16話 『宮内府潜入 後編』
――『サラ・フィーネ聖官より、通信の申請が来ています。許可しますか』――
紙面を広げて筆を走らしていた私は、筆を硯の上に置いてから顔を上げた。
――『はい、お願いします』――
――『了解。通信を構築しますので、少々お待ちください』――
――『イプシロン? きこえてる?』――
即座に通信が繋がって、サラ聖官の声が聞こえてきた。
――『はい、聞こえてますよ。――では早速、連絡に入りましょうか。どうでしたか? 何か手掛かりは見つかりましたか?』――
――『んーん。だめ。きのうイプシロンに言われたから、カンゴク? ってとこに行ってみたけど……アルはいなかったわ』――
――『そうですか……』――
溜息を吐きそうになるのを堪えて、私は床に広げてある大きな紙、そこに墨で描かれている一つの四角にバツ印を付けた。
――『イプシロンはどうだったの?』――
――『私の方も全く。大方、私が行けるような場所は既に調べましたが……アル聖官の気配はありませんでしたね』――
――『そう……』――
気落ちしたようなサラ聖官の声を聞いて、私は慌てて付け足した。
――『ですが、まだキチンと全て調べられたわけではありませんし、分かりませんよ! それに、アル聖官は確実に鴻狼にいるのですから、見つからないはずがないです!』――
――『……うん、そうね』――
サラ聖官の相槌に覇気が無いのも無理はない。
私が宮内府に、サラ聖官が闘仙府に潜入してから、八日が過ぎた。
その間、あらゆる国府を探してみたにも関わらず、一向にアル聖官の手がかりを掴めないでいた。
金髪に薄青色の瞳を持つ美青年、そんな存在がいたら目立たないはずがないのだから……もしかしたら、私やサラ聖官と同じように変装でもしているのかもしれない。
なぜそのような事をするのか、不明ではあるけれど。
――とはいえ、仮にアル聖官が変装しているのだとしても、私もサラ聖官も、しっかりとアル聖官の魔素を覚えている。気配と言ってもいい。常に微弱に放出されている魔素は、隠そうと思って隠せられる物ではない。もしアル聖官に接近したなら、気付けるはずだ。
思いつつ、私は眼前の紙面に目を向けた。
至る所に建物を示す四角が描かれていて、そのほとんどにはバツ印が付けられている。
僅かばかりに残っているまっさらな四角の内、唯一可能性があるとすれば……。
『内宮』
もう、そこしか残っていない。
皇帝の私空間であり、宮内府の学仙と言ってもみだらに踏み入ることのできない区画。
私も、何度か足を踏み入れただけで、とてもではないけれどあちこちを見て回るなんてことは出来なかった。
――『サラ聖官、聞こえていますか?』――
――『なに?』――
――『明日、昼過ぎに通信を繋げてもらって良いですか?』――
――『べつにいいけど……どうかしたの?』――
――『少し、思い付いた事がありまして……』――
――『それ、なにっ!?』――
食いつくようにサラ聖官が声を弾ませたけれど、今の時点でサラ聖官に詳細を伝えるつもりはない。
所詮は思い付きに過ぎないから、サラ聖官をガッカリさせてしまうだけの可能性も高いから。
――『すみません、まだちょっと言えないです。明日の昼過ぎ、改めてサラ聖官に伝えますから』―それまで待ってもらえませんか?』――
――『……わかったわ。イプシロンにまかせる』――
――『ありがとうございます』――
――『じゃあ、もう切るわよ』――
――『はい、ゆっくりと体を休めて下さいね?』――
――『うん。イプシロンもね』――
プツッと、通信が切れてしまった。
軽く瞼を閉じていた私は薄く目を開き、襖の隙間の闇へと目を向ける。
……少し、サラ聖官を拗ねさせてしまった。
ちょっとだけ胸が痛い。
けれど、もしサラ聖官に全て伝えて、やっぱり無理だったという結果を教えることになったら、もっとサラ聖官を傷付けることになるだろう。
私の判断は間違っていなかったはずだ。
私は硯から筆を取って……
紙面に力強く、大きなマルを描くのだった。
○○○
「ここが会場ですね」
内宮、歓興園。
金、玉、漆。
贅を凝らして作られた建物は、全て皇帝一族の為の設備だ。
例え外賓が来ても、歓待に使用されるのは外宮の迎賓館で、この歓興園が使われることはない。
二日後に迫った、皇帝の思い付きによる『胡蝶の舞』鑑賞会の会場に使われる予定なので、私は喜先輩と一緒に下見にやって来ていた。
「そこ、ちょっと上がった壇上に御簾があるでしょう? あそこに陛下がいらっしゃる予定です。左右の椅子は御子息たちと陛下の御気に入りの面々が数名。その対面側の広間で、楽士たちが演奏することになります」
喜先輩は両手に紙面を広げながら、広間を歩く。
「すみません尹君。僕が横の長さを測るから、縦の長さを測ってもらってもいいですか?」
「分かりました」
指示が出されたので、私は喜先輩が歩く方向とは直角になる方向へと足を進めた。
手早く測量を終えて、
「大方、五十歩前後です」
喜先輩の元へと小走りで向かって、報告した。
「分かりました、尹君の方も資料通りですね。記録にない障害物も特に無いようですから、予定通りにいけそうです。今回は運が良いですね」
「……運が良いのですか?」
疑問に思って私が尋ねると、
「もちろんです。宮内府に報告が無いままに調度品が購入されていて、会場のど真ん中に置かれている、なんてことはよくあります。以前なんて、資料にはない巨大な壺が鎮座してて……大変でしたよ」
「へぇ……凄いですね」
「――っと、愚痴を言っていても仕方がありませんね。尹君、予定通りでいけそうだ、と楽士館に行って伝えてきてもらっていいですか?」
「分かりました!」
早速行動を開始しようとした所で、
「あ、尹君。僕は別の担当と打ち合わせをしてくるから……そうだな、内宮の入り口で半刻後に合流しましょうか」
「はい、分かりました」
喜先輩と別れて、私は歓興園の出口へと向かう。
警備の武官に頭を下げて建物の外に出ると、そこには内宮の景色が広がっていた。
白砂の敷き詰められた地面を貫くように黒石の路が直線的に伸びていて、それぞれの建物が繋がっている。
一つ一つの建物が広大な敷地に余裕をもって配置されているので、あたかも白砂に浮く島のように見えてくる。
建物が島なら、黒い路は海に架かる橋だろうか。
実際、内宮を行く者たちには、路の外へと出ることは許されていない。
黒い路には一定間隔で武官が立っていて周囲を警戒しているし、乱れなく敷き詰められた白砂は、足跡を明瞭に示すだろう。
……どの辺りがいいでしょうか?
思いつつ、挙動不審にならない程度に周囲を見回す。
設置可能なのは一点だけ。せっかくなら、出来るだけ広範囲を見渡すことのできる場所がいい。
……屋根の上?
その場で振り返って、私は歓興園を見上げる。
入り口を警備している武官が怪訝な顔で見てくるので、気にしないようにしながら屋根を観察する。
――あそこ。
決めると同時、私は右拳に握っていた物を屋根の上に転移させた。
怪しまれない内に、さっさと屋根から視線を逸らす。
警備の武官へ軽く会釈して、私は喜先輩に指示された任務をこなすべく、早足で黒路を急いだ。
――
楽士館で報告を終えて内宮の入り口へ向かうと、喜先輩は既に私の事を待っていた。
何かの書類に目を通しているようで、すぐ傍に近付いてようやく私の存在を認識したようだった。
「お待たせしてすみません、陳さん」
「陳さん?」
「あっ、すみません! 喜先輩でした、間違えました!」
笑うでもなく、何も言わずに目を覗き込んでくるので余計に恥ずかしい。
頬が少し熱い。
「尹君でも間違える事があるのですね。少し新鮮です」
喜先輩が歩き始めたので、慌てて着き従いつつ、
「私だって、間違える事はありますよ」
「いやいや、そうですね。誰しもあることです……そう恥ずかしがらずともいいですよ。むしろ、完璧すぎるよりは隙があった方が好感が持てるというものです」
「……そうでしょうか?」
「そういう物ですよ」
言って、喜先輩は右手に抱えていた紙束を私に差し出してきた。見ると、どうやら紙束を半分に分けて、そのうちの一方だけを私に向けているようだ。
取りあえず受け取って、
「これは?」
「次の仕事です。闘仙府に向かって、十名ほど武仙を確保してください。内宮側の希望順がその書類らしいので、可能な限り希望に沿うように交渉をお願いします」
喜先輩の説明を聞きながら書類に目を通していた私は、
「これ、全部女性ではないですか」
「そうですね。軽く目を通してみましたが、要は若い女性の武仙を所望のようです」
「なるほど……二日後の夜ですよね」
「もちろんです」
「分かりました……頑張ります」
「はい、任せました」
突然、道角で曲がった喜先輩の姿は見えなくなって、そんなことにもとうに慣れてしまった私は動揺することもなく闘仙府へと足を進めた。
――
闘仙府には既に何度かお邪魔しているので、勝手は知っている。
受付に話を通し、指示された部屋で担当者を待つこと四半刻。
「お待たせしました」
言いながら部屋に入ってきたのは、まだ若い――十代後半二十代前半くらいの女性だった。当然、実際の年齢は知らない。
椅子から立ち上がっていた私は、陳さんが椅子に座ったのを確認して腰を下ろした。
見ると、なぜか陳さんが苦笑いしている。
「その……どうかしましたか?」
「いえ、尹さん……まだ新人なのに忙しいなと思って。昨日会ったばかりですよ」
……そうだっただろうか?
陳さん以外とも色んな人と会っているから、記憶が朧だ。
言われてみると、そうだった気もする。
「すみません、頻繁にお邪魔して」
「気にしなくてもいいですよ、お互い仕事ですからね。――それで、今日はどういったご用事ですか?」
「……十人ほど、武仙の融通をしてもらいたくて」
「ははは……例の件に、また必要なんですか?」
「はい」
「分かりました。少し確認してくるので、ちょっと待っててください」
「あのっ!」
立ち上がろうとした陳さんを、慌てて引き留める。
「どうされましたか?」
椅子に座り直した陳さんが、不思議そうな顔で問いかけてきた。
「今回の十人は……いくつか、条件がありまして……」
「条件?」
「はい」と言いながら、私は膝の上に置いておいた紙束を陳さんに差し出した。
陳さんはパラパラと中を捲って……
「これは?」
「……若い女性の武仙を十人ほど」
ニッコリと微笑みながら聞いてきた陳さんに、私は無表情で返した。
「多分、難しいですよ? 軽く目を通しましたが、ほとんどの者は他の任務に就いていますから」
「そこを何とかなりませんか? 私にできる事なら……何でもしますから」
「何とかと言われても……」
眉間に皺を寄せながらの陳さんは、紙束を卓に置いてから続けた。
「取りあえず、確認してみます。先に言っておきますが、多分無理ですから。そのつもりで待っていてください」
パタン、と閉まった扉を見つめて、私は一人溜息を吐いた。
……陳さんが無理と言うなら、無理なのだろう。
どれだけ頼み込もうとも、無から何かを生み出すことは出来ない。鴻狼にいない武仙を二日後までに呼び寄せるなんて不可能だし、可能だとしても重要な任務を放棄させるわけにはいかない。
私の仕事は、こちらの都合を全く考えない内宮と交渉して、現実的な提案をすることだ。
どうやって言いくるめようか考えていると、扉の向こうに気配が近付いてくるのを感じた。
扉を開けて入ってきたのは、陳さん。
想定通りに難しい顔をしていて、そのまま無言で椅子に腰かける。
「見つかりましたよ」
「……はい?」
「尹さんの希望通りの武仙十人、見つかりました」
もしかして、私の希望が上手く伝わっていなかっただろうか?
「若い女性武仙ですよ? 一人ではなくて、十人全員です」
「十人の若い女性武仙が見つかりました」
……喜先輩ではないけれど、私も今日は運がいいのだろうか?
「ありがとうございました、助かります」
「いえ、偶々ですから。こちら、その十人の名簿です。今日の夕方四刻には紹介できますが、担当の方にここへ来てもらっていいでしょうか?」
「分かりました、伝えておきます」
陳さんから十人の名前の書かれた紙を受け取って、私は椅子から立ち上がる。
「あっ、一つだけいいですか?」
「はい?」
陳さんが強めの語気で言ってきたので、ちょっと驚いて私は足を止めた。
「尹さんに会いたい、という方がいるのですが、会ってもらう時間はありますか?」
私に会いたい?
……誰だろう。
闘仙府に知り合いはあまりいない。目の前にいる陳さんと……サラ聖官くらいだ。
サラ聖官だろうか?
要件があるなら通信で伝えてくればいいのだけれど、忘れているのかもしれない。
「時間ならありますけれど、誰でしょうか?」
「それは、私の口からは……」
言いにくそうに口を噤んだ陳さんに、軽く不信感が生まれた。
なんだか、嫌な予感がする。
「……また今度でも構いませんか」
「個人的には……会った方がいいと思いますが」
どうやら陳さんはそれ以上言うつもりがない……というよりも、言えない? ようだ。
余計に意味が分からなくなってきたけれど……。
「分かりました、会います」
「ふう……良かったです」
「それで、その人はどちらに?」
「扉を出て右へ真っすぐ進むと左方に中庭が見えてくるので、そこへ行ってもらえたらと」
「……分かりました」
絶妙な表情で部屋の扉を開けてくれている陳さんへ、チラリと視線を向けると、
「気を付けてくださいね?」
小さな声で言ってきた陳さんへ、どう答えたらいいか私には分からなかった。
○○○




