25話 『椛』
任務報告を終えた後、俺は中央教会の廊下を歩いていた。
応接室から、俺の部屋に繋がる道。その半分ほどを進んだ時だった。
向こうから、誰かが歩いてくる。
見たことのない人物。聖官でも、白メイドでも、黒メイドでもない。
その女性は、紅葉柄の華やかな着物を着ていた。
髪の毛は黄金色。花簪が挿さっている。
髪の毛と同じ黄金色の瞳は、興味深そうに辺りへと向けられていた。
……新人の聖官かな?
そう思っていると、女性の瞳が俺を捉えた。
「もし、そこな方。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
育ちの良さを感じさせる口調だった。ちょっとだけ緊張しながら、「はい」と答える。
女性は柔らかに微笑んで、たおやかな手を動かした。
すぐ傍の壁を、手のひらで示す。
「これは、何でしょうか?」
白く磨かれた壁、そこに巨大な金属板がはめ込まれている。
銀白色の金属。白金か、銀か……あるいは別の、俺の知らない金属か。その金属の滑らかな表面には、細かく文字が刻まれている。
「ああ、これは席次です――」
続けて説明しようとして、俺は口を止めていた。
「どうされましたか?」
女性の声で、俺は我に返った。
「あっ、すみません。私の記憶にあるものから、変わっていたので……」
「そうなのですか?」
「はい、あそこ――」
言いながら、金属の上辺を指差す。
「あそこに、青、赤、緑、とあって、その横に名前が刻まれていますよね?」
「はい」
「あれは、各色の、世界で最高の使い手に送られる称号で……以前までは、『青』が聖女様、『赤』が伯 狼円、『緑』が弧帝、という名前だったのですが、『青』と『緑』が変わってまして」
目を凝らしながら、新しく刻まれている文字を判読してみる。
『赤』は変わらず伯 狼円という人物。『青』が風音、『緑』がフレイ・フィーネに変わっている。
……というか、フレイ・フィーネって、フレイさんのことじゃないか。
三つの称号の下には、聖官の名前が席次の順にズラリと並んでいる。
一位と二位の名前があるはずの部分には、相変わらず何も刻まれていない。三位、フレイさんの名前から始まっている。
四位は知らない人。五位が件の風音。ちょっと下って、八位がクルーエル・シンナー――師匠だ。
ずっと視線を下げると、三十三の隣にサラ・フィーネとあって……それからもっと下。
四十二の隣にアル・エンリと刻まれている。前に見た時は、サラの一個上だったから……処分は既に反映されているらしい。
そこまで確認したところで――
「……なるほど、弧帝ですか」
小さく呟く女性の声がした。
……なにが、なるほどなのだろう? もしかして、会ったことがあるのか?
だとしたら、ちょっと気になる。
花簪の女性に尋ねようとする、その直前に、女性が口を開いていた。
「それで、席次というのは何のことなのでしょうか?」
「えっ、ああ……上の三つの名前の下に並んでいる物ですね。聖官の順位を示しています」
「順位が上になる程、お強いのですか?」
「いえ……まあ、強さも関係あるらしいですけれど、それよりも、どれだけ教会に貢献したかによる順位ですね。戦闘能力が大したことはなくても、すごい人もいますから」
「へぇ……」
吐息を漏らして、女性は金属板を見上げていた。
思わず、その姿に見惚れてしまう。
……なんというか、大人の女性って感じだ。マエノ医師に雰囲気がちょっと似てる。
ちらりと、女性が流し目を向けてきた。
「一位と二位の部分が空白になっていますけれど……あれは?」
「さぁ、私も詳しくは。最初に見た時から、ずっとそうですから」
俺の言葉に、女性は小さく首を傾げた。
黄金色の滑らかな髪の毛が、着物を撫でている。
「……どうやら、隠蔽されているだけのようですね」
女性が小さな声で呟いた瞬間、ふわりと、風を感じた。
背後の窓に目を向けると、窓はしっかりと閉まっている。……気のせいか。
視線を戻すと、女性が金属板をジッと見上げていた。
その様子を見て、俺の目も自然と金属板に向かっていた。
青 風音 赤
一 Ζ
二 Α
三 フレイ・フィーネ
四 ギルバート・ノーラン
さっきまで無かった文字が、金属板に刻まれていた。
驚いて目を見張っている間に、スーッと『Ζ』と『Α』という文字は薄くなっていき……やがて全く見えなくなった。
思わず、横に目を向ける。
そこには、相変わらず柔らかな微笑みを浮かべる女性がいた。
「えっと……今のは、あなたが?」
「さて、どうでしょうか?」
女性の表情は全く変わらない。何か底知れないものを感じて、ただ無言で見つめていると――
「そろそろ」
いつの間にか、俺の右手は女性の左手に握られていた。
柔らかい感触で初めて、俺はそのことに気が付いた。
「お暇しましょうかと思うのですけれど……その前に――」
手を引っ張り出そうとするけれど……身体が動かない。
指先一つさえ、ピクリとも動かない。
魔素も、操れない。
それどころか、呼吸までもが停止している。
……なのに、全く苦しくない。
「それほど慌てずとも、心配は要りませんよ。すぐに終わりますから」
俺は動けないのに、女性は全く問題無く動けるようだった。
……こいつがやってるのか?
静止した視界で、女性の右手には、いつの間にか筆が握られていた。
「色々と教えていただきましたから……これはほんのお礼です」
筆先が真っ黒に染まる。
目を見開くことさえできず、俺は筆の動きを捉えていた。
――『椛』――
……漢字?
「求める時に求めるモノを、一度だけ差し上げましょう。あくまで『モノ』で、『モノ』ではありませんけれど」
そんな訳の分からないことを女性が言っている間に、俺の手のひらに黒々と書かれていた『椛』の文字は、肌色に透けていった。
「それでは、また……いずれ」
○●○
「えっ……?」
喉から声が漏れた。
首を左右に振って、辺りを見回す。
女性の姿は、どこにも見当たらない。
代わりに……目の前。
真っ赤な葉が一枚、ユラユラと落ちている。
深く考えずに、その葉っぱを摘まみ取ってみる。
……紅葉?
困惑しつつ紅葉の葉を見つめていると、端っこの方から空気に溶けていく。十秒と経たずに、跡形もなく消えてしまった。
顔を上げて、もう一度廊下を見る。
やっぱり誰もいない。
……まるで、狐につままれたようだった。
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