15話 『宮内府潜入 前編』
黒狼節の熱気も、二日も経てばスッカリと冷めてしまった。街を彩っていた屋台や飾り物も幾らかは片付けられてしまって……おそらくはこれが鴻狼の日常風景なのだろう。
私とサラ聖官がここにやって来た時には既に『黒狼節』直前だったから、初めて見る日常風景……のはずだけれど、残念ながら私に差は見つけられない。
つまり何が言いたいかと言うと、鴻狼は常にお祭り騒ぎなのだな、と実感したという事だ。
……少し早めに目が覚めたから散歩に繰り出してみたけれど……そろそろ帰り時だ。大分日が昇ってきた。
足先を、新しい職場へと向ける。
鴻狼北方、官府の立ち並ぶ行政区画。
『宮内府』と、黒漆の地に金箔で描かれた額縁が掛かっている邸へと、私は足を踏み入れた。
――
学仙殿試を三席で通過した私には、六府三院――つまりは十二の官府の内、九つからお誘いがかかった。
ちなみにお誘いの来なかった三府はそれぞれ、闘仙府、技仙府、知仙府であり、この三つは武仙殿試の受験者から採用されるので、実質全ての官府から声がかかったと思っていいだろう。
私が選んだのは宮内府――宮中の、官府に対する窓口として存在する役所だ。
概要だけを聞くと退屈な役所に聞こえるけれど、当然のことながら暇ではない。
人員の採用・配置、財源の確保、宝物の管理、食糧の入手、会計院への報告……そして、皇帝一族の我儘に答えること。
宮内府に向かった初日、歓迎された私はどんな仕事をしたいかを聞かれ、人員を確保する仕事に就かせてもらう事になった。
――
「おはようございます尹君。……今日も早いですね」
始業時間の少し前に、喜先輩――私の直属の上司が部屋に入ってきた。
慌てて卓から立ち上がり、頭を下げる。
「おはようございます、喜先輩」
「いや……そんなに畏まらなくてもいいですよ。僕、堅苦しいの苦手だから……」
苦笑いの喜先輩に曖昧な微笑みを返しつつ、私は卓上から紙束を手に取った。
「こちら、昨日指示されていた物です。確認をお願いします」
「えっ、ああ……うん」
紙束を受け取った喜先輩は、パラパラと捲りながら中に目を通し始めた。
「喜先輩の指示通り、手配可能な楽士を一覧にまとめておきました。朱で下線を引いている者が、特に条件に適しているかと思います」
「条件?」
「はい。今回陛下がお望みの演題は『胡蝶の舞』とのことでしたので、過去に演奏経験のある者、あるいは経験が無くとも似通った華やかな曲を得意としている者を探しておきました。――もちろん、実際に面接をしてみなければ確実性に欠けますが、参考にはなるかと」
「……ほう」
喜先輩は紙束を最後まで捲り終えると、端を整えてから卓上に置いた。
「うん……流石ですね。こう毎回期待を越えられると……後で昼食でも奢りますよ」
「……ありがとうございます、喜先輩」
前後の繋がりは理解できないけれど、こういう時、下手に断る必要も無いだろう。
「任せてください。美味しいお店の知識なら、まだ負けないですからね。でだ、流石にこれだけの分量の確認をすぐにはできないから、ちょっと時間を貰いたい……所だけど、その間尹君を暇させるのも勿体無いでしょう。早速仕事に取り掛かりましょうか」
喜先輩は自分の卓から茶封筒を取り出して、私が渡した紙束をその中に突っ込んだ。
それを小脇に抱えて、
「尹君は、采官府の場所は知ってますよね?」
「はい、学仙予試の会場だったので」
「……ん? あぁっ、そうか。尹君は予試組って言ってたね。ということは、采官府の中の、細かい配置は知らないか」
学仙予試の時、色々な建物を横切ったけれど、それぞれがどんな建物かはもちろん知らない。
「そうですね」
「よしっ……じゃあ、今日は時間があるから、ついでに采官府内の案内をしましょうか」
「よろしくお願いします」
――頭を下げながら、私は小さくほくそ笑んでいた。
――
「ここら一帯が声士の控所ですね。奥の一番大きな建物が訓練場。その手前が宿舎。で、そこの小さな建物が窓口です。声士に用事がある時は基本的に窓口に行けばいいですが、たまに訓練場へ直接顔を出すのもいいかと。菓子を差し入れで持っていけば、心証も良くなりますからね。煎餅は当然ダメで、水羊羹なんかがおススメ」
つらつらと話す喜先輩の言葉を必死に聞き取っていると、紙片に記録している暇もない。
「詳しくは声士に用事がある時にまた話します。じゃあ、次に行きますか」
再び歩き出した喜先輩の背中を慌てて追いかける。
歩いている間も、暇ではない。
采官府の中は多くの人が歩いているのだが、喜先輩はかなりの頻度で声をかけられる。
「お、喜さんじゃん! 久しぶり」
今も、若い女性が声をかけてきた。
「燐さん。本当に久しぶりですね。最近はどうですか?」
「特に変わりなく元気だよ! そちらは?」
「ああ、紹介しますよ――」
喜先輩が手で私を示してきたので、私は女性に向けて頭を下げた。
「この間宮内府に採用されて、僕の部下に就くことになった尹 狼鮮です。今後燐さんのお世話になることもあるかと思うので、名前だけでも覚えてもらえたらと」
「尹 狼鮮です。よろしくお願いします」
私の自己紹介に、なぜか燐さんはカラカラと笑った。
「紹介されなくても知ってるよ! 尹さんは有名人だからね! ふーん……」
言って、燐さんが私に顔を近付けてきた。
思わず、少し身体を反らせてしまう。
燐さんは私の顔を舐めるように見てから、ようやく顔を離してくれた。
「こうやって近くで見ると、本当に美人さんだね! これで男の子って言うんだから自信が無くなっちゃうよ」
「……」
ありがとうございます、と返すのが正解なのだろうか?
しばし考えていると、
「あっ、ごめん。もしかして、こういうの言われるの嫌いだったかな……?」
「……? いえっ、そんな事ないです!!」
どうやら、女性だと間違われることを私が不快に思っていると、誤解されてしまったらしい。
実際は逆だ。むしろ嬉しいくらい。
私は両手を胸の前で振りつつ、
「昔からよく間違えられますし、全然気にしてないですから!」
「そう? なら良かったよ!」
燐さんがニッコリと微笑んでくれたので、一安心だ。
そこへ、期を見計らった喜先輩が言葉を挟んできた。
「すみません燐さん、そろそろ失礼させていただきます」
「ん? ああ、ごめんごめん、邪魔したね! じゃあ、喜さんに尹さん、またね。コウに御用なら声をかけてくれていいから!」
言って、手をフリフリしながら燐さんはどこかへ行ってしまった。
再び歩き出した喜先輩の隣に並ぶと、喜先輩は足を進めながら私に説明をしてくれた。
「さっきの燐さんはコウボクシです。かなり腕のいい職人で、仲間内でも顔が利く人ですからコウが必要な時は頼りにするといいですよ」
「コウボクシ、ですか?」
「ん?」
一瞬、喜先輩は私に視線を向けてきて、
「ああ、すみません。匂いの出る、香木ですね。香木シです。声士の『士』ではなくて、職人の『師』ですから、字に書くときは気を付けてくださいね。間違えると怒られますから。香木師、です」
「そうなのですか……分かりました、覚えておきます!」
喜先輩は一つ頷いから、遠く前方を指差した。
「さて、見えてきました」
喜先輩の指先に目を向けると、これまで幾十と見てきたのと似た造りの建物が建っていた。
「あれが、楽士館。目的地ですよ」
――
「皇帝陛下が宴を行いたいと所望している、というお話は昨日の夕刻にお伝えしましたが、今日はそれについての打ち合わせをしたく、訪ねさせていただきました」
私の隣に座る喜先輩が言うと、対面に腰掛ける男性は露骨に溜息を吐いた。
「昨日の今日で打ち合わせって……いくら何でもおかしいでしょう」
「……申し訳ありません」
「ふんっ……まあ、毎度のことだからいい加減慣れてきましたがね」
「いつもすみません……」
喜先輩が深々と頭を下げているので、それに倣って私も頭を下げる。
その姿勢のまま、それなりの時間が経って……
「まあ、私も暇ではないのでね。でっ、どんな予定ですか?」
「演題は『胡蝶の舞』、三楽章から五楽章。五日後の晩、夜の八刻からを予定しています」
「……は?」
楽士館長の唖然とした顔は、中々面白い。
唖然とした顔、と調べたらこの顔が出てきそうだ。
「お前、何を考えてるんだっ!!」
一瞬で顔を真っ赤に染めた楽士館長が、唾を撒き散らしながら叫んできた。
怒気を正面から受けても、喜先輩は微動だにしない。その姿に余計に苛立ったのだろう、語気を強めながら楽士館長は続けた。
「そんな物、出来るわけがないだろう!! 『胡蝶の舞』がどれだけ高度な楽か知らないのか? 不可能だ、最低でも一月は訓練にかかる!!」
「でしょうね」
「でしょうね、ではない!! お前、ふざけているのか!?」
「もちろん、ふざけてなどいません」
淡々とした口調の喜先輩に、楽士館長は気圧されたようだった。
畳みかけるように喜先輩は続ける。
「確かに、『胡蝶の舞』は高度な楽です。私も今の仕事に就いて十年になりますから、身に染みて知っています」
「だったら――」
「ですが!」
喜先輩に似合わず、強い口調で楽士館長の言葉を遮った。
「例え不可能だとしても……やらねばならないのです! 一月も待たせては陛下のご不興を買うなどという騒ぎではないのですから!」
「確かにそうだが……」
頭から血が引いて、ようやく館長も冷静になったようだ。
背もたれに体重を預けると、ギィと椅子が軋んだ。
「だが、無理な物は無理だ。絶対に間に合わない」
「それを間に合わせるのが私たちの仕事です」
先ほどの力強い口調とは対照的に、喜先輩は落ち着いた声音で続けた。
「心配は要りません。金館長は赴任からまだ二月で不安も多いでしょうが……私は十年も同じような苦境を乗り越えてきたのですよ。今回も何とかなるはずです」
「……そうか?」
「もちろんです」
言って、喜先輩は懐から茶封筒を取り出した。
今朝、私が提出した物だ。
喜先輩は中身を取り出し、捲りながら、
「こちらは尹君がまとめてくれた物なのですが……例えば、これ」
一点を指差し、そこを館長へと見せる。
「この方は過去に四度『胡蝶の舞』を経験しています。この方は三度……他にも、経験豊富な楽士はたくさん揃っています。……零からの開始なら不可能でしょうけど……できるような気がしてきませんか?」
「……確かに」
口元に手を当てながら、館長は紙束を手に取って中身に目を通していく。
そこへ、トドメとばかりに喜先輩は話しかけた。
「国府所属の楽士以外にも、すでに隠居して市井に降りている楽士の知り合いが何人かいます。彼らに力添えを頼む事も可能ですよ」
――
「と、まあ……さっきのような感じですね」
言って、喜先輩は蓮華を口に突っ込んだ。
どうやら熱かったようで、慌てて水を飲んでいる。
私も、初めて見る食べ物――天津飯というらしい――に蓮華を突き立て、一口分を削り取った。喜先輩から学んで、フーフーと息を吹きかけ冷やしてから口の中へと入れる。
……美味しい。
絶妙に舌に絡んで、口の中に旨味が満ちる。
コクリと、飲み込んでから、
「……喜先輩のようには、難しそうです」
私は率直な感想を喜先輩に伝えた。
「具体的には、どの辺りを難しそうだと感じましたか?」
「……私には喜先輩のように上手く人を乗せることは出来ないで――」
「尹君」
コンコンと、皿を蓮華で叩きながら喜先輩は、
「お世辞はいらないですよ。あの程度の交渉術、尹君には備わっていると私は判断していたのですが……過大評価でしたか?」
……どうやら、お見通しだったらしい。
「すみません、訂正します。確かに、前半の交渉だけなら私でも可能だと思います。私が難しいと思ったのは……人脈の面です」
「ふん、人脈ですか……」
呟いて、喜先輩は蓮華で天津飯を掬った。
「確かに、人脈は一日やそこらで作れる物ではありませんね。――他に、気が付いたことはありませんか?」
……気が付いたこと?
何か……あっただろうか?
天津飯を口に含んでハフハフとしている喜先輩を眺めながら、さっきの光景を思い出す……
「そういえば、喜先輩はいつの間に私がまとめた資料を見ていたのですか? 朝からずっと一緒に行動していましたが、そんな時間は無かったように思うのですけれど……」
「流石ですね、気が付きましたか」
水を一口飲んで、喜先輩は続けた。
「もちろん、そんな時間はありませんでしたよ。尹君が作ってくれた資料は、後でジックリ目を通します」
……つまり?
「もしかして、先ほど金館長に語っていた内容は、デタラメですか?」
「そうなります。過去に四度『胡蝶の舞』を経験している……という話は適当ですね。ついでに言うならば、隠居した楽士の知り合いも……いないこともありませんが、あてにはならないでしょう。任から離れてかなりの時間が経っていますから、現役楽士の指導は無理ですね。もっと言うなら、予定日が五日後というのも違います。実際は十日後です」
……ほとんど嘘ではないですか。
「喜先輩、それ……後でバレませんか?」
「問題ありません。幸い楽士に知り合いはたくさんいますから、話は合わせて貰えますからね。ああ、そうだ。尹君あとで適当な老爺を探しておいて下さい」
「……老爺?」
「隠居楽士を演じさせますから」
「……分かりました」
何となく釈然としない気がしつつも、私は頷いた。
ふと思いついて、喜先輩に尋ねてみる。
「喜先輩、どうして予定日まで嘘を教えたのですか?」
「もちろん、金館長に恩を売るためです。元々の予定は五日後だった所、必死に陛下に頼み込んで十日後にしてもらいました、と言えば……心証が良いでしょう?」
「……なるほど」
納得してしまった私に向けて、喜先輩は先輩らしく続けた。
「つまり何を言いたいかというと……人脈は確かに時間をかけて作る物ですが、時には捏造したり偽造したりする必要もある、という事ですね。覚えておきましょう」
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