21話 『王の鳥籠 六』
本棚を開いて、暗い通路を歩いて……光が漏れる扉を開ける。
開けると同時に視線を感じた。
「お父様、今日は早いのですね!」
タタタッと駆けてきて、エトナは私の胴体に抱き着いた。
ふわりと、甘い香りがする。
柔らかな金髪を撫でていると、ふとエトナが顔を上げた。
「……アルさんはいないのですか?」
「聖官殿は、今日は忙しくてな。余だけが先に来たのだ。じきに来ると思うぞ」
「そうなのですか?」
「ああ……いずれな」
私の言葉に、少しだけ残念そうな顔をしていたエトナは――ハッと、何かを思い出した様子で、私から離れた。
いつも授業を行う小机に向かって、炭棒を手に握っている。
「ごめんなさい、お父様……まだ、昨日出された課題が終わっていないのです」
シュンッ、とした顔のエトナに和みながら、机に置かれている紙を覗き込んでみる。
これは……私の出した課題ではないな。聖官殿の、算学の課題だ。
「どれ、見せてみなさい」
エトナは少し身体を避けて、私が見やすいようにしてくれた。
……ふむ。
「そうだな、中々難しい。とはいえ、私が教えてしまったら、エトナの力にならぬ。自分で考えねばな」
「はいっ、頑張ります!」
キラキラした瞳が、心に痛い。
……なんだあれは、全く意味が分からなかった。
真っすぐな線や曲がった線が大量に引いてあって、その脇には細々と文字が書かれていた。……私の知らない算学だ。
早速、ウンウンと唸りながら机に向かい始めたエトナを上から眺める。
「なあ、エトナ」
「はい?」
エトナはキョトンと顔を上げた。
「これまで、エトナにねだられても教えてこなかったが……エトナの母親の話を聞きたくはないか?」
「私の……お母様?」
目を瞬かせて、エトナはコクコクと首を縦に振った。
「よし。では、こっちに来なさい」
様々の布人形が転がっている場所に移動する。特別大きな、馬を模した人形の上に尻を落とし、私は所在無げに立っているエトナに目を向けた。
あぐらをかいて、膝と膝の間をポンポンと手のひらで叩いた。
同時、エトナの顔がむくれたのが分かった。
「なんだ、昔はよくここに座ってきたではないか?」
「もうっ、お父様! 私はもう子どもではないのですよっ!」
「そうだな、もう十二だな」
私はもう一度膝を叩いた。
「座ってくれなければ、母親の話はしてやらぬぞ?」
エトナの真っ白な頬が、麦パンのように膨らんだ。ポスンと、勢いよく私の膝の間に座って――
「これでいいですか?」
私の顔を、逆さまに見上げながら言った。
エトナの体温を感じる。私よりも高い熱が伝わってくる。
エトナの膨らんだ頬を人差し指で突っつくと、唇の間から息が漏れた。
「レイネは……エトナの母親はレイネと言うのだが、レイネはエトナと似て、綺麗な人だった。エトナの金色の髪の毛は、レイネからの物なのだぞ」
髪の毛を撫でつけると、エトナは恥ずかしそうに顔を正面に向けた。
「レイネは、よく笑う人だった。これも、エトナと一緒だな。レイネが笑うと、周りが明るくなるようだった。
そんなレイネは、王宮の者たちともすぐに仲良くなってな、特に庭師たちと仲良くなって……よく、一緒に庭園の花の世話などをしていた」
「……テイエン?」
不思議そうなエトナの声。その声に私は……目を閉じた。
エトナは王宮の庭園を見たことがない。物心が付いてからは、花も草も、空も、何も見たことがない。
知識としては知っているだろう。けれど、実際に見たことがない。
――私が、ずっとこの部屋に閉じ込めていたからだ。
閉じ込めざるを得なかった。エトナの存在を、知られるわけにはいかなかった。
目を開ける。
「……庭園という言葉は初めて聞くか?」
「はい。初めて聞きます……」
「簡単に言えば……大きな庭のことだな。ここが、お城の中だということは知っているな?」
「はい。確か……ハインエル王国という国のお城で、お父様がその主なのですよね?」
「そうだ。この城の中には、一日では回りきれぬほど大きな庭があってな……レイネはその庭が、大好きだったのだ」
エトナは小さく声を漏らしてから、私の顔を見上げてきた。
「お父様も、一緒にお花のお世話をしていたのですか?」
思わず、私は苦笑をしていた。
「いや、私には触らせてくれなかったな。一度、レイネと会ってしばらくもしない頃だったな……レイネが花を好きだと知って、色々の花を摘んで、レイネに贈ったのだ」
「花束ですね!」
元気良く言ったエトナの頭を撫でて、私は頷いた。
「そうだ、花束をレイネに贈ったのだ。そしたらな……頬を叩かれたのだ」
「えっ」
想像通りのエトナの反応に、私は笑っていた。
「驚くだろう? 私も驚いた。一瞬、何をされたか理解できなかった。ただ呆然と……目の前で激怒しているレイネを見ることしかできなかったのだ」
「……お母様は、怒っていたのですか?」
エトナは不安そうに聞いてきた。
「レイネが怒りっぽい性格だったということではないのだ。レイネが言うことには、『お花が可哀そう』だそうだ。
どうやら、花を摘んでしまったのが、お気に召さなかったらしい。それ以来、頼んでも私には花を触らせてくれなかったな」
「……お母様は、お優しい方だったのですね」
静かな部屋に、エトナの声がポツリと響いた。
「そうだな、レイネは……誰にでも、何にでも優しい人だった」
レイネは伯爵家の者だった。貴族としては、公爵、侯爵に次ぐ、三番目の地位。
伯爵家ともなれば、広大な王国と言えども百程度しかない。庶民たちから見れば雲の上のような存在だろう。
――にも関わらず、レイネは地位など全く気にしなかった。
気軽に王宮内の使用人に声をかけ、仲良くなった。城下に降りる事があれば、いつの間にか周囲に人々が集まっていた。
地位を軽んじていたわけではない。レイネは貴族という位の重さをしっかりと認識していた。
だからこそ、民を大切に思い、民に寄り添っていたのだと思う。
――だから。
レイネにとって、私が今やっていることは、許せることではないだろう。そんなことは分かっている。
次に会った時……レイネは、怒ってくれるだろうか?
○○○
レイネの墓には、分厚く雪が積もっていた。
素手で雪を払いのける。ヒンヤリと冷たい。指先が痺れるけれど、私は丁寧に墓石を綺麗にした。
『レイネ・ハインエル従妃
一九九三~二〇一一』
一目惚れだった。
一目見た瞬間、目がレイネに吸い寄せられていた。
最初は、レイネが美人だから……単にそれだけの理由だと思っていた。
セバスの指示の元、レイネを自分の物にしようと画策している内に、気が付いた。
確かに、レイネは美人だった。
けれども、単にそれだけの理由で惹き付けられたわけではなかった。
私は……レイネの笑顔にやられたのだ。
そもそも、単にレイネの顔に惚れただけだったら、無理やりに私の妻とすれば良かった。
そんなことが頭にも思い浮かばなかったのは……それをしたら、レイネがレイネではなくなってしまうと、無意識の内に気付いていたからなのだろう。
私は、レイネの笑顔が好きだった。一目見ただけで気持ちが明るくなるような、そんな笑顔。
私にとって、レイネの笑顔は一番の宝物だった。レイネは、私にとって一番大切な存在だった。
――そんなことに、最後まで気付けなかった。
「どうだった? セイレーン領では、上手くいったか――」
どこか遠くから、怒号が聞こえてくる。
剣と剣がぶつかる音がする。
空を見ると、分厚い雲が垂れこめていた。
遠くの空は、赤く染まっている。
真っ黒な煙が立ち昇っている。
私のせいで、王都が燃えている。
こうなってほしくはなかったが……こうなることは、もともと覚悟の上だ。
ちらりと、私は振り返った。
レイネの墓石が、私を見ていた。
懐からナイフを取り出す。
それを……聖官殿に突き付ける。
「聖官殿が、余を殺してくれ」
聖官殿は、ジッとナイフを見つめていた。
強張った表情で、私のことを見た。
「……どういう意味ですか?」
「怒り狂う民よりも……聖官殿の方が、優しく殺してくれそうだからな」
「……どうして、陛下が死ななければならないのですか」
私は思わず噴き出した。
あまりにも……あの時の私に似ている。
気付いているのに、認めようとしない。それでは駄目だと分かっているのに、直視できない。
「それは、聖官殿が一番分かっているだろう? 謀反を起こした者は死罪。これは、罷りならぬ。
聖官殿が、自分の大切な者たちを救うためには、謀反に成功してもらわねばならない。謀反が成功するということは……そういうことだろう」
「だから」と言って、私はナイフを差し出した。
聖官殿が一歩後退る。
私は一歩詰めよって、無理やりに聖官殿の手にナイフを握らせた。
聖官殿の手は、氷のように冷たかった。
聖官殿は戸惑ったように視線を行き来させて……最後に、私を見た。
「……最初から、そのつもりだったのですか?」
「なにがだ?」
「陛下は……最初から、誰かに殺してほしかったのですか?」
私は、聖官殿の顔をマジマジと見つめていた。
「殺してほしい……だと、少し違うな。……余は、誰かに罰してほしいのだ」
「……罰してほしい?」
聖官殿の声に、私は頷いた。自分に、改めて言い聞かせようと思った。
「とはいえ、余は国王だ。余を縛る法などは存在しない。余を裁けるのは……聖女様と、民たちだけだ。
聖女様が処罰を下されるか、民が蜂起するか、この二つの方法でしか、余は裁かれることがない」
……我ながら、愚かだと分かっている。
自責の念に耐えられないなら、私一人で死ねばいいのだ。民たちを巻き込む必要は無かった。
けれど、心のどこかで引っ掛かるのだ。
論理では説明できない。
心のどこかが言っていた。
「余には、罪がある。だから、誰かに罰してほしかった。……ただ単に殺される訳ではない。罰してほしかったのだ。
真に正当な者は既にいないが……ならば、せめて次に正当な者の手で以って、罰さらねばならぬ」
「……罪?」
「そう、罪だ」
私の罪。
「……どんな?」
聖官殿の問に、私は背後を振り返っていた。
そこに、レイネの墓がある。
「余は……大切な人を、殺してしまったのだよ」
これが、私の犯した罪。
全てを悟っていながら、私はレイネを見捨ててしまった。
「聖官殿、一つ言っておこう――」
私は、聖官殿の青い瞳を覗き込んだ。
聖官殿に全てを終わらせてほしい、そういう気持ちもある。
だからこそ、ここまで御膳立てをした。聖官殿が、聖女様の任務に背いて、私を殺せるように。
けれど、それ以上に……聖官殿には、間違えてほしくなかった。
聖官殿は、あの時の私だ。
あの時、私は間違えた。
間違えて、一番大切な物を失った。
聖官殿には、そんな選択をしてほしくない。
理不尽なことを言っているのは分かっている。なぜなら、聖官殿の大切な物を奪うのは、私だからだ。
ハインエル王国国王、ヴィルヘルム・ハインエル。
私は一つの個人でもあり、同時に国家その物だ。
私には力がある。
人の大切な物を奪う力だ。
そして、私から大切な物を奪ったのも、その力だった。
事を荒げたくなかった。
政務に影響が出るのが気がかりだった。
シンシア一族全てを敵に回して、レイネを守る覚悟が無かった。
私は、レイネのことが大切だと言っておきながら……ハインエル王国を護るために、レイネのことを見捨てた。
本当に大切な物は何なのか。
そんな当然なことを……失って初めて、私は知った。
けれど、失ってからでは全てが遅いのだ。
私はもう……自分が犯した罪に、耐えることができない。
じっと、待っていると……聖官殿の手のひらから、ナイフが滑り落ちたのが見えた。
雪に、ナイフの切っ先が沈む。
それを見て……私は、白い息を吐いた――
「陛下」
碧色の光が見えた。それは、聖官殿の手に握られていた。
「こちらを使っても、構わないですか?」
聖官殿の右手に、いつかの剣が握られていた。
「……」
碧色の光を目に焼き付けて……私は、雪の上に跪いた。
その時、ふと……分かった気がした。
ようやく終わると、笑えばいいか。
とうとう終わりだと、泣けばいいか。
どっちも……違ったようだ。
「頑張れよ」
世界が回転していた。
黒い空が見えて……。
聖官殿が見えて……。
最後に、レイネが見えた。
やっぱり、レイネは怒っていた。
頬っぺたを膨らまして、私を見ていた。
――頑張れ。
きっと、色々なことがある。
聖官殿には、まだまだ未来がある。
私は、いなくなるけれど……それでも、続いてゆく。
楽しいことばかりじゃない。
辛いことも、悲しいことも、あるはずだ。
それでも。
聖官殿なら、きっと――
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