ソロ・フライト
翌朝、宿舎にリベカの姿はなく、枕元に弁当らしい包みだけが置いてあった。
飛行場の連中に心当たりはないか尋ねてみたが、全員が首を横に振った。
「アイツどこいきやがった……」
街へ探しに出ようと宿舎を飛び出すと、扉のすぐそばに来ていた男と肩がぶつかった。
軍服姿に思わず気を付けをしてしまったが、すぐにそれは不要だと気付いた。
「っと失礼……なんだ、東じゃないか」
「おうマサ、鳥娘はどうした?」
「昨日喧嘩して飛び出していったきり帰ってこねぇ」
俺が昨日の顛末をかいつまんで話すと、東はあきれたように笑った。
「ははは、おしどり夫婦もついに破局か」
「うるせぇ、で。仕事か?」
東は時折いい仕事を持ってくる。機密の度合いが低い文書の輸送だとか、急ぎの人員移動なんかは九九式に乗っていたころからやっていた。
たまに危ない橋を渡らされることはあることを除けば、軍からの依頼は旨い。
「話が早いな。ちょいと急なんだが、ハイラルまで飛べるか?」
「乗った」
俺が頷くと東はにやりと笑った。契約成立だ。
ハルビンの司令部で封のされた包みを受け取り、東の運転で飛行場に戻ると見慣れない機体が航空隊の格納庫から出てきていた。
「メッサーシュミット……じゃあ、ないな」
ジュラルミンむき出しの細身の胴体からこれまた細長い翼が伸び、ぴんと伸びた垂直尾翼にはまだどこの部隊章も描かれていない。
鋭い紡錘形のスピンナーから機首まではなめらかな曲線でつながれ、胴体の下には冷却器が収まっているらしき張り出しがある。
「今試験中のキ六一だ。ドイツから設計図を買ったエンジンがついてる」
「なんだい、どうせ買うならこっちにすりゃよかったな」
見るからに速度が出そうだし、精悍な印象だ。
「なんならこれに乗ってくか?」
「オイオイ、いいのかよ」
「内地からこれに乗って来た片瀬ってやつがぶっ倒れてな、おかげで試験が進みやしねぇんだ。たまには本物の戦闘機に乗りたいだろ?」
「東、そりゃ嫌味か」
一時間後、簡単にキ六一の説明を受けた俺はキ六一に乗って西の空へ飛び立っていた。
ハイラルからの帰路、キ六一は高度四千メートルを快調に飛んでいた。
行く手に遮るものはなく、遥か下の大地に影を落としながら雲がのんきに浮かんでいる。
見上げれば空色と藍色の境界。
聞こえるのはエンジンと風の音、酸素マスクの中に響く自分の息遣いだけ。
帰り道は残り半分といったところか。
それにしても単座機の身軽で気楽なこと。
「ん……」
眼下の雲に黒い染みが見えた。
目を凝らすと、それが十字型をしているのが分かった。
操縦桿を軽く押し、降下させる。
それまで400キロを指していた速度計の針が回り始める。
「一五……いや、一二メートル級か」
十字型の影はいまや芥子粒から豆粒くらいの大きさになり、尾翼のある航空機ではなく長い尾をもつ竜であることも判別できた。
竜はまだこちらに気づいていない。
――はぐれ竜にちょっかいをかけられたので。
もっともらしい言い訳を考えながら、機関銃のスイッチを「発射」に切り替える。
キ六一の機首にはキ四五と同じ照準器、同じ機関銃がついている。おまけに両翼には七・七ミリが一丁ずつ。
パンチ力のある二〇ミリはないが、一二メートル級を相手するには十分だ。
照準の中央にとらえたところで発射ボタンを押した。
何発か龍の背に当たったが、一二・七ミリといえど演習弾とただの曳光弾では効果はいまひとつ。
なら、いつもどおり正攻法で行くのみ。
失速しないよう軽くフラップを開き、振り切ろうと左右に切り返す竜を追い詰める。
竜が火炎溶解液を出すが、炎を受けない距離を取りながら機会を窺っていたこちらには届かない。
――今だ!
全門斉射。
四門の機関銃が賑やかな発射音をたてる。
砕けた表皮が機体にぶつかる硬い音が響く。さすがにこの距離で受けたのは効いたらしく、命中した場所から体液が噴き出し、苦しそうに竜が身悶える。
ぐらり、と竜が傾く。
操縦桿を引き追突しないよう急上昇でかわす。
機体を左に傾けて落ちていく竜を目で追う。
立て直す体力もないのか、半端に翼を広げたまま満州の原野に吸い込まれていった。
「ちぇっ」
小物入れを探った俺は通信筒がないのを思い出し、舌打ちした。
二回分くらいの燃料代にはなったであろう獲物を捨て置くのはもったいないが、仕留めた証拠を残せないのでは仕方ない。
俺は羅針盤を確かめ、南に進路を取り直す。しばらく飛んでいれば浜州線の線路にぶつかるから、あとはそれを目印にして飛べばいい。
「……ん?」
慣れない計器盤に目を走らせていると、水温計が一〇〇度を超えていた。
そこまで乱暴に回したつもりはなかったのだが。
スロットルを巡航より絞り、冷却器扉を大きく開く。
だが水温系は上がり続けている。
――まさか
軽くペダルを踏みながら機体を右旋回させ、恐る恐る背後を振り返る。
キ六一の背後に白煙が伸びていた。
ハルビンまではまだ一〇〇キロ近くある。
エンジン停止に備えて高度を取った。低空で慣れない機体を失速から立て直すのは想像しただけで骨が折れそうだ。
不時着を覚悟し、降りられそうな場所を探しつつ南へ飛ぶことにした。
すでに水温系の針は一三〇度を超えている。
絞っているので、高度は思うように上がらない。
ふいに水温系の針がかくんと下がった。測るべき冷却水がなくなったのだ。
こうなるともはやエンジンの余命はわずかだ。熱のこもるところから焼き付いて--
ぼっ、と音を立ててエンジンが力尽きた。減速でベルトが肩に食い込む。
「ピッチ角は……これか」
プロペラを風に立てると、速度計の減りが穏やかになった。
低速ではあまり舵が効かなかったから、着地の時は速度に余裕を見て降りたほうがよさそうだ。
今の高度は一五〇〇メートル、このあたりは海抜一五〇メートルくらいだから、実際に使える高度は少ない。
線路はまだ見えない。浅いバンク角で機体を旋回させ、なるべく平坦な場所に目星をつける。
高度八〇〇。手動ポンプで油圧を送り、フラップをわずかに開く。脚を下げる。
着陸点はひょうたん型の沼地の南に決めた。
高度五〇〇。主脚の警灯は「上げ」を示す赤のまま。
「頼むぞ……」
ポンプを動かす手はそのままに、左ペダルを軽く踏んで着陸点を確かめる。
高度三五〇メートル。ようやく主脚の警灯が「下げ」の緑に変わる。
左右の主翼からも主脚が降りたことを示す赤ピンが飛び出ている。
高度三〇〇メートル。今や草が風で揺れているのもはっきりと見分けられる。
着地の衝撃でつんのめらないよう、両手で操縦桿を握っていつでも立て直せるよう構えた。
脚の先が草に触れたと思った次の瞬間には、無数の草が機体を叩く音と振動にもみくちゃにされた。
「うー、いてて……」
前後左右に揺さぶられたせいで全身が痛い。
操縦席から這い出して翼に足を下ろす。ほじくり返された土の匂いが立ちこめているが、ガソリンの臭いは感じない。
足掛け伝いに降りて見回すと、キ六一は無残な姿になっていた。
キ六一は腰くらいの背丈の草を三〇〇メートルほどなぎ倒していた。
プロペラがねじ曲がり、左脚は折れかけ、白銀の胴体は泥まみれ。冷却水が漏れてできた水たまりからは湯気が立ちのぼっていた。
「さて、と」
再びキ六一の翼によじ登り、操縦席の小物入れの中身と落下傘を翼の上に下ろす。
手持ちの品は短刀にリボルバーと、予備の弾が1ダース。信号弾と半分くらい残った水筒にリベカが置いていった包み。
応急処置用の薬と包帯、航空地図とそれに挟まっていた白い羽根。
なるべく線路の近くに寄せたつもりではあるが、果たして捜索隊が見つけるのが先か竜の餌になるのが先か。
時計は午後四時を指している。
捜索があるとしてもこの時間では翌朝以降だろう。
今晩はこのキ六一のそばで明かすことになりそうだ。
「よし」
ガソリンは漏れていないから、機体を支えにして落下傘を吊るして雨風も凌げるだろう。
夕日が沈みかける頃には、落下傘で作った天幕と枯れ草を敷き詰めた寝床が出来上がった。
引火して機体と一緒に死んだのではかなわないので、焚火だけは少し離れたところにした。
これで寒さに震える心配はない。
俺はようやくリベカの置いていった包みを開くことにした。
中には握り飯が二つと炙った塩漬け肉、たくあんが収まっていた。
「どっちも具なしかよ……」
ささやかな嫌がらせに毒づきながら、握り飯を頬張った。
空腹のせいか、身に沁みるほど美味かった。
噛むごとに米の甘みが口の中に広がり、肉を囓ると塩気で頭が冴えてきた。
食後の一本を吸おうと朝日の箱を探していると、ふいに吹き抜けた風が焚火を消した。
ポケットを探り、マッチを探す。
半分つぶれたマッチ箱に残っているマッチは残り1本。
折れないように一呼吸おいてから擦ると橙色の明かりが手元を照らした。
再び燃え上がった焚火から枯れ草を一本拾い上げ、吸口を潰した朝日につけた。
いやに苦かった一本を地面に押し付けて消すと、天幕に戻って落下傘にくるまった。
見上げた星は、俺とは正反対に煌めいていた。