」
「へぇ……」
「あっ、やっぱり気になりますか? コレ」
私の視線に気付いてか、理円さんは仮面の目元を人差し指で小突いた。
「い、いえ……すみません」
「いや、謝る事ではありませんよ。御想像の通り、この下には火傷の跡がありまして……こうして隠しているという訳です」
「……いりますか?」
何となく……私は皮を剥き終わった橘の実を一つ、理円さんに差し出した。
「ああ、ありがとうございます。では一つだけ」
苦笑しつつ、理円さんは私の手から摘まみ取って――
「お二人さん、仲ええのぉ!!」
後ろから突然、狼円さんが覆いかぶさって来た。
私の左肩に左腕が、理円さんの右肩に右腕が、私と理円さんの間から狼円さんの顔が登場する。
……酒臭い。
「二人だけ端っこでコソコソしよってからに! こっち来て飲まんかい!」
狼円さんと芙苑さん、サラ聖官は三人で酒盛りをしていたはずだけれど……。
チラリと見ると、サラ聖官は気持ち良さそうに眠っていて、芙苑さんは全く平常と変わらない顔色で瓢箪を傾けている。
「お父さん、飲みすぎですよ。明日も仕事があるんですから控え目に――」
「うるさいわ! これくらい、小便すれば覚める!」
「とか言いながら、いつも二日酔いじゃないですか。闘仙府まで連れて行くのは私――」
「相変わらず、理円はお堅いのぉ……おっ?」
狼円さんが何かを思い付いたような顔をしたかと思うと、突如として私の左肩に尋常ではない圧力がかかってきた。
到底抵抗できるような力ではなく、私の体はされるがままに傾いて――
「あっ」
「おっと」
私は理円さんの胸の中に倒れ込んでいた。
殊の外、逞しい感触が私を受け止めてくれる。
「お堅い同士お似合いじゃないかの? 理円もいい加減誰かを娶らにゃならんし、ちょうどいいじゃろっ!」
わっはっはと笑う狼円さんへと二人して冷たい目を向けながら、私は理円さんに助けられつつ身を起こした。
「お似合いも何も、私……男ですよ?」
「関係ないない! んなこと言って、二人とも顔真っ赤じゃぞ?」
私の顔が真っ赤……なのは自分で分かっているけれど……。
少し気になって右側を見ると、確かに理円さんの頬が薄く染まっていた。
真剣な顔で、何かを真剣に考えている……ように見える。
……まさか、狼円さんの戯言を真面目に受け止めているのだろうか?
理円さんは良い人だから、気持ちは嬉しいけれど……その、今の私は任務中の身だし……何と言うか、その……困ると言いますか……。
「おっ? 尹ちゃん、ますます赤くなってどうしたんじゃ?」
狼円さんが私の顔を覗き込んできたので、目元に橘の皮の汁を振りかける。
床をのたうち回って苦しんでいるけれど、問題無いだろう。あまりこういった事を気にする性格ではないようだし。
「理円さん。狼円さんの冗談なんて気にしないでくださいよ? ――そういえば理円さんにはまだ言っていませんでしたが、こう見えても私は正真正銘の男なんです。よく女性と間違えられますけれど……」
「ん? ああ……大丈夫ですよ、分かってますから……」
理円さんは早口でモゴモゴ言って、椅子から立ち上がった。
私に背中を向け、窓の外へと目を向けて……。
「もう遅いですし……そろそろお開きにしましょうか。乍さんもお休みのようですしね。二人とも、私が送りますよ」
――
狼円さんの家からの帰り道。
雨は相変わらず止んでおらず、芙苑さんに貸してもらった大きめの傘に、私と理円さんは二人並んで入っていた。
サラ聖官を背負う理円さんは両手が塞がっているから、自然私が傘を持つことになる。
「理円さん、どうしたのですかソレ?」
隣の理円さんへ目を向けて、私はずっと気になっていたことを問いかけた。
「コホッ……いえ、突然来まして……」
軽く咳き込んだ理円さんは、なぜか口元に手巾を巻き付けている。
仮面と合わせると顔のほぼ全体が覆われ、半ば不審者だ。背中にサラ聖官――年齢の割に見た目の幼い少女を背負っているから、余計に怪しい。
当の本人は、全く気にした様子も無く続けた。
「今日は少し工作府にお邪魔する用事がありまして……粉塵でも吸い込んだのか、咳が――コホッ……」
「えっ……大丈夫なのですか?」
「それほど酷くはないので、大丈夫ですよ。――っと。そういえば、聞くのを忘れていました。乍さんは闘仙府に届ければいいのだと思いますが……尹さんはどちらへ?」
「あっ、私も闘仙府で大丈夫です」
「あれっ? 尹さんは武仙ではなく学仙では?」
「はい。ですけど、看病がてら今日は乍の部屋で過ごそうかと思います」
「ああ、なるほど。そうですか。了解です」
言って、理円さんは黙り込んだ。
同時に雨音が傘の中へと入ってくる。
……そのまま、たまに短く話し、他は雨音を聞くという時間をしばらく過ごしていると、
「着きましたね。どうしましょうか? 乍さん、部屋まで運びましょうか?」
「ああ、いえっ! 私が部屋までは運びますよ!」
「そうですか? でも、重たいですし……気遣いは無用ですよ?」
……こういう所は、理円さんがあまり女性慣れをしていない事を感じさせられる。
狼円さんが、見合いをしてくれないと嘆いていたけれど、もしかしたら理円さんはそういった事に興味が無いのかもしれない。
「理円さん。乍は気にしないでしょうけれど、流石に女性に向かって『重い』は……」
「ん? ああ……えっと、もちろん人間としてはむしろ軽いですよ。乍さんは小柄ですし。大体……四十キル程度でしょうか。尹さんが運ぶには少し骨が折れるかな……と」
どんどん墓穴を掘っていく理円さんに、処置無し、と私は溜息を吐いて、
「流石に、こんな夜中に女性の部屋に足を踏み入れるのはマズイですよ。私と乍は家族みたいな物なので大丈夫ですが」
「そうですね……分かりました。では、乍さんを……」
理円さんの背中からサラ聖官を受け取った私は、私の目線よりもちょっと高い所にある理円さんの仮面を見つめて、
「でも、道が分かれる途中までは一緒に行きましょう。理円さんも、宿舎に住んでいるのでしたよね?」
「ええ、そうですが……」
理円さんは咳を一つ挟んでから、
「私の勤め先は技仙府ですから。ここでお別れですね」
○○○
夜の三刻。
窓から見える空は暗く、夜番の警邏たちも眠気に襲われてくる頃。
布団で気持ち良さそうに眠っているサラ聖官の、お腹の辺りへと私は手のひらを乗せた。
魔素を注ぎ込み、酒毒を分解する。
「んあっ?」
即座にパッチリと瞼を開いたサラ聖官は、しばらく呆然と私の顔を見つめていたかと思うと、上体を起こしてからキョロキョロと部屋を見渡した。
「ここ……ワタシのへや? なんでイプ――」
「尹」
「……インがここにいるの?」
私は、人差し指で軽くサラ聖官の額を突いて、
「酔っぱらい過ぎです。今日の昼に説明しましたよね。今晩何をするか」
サラ聖官はコテンと首を傾げていたが……次第に記憶を取り戻したようだった。
「……そういえば、そうだったわね。――やるの?」
「はい、問題無く決行できます」
「……」
無言でその場に立ち上がったサラ聖官は、真剣な眼差しで私を見下ろして、
「じゃあ、やるわよ」
「……その服装でやるつもりですか?」
私は目を細めて、寝間着姿のサラ聖官を見上げた。
――
四半刻ほどでサラ聖官の準備は整った。
昼間の内に宮内府の倉庫からくすねておいた黒装束をサラ聖官に着させ、口元も同色の手巾で覆わせた
デルタを通じてサラ聖官と通信を繋げ、視覚も共有した。
だから今も、目を閉じるとサラ聖官の見ている景色――満足げな表情でたたずむ、見知らぬ……男なのか女なのかよく分からない人物が見える。
黒色の髪の毛は一つにまとめられて、左肩から胸の前に垂らされている。
この長い髪の毛のせいで、余計に男に見えなくなっているのだろうけれど……流石に、髪の毛をバッサリ切る気にはならなかった。
「では、時間もありませんから、早速始めましょうか」
「そうね」
「いいですか、乍。あくまで探索ですからね? 例え見つけても、絶対に行動しないでくださいよ。行動する時は、私と二人でです」
「わかってるわよ。ワタシひとりより、インがいたほうが上手くいくからでしょ」
……本当に分かっているとは、珍しい。
「そうです。分かってくれているなら何よりです。順次、乍に色々言いますから、従ってもらえると幸いです。細心の注意を払わなければ見つかってしまいますからね。見つかってしまったら問答無用で終了ですから、そのつもりで」
「うん」
「では……気を付けて」
無言で頷いたサラ聖官の姿は、一瞬で消失した。
○○○




