18話 『お付き合い 前編』
陳さんの指示通りに廊下を抜けると、左手に中庭と思しき物が見えてきた。初めて立ち入る場所だから、少しだけ新鮮な気持ちで足を踏み入れる。
やはり、西方と違って華の庭園は独特だ。
見慣れた庭園は人の手が入れられて、整然と整えられた物なのだが……華の庭園は私が今見ているように、自然とほとんど変わらない。
進路を邪魔する葉っぱを避けつつ、人の気配がある方向へと進んでいく。
すると突然視界が開けて、大きな池が見えてきた。
「……私に会いたい方というのは……あなたでしょうか?」
池の傍の岩に座って、釣りをしている老人へと声をかけると、
「儂だったような気もするのぉ」
……だったような気もするって、結局どっち?
困惑している私を放ったままに、老人は手際よく釣竿を片付け、岩から立ち上がった。
「ほーう、噂通りの……」
老人は呟きながら近づいて来て、
「いい尻じゃな!!」
「うひゃっ!」
おぞましい感触に反射的に飛び退いた私は、お尻を両手で抑えた。
「な、何をするんですかっ!?」
「おお……その身のこなし。尹ちゃん、闘仙府に興味はないかのう?」
……あれ、私。常人離れした動きをしてしまっただろうか?
慌てて自分と老人の位置関係を確認するけれど……どうやらそういうわけでもないらしい。老人の冗談だったようだ。
キッと睨み付けると、老人は楽しそうに笑っていた。
「そう怒る事ないじゃろう? 減るもんでもなし、なにより尹ちゃんは男だと聞いておるぞ。女子のような反応をせずともよいではないか」
「そういう問題ではありません」
「そうかのう?」
全く反省した様子の見えない老人にイラッとして、私は踵を返した。
「もう帰ります。私に用事というのも、それほど重要な内容ではないようですし」
「おっとっと、まあ待ちんさいって」
老人が私の手首に手を伸ばす――フリをして、またしてもお尻を触ろうとしてきたので、遠慮なく叩き落す。
振り返る事なく足を速めていると、後ろから、
「おーい。帰っても別に構わんが、今度の武仙の融通してやらんぞ?」
足を止める。
「……どういう意味ですか」
「たしか、二日後に若い女子の武仙が十人要るんじゃろ? 儂の話をちゃんと聞いてくれんかったら、一人も融通してやらんぞ?」
「……はい?」
この老人は何を言っているのだろうか?
というか、そもそも誰なのだろう?
闘仙府にいて、しかもこれほどのお年寄りとなると……もしかして、それなりの地位の人間?
……物凄く嫌だけれど、私は老人の元へと戻ることにした。
「いやいや、尹ちゃんがその気になってくれて嬉しいのぉ」
「お話とはなんでしょうか」
「……まあ、また尹ちゃんに逃げられても堪らんから、さっさと言うかの」
老人は釣竿で肩を叩き、
「尹ちゃんに会わせたい人がいてな。ついては今晩の……七刻くらいかの。闘仙府の前で待ち合わせでどうじゃ?」
「……今日は先約があるのですが」
「なら、それは明日に回しんさい」
……そんな、無茶苦茶な。
だけど……。
老人の目を見ると、有無を言わせない光が見える。
「分かりました。今晩の七刻ですね」
――
闘仙府を出た私は、なんだか気疲れがして……ちょっとだけ休憩を入れることにした。
時間もちょうどお昼時。少しくらいなら、喜先輩から文句を言われることもないだろう。
以前に喜先輩に連れていってもらった飯食店は、美味しいけれども価格が高め。私の設定からすると、分不相応だ。
なので、私はもっと安めの価格帯のお店を行きつけとしている。
「いらっしゃいませ」
「一人です。席は空いていますか?」
「はい。こちらへどうぞ」
店員の誘導に従って、廊下を歩く。
途中通過する卓の半分程は、まだ早い時間にも関わらず客で埋まっている。
その中に――
「あっ」
私が気付いたように、向こうも私に気が付いたようだった。
手招きをしている。
「すみません、そこの彼と同席でもいいですか? 知り合いなもので……」
「ああ、そうでしたか。構いませんよ。後で湯布とお茶をお持ちしますので」
店員さんに頭を下げて、私は彼の対面の席に腰を下ろした。
「……久しぶりだな」
「ですね。殿試以来でしょうか?」
蔡さんは……おそらく食事を摂った後なのだろう。湯布に微かだが、汚れが付いている。
「尹は今、どこに所属しているんだ?」
「宮内府でお世話になっていますよ」
「――っ!」
瞬間、蔡さんの顔が歪んだ。
「噂は本当だったのか……まさかとは思っていたが、本当に宮内府に入ったとは」
「……なんの噂ですか、それ。――あ、ありがとうございます。それと、いつもので」
店員さんがお茶を持ってきてくれたので、それを受け取りつつ注文を済ませておく。
私と店員さんのやり取りに一旦口を噤んでいた蔡さんは、私が湯飲みに唇を付けると同時に語りだした。
「殿試三席が、宮内府なんてとこに入ってしまったという噂だ。――全く、他にも引く手あまただったろうに、なんで宮内府なんて選んだんだ」
「……宮内府の人気はあまりありませんけれど、やりがいのある仕事ですよ」
「ふんっ、陛下の我儘を聞く仕事がか? 馬鹿言えっ、もっとやりがいがあって、しかも大切な仕事なんて幾らでもある。そして、尹。お前は宮内府で埋もれているような人間ではないだろう」
「……そういう蔡さんはどこにお勤めなのですか?」
言い争っても仕方ないので、話を逸らすことにした。
「僕か? 僕はもちろん、司法院だ。国の中枢を担う重要な仕事だよ」
「なるほど、司法院ですか。どの部署で?」
「封真部だな。本当は司刑部に行きたかったんだが、最低でも三年は経験を積まないと駄目だとさ」
「失礼します。ご注文の品をお持ちしました」
「――ああ、私です。ありがとうございます」
私が言うと、胡椒の独特な香りがする華麺が卓の上に置かれた。
相変わらず……仕事が早い。しかも美味しくて安いとなったら……このお店以外へ行く気には中々ならないのだ。
早速箸を取った所で、
「もっと話したい事があったんだが……僕はそろそろ時間だ。先に失礼する」
椅子から腰を上げながら、蔡さんは卓の上に銭を置いた。
「ここは僕が奢るから、ゆっくりするといいぞ」
「あっ、そんな! いいですよ!」
「いいから大人しく奢られろ。尹と違って僕は、金なんて有り余ってるからな」
……そうですか。
「ありがとうございます。では、ありがたく」
「じゃあな」
言って歩き始めた蔡さんは、私の真横で足を止めた。
「そうだ。尹、今晩時間あるか?」
「今晩ですか? ……用事がありますが」
「仕事か?」
「いえ、仕事ではありませんよ」
「じゃあ、それは断れ」
「……はい?」
麺をすすろうとしていた私は、上を見上げた。
「今晩は僕に付き合え」
「えっ? いや、だから先約があるんですよ」
「なんだ? 僕が誘ってあげてるんだぞ。仕事でもない他の用事なんて、どうでもいいだろう」
「……何を言っているんですか? どうでもいいわけないじゃないですか」
約束は必ず守らなければならない。子どもでも知っていることだ。
そのはずなのに、蔡さんは困惑しているようだった。
「いや、僕の誘いだぞ? 蔡本家の次期当主の」
「そんなこと関係ありませんよ。私と蔡さんは同期でしょう? 十年後ならいざ知らず、今の立場は同等のはずです」
「――っ!? ……そ、そうだな。よしっ、では明日の晩ならどうだ?」
なぜか慌てて顔を逸らした蔡さんは、明後日の方向を向きながら言ってきた。
「明日は……明後日に大きな仕事があるので、その準備があるかもしれません」
「じゃあ明日だ」
「いえ、だから。準備があるかもしれないので難しいです」
私の返答に、ムッとした表情を向けてきた蔡さんは、
「煩い! 僕の誘いを二度も断るなんて許さない! 準備があるかもしれないなら日中に全て終わらせろ! 尹ならできるはずだろ? この店の前に、夕方六刻。待ってるから遅れるなよ!!」
自分が言いたい事だけを言った蔡さんは、私の返事も待たずにどこかへ消えてしまった。
○○○
夜の七刻。軽く憂鬱な気分で闘仙府に向かった私は、
「あれ? 乍じゃないですか。今帰りですか?」
「ん……イン? どうしたの?」
闘仙府の前。見慣れた顔に話しかけると、やっぱりサラ聖官だった。
「私はここへ七刻に来るように呼ばれていたのですが……乍はどうしてこんな所に立ちすくんでいるのですか?」
「ワタシ? ワタシは――」
「おー、二人共お揃いで」
老人が闘仙府の入り口から出てきた。
「んじゃ、早速行くとするかの」
「……いえ、結局どこに行くかなど、何も聞いていないのですが」
私の苦言などどこ吹く風で、老人はサラ聖官へと顔を向けた。
「乍ちゃん、飴はいるかの?」
「うんっ、ありがと!」
飴玉を老人から受け取ったサラ聖官は、嬉しそうにそれを口の中へ放り込んだ。
「尹ちゃんは?」
「いえ……私は、結構です」
「ふーん、そうかい」
寂しそうに、飴玉の入っている巾着を懐へと収めて、
「急がにゃ怒られちゃうからの。ちょっと遠いから――ほれ」
老人は背中を私へと向けてきた。
「……なんでしょうか?」
「うん? だから、おんぶじゃよ。尹ちゃんは武仙じゃないから儂が背負って運んでやる、と言ってるんじゃ」
背中に回された老人の十指は、怪しく蠢いている。
「……乍、私を背負ってもらっても構いませんか?」
「うん、べつにいいわよ」
「お願いします」
私たちの会話を聞いていたのか、老人は人を背負う姿勢から直立に戻って、不満そうな目で私を見てきた。
一言。
「何もせんぞ?」
何も応えず、私はサラ聖官の背中に乗った。
――
鴻狼南部。
屋根の上を跳び走るという滅茶苦茶をしたおかげで、あっという間に目的地に辿り着いたようだった。
商店の並ぶ中央通りから入り込んだ路地裏で……その、何と言うか……風俗街のようだ。
「ここじゃな」
老人が見上げたのは、赤や緑で色彩された縦長の建物。各階には手摺で囲まれた外縁が付いていて、そこからふしだらな服装をした女性が数人、路地を覗き込んでいる。
「……乍、一刻も早く帰りましょう。ここは私たちがいていいような場所ではありません」
「えっ、かえるの? おいしいものがたべられるって聞いてたんだけど……」
「美味しい物なら、私が幾らでも奢ってあげますから。ちょうどいいです、取りあえず国府に戻って、そのまま一緒に食事しましょう」
サラ聖官の手を引いて、中央通りに向かおうとした所を、
「おいおい、待ちんさいって! 何か勘違いしとるじゃろ!!」
老人が慌てて追いかけてきた。
「こんな場所に連れて来て、何が勘違いですか。金輪際このような事は止めてください」
「いやだからっ、ちょっと待ってくれって……」
なんだか必死な老人の口調に、私は渋々ながら足を止めた。
「……なんですか」
「あれあれ、あっちじゃ。そのデッカイ建物の左側、家があるじゃろ? あれが目的地!」
老人は風俗店の左に埋もれるように建っている家を指差していた。
「……そうならそうと早く言ってください。あなたがソレを見上げたりするから、勘違いしたではないですか」
「いやそれは、久しぶりに行きたいのぉ……と思ってただけじゃ」
「……そうですか」
私からとやかく言う事ではないが……深く考えるのは止めよう。
「なんじゃ? なんなら、後で尹ちゃんにとっておきの店を紹介するぞ。なんなら奢ってやても――」
「結構です」
「お固いのぉー、偶には息抜きも必要じゃぞ? ――なぁ、乍ちゃん?」
突然話を振られたサラ聖官はキョトンとした顔をして、口を開――
――く前に、私はサラ聖官の口を押さえた。
「乍は何も知らなくていいです。――こんな所で話していないで、早く中に入りませんか?」
「お? うん、そうじゃな」
回れ右をした老人に付いて、件の建物へと向かう。
「おーい、帰ったぞい」
大きな声で言いながら扉を開けて、老人は建物の中へと入った。
「おう、お帰り。なんだい、またお客……」
老人を出迎えた、同じような年頃の老婆は――
「ありゃ、あんたはいつかの」
いつかの……鴻狼へ向かう馬車で一緒になった老婆だった。
○○○




