線香花火と夜の闇
「昔話を、していい?」
百夏はぽつりと言った。二人で一本ずつ火をつけた線香花火は、互いに四本ずつを数えた。あと二本。その一本を手に取って、随分と短くなった蝋燭の火の上に垂らす。ちろりと火の先が花火を舐めて、小さな球になる。百夏はその小さな光を見つめていた。ちりちりと火花を散らす球の、その奥の奥を覗き込もうとでもするように。
「昔話?」
「そう」
ふう、と吐き出した百夏の溜め息が私の線香花火を揺らして、大きく膨らんでいたそれはじゅっ、と音を立ててアスファルトを焼いた。
「あ、ごめん」
「いいよ。まだある」
最後の一本を抜き出して、蝋燭の上に翳す。火が移ったところで、蝋燭の火を慎重に吹き消した。少しだけ、辺りが暗くなる。
「……最後なんだね」
百夏は言う。夏の夜に溶けて消えてしまいそうな声で。
「そうだね」
私はそれだけを言った。ちりちり。むず痒いような音ばかりが鼓膜をくすぐる。木々の葉が風に揺れてざわめいているのがその向こう側に聞こえた。
「二年前の、あの日のことなんだけど」
インクを一滴垂らしたように、ゆらりと広がった藍色が像を結ぶ。あの日。百夏の家に泊まって目が覚めたとき、隣で眠っていた瑞希の、白薔薇の花びらのような横顔。それを縁取る、緩くウェーブを描いた長い黒髪。朝日を浴びて眠る美しい姫。瑞希はその日、目を覚まさなかった。そしてあの日以降、瑞希は私にも百夏にも、会ってくれない。
「話しても、いい?」
「うん」
ちくり、とどこかが痛くなるのを無視した。
「あの頃、私ね。不眠症だったの」
夜が怖くて、と百夏は付け足した。
「みんなが寝てるってことが、堪らなく怖かったの。私に何かあっても、例えば心臓がおかしくなって、そのままベッドの上で死んじゃったとしても、朝が来るまでは誰も見つけてくれないってこと。どんなに苦しんでも、どんなに辛い思いをしても、朝が来るまでは誰も助けてくれないんだ、って。ずっとずっと不安だった。不安だからますます眠れなくて、そうやって、朝が来ると安心して眠くなるの。通学中も、授業中も、少しでも隙があれば眠ってた。それで一度、体育の授業中に倒れて……それから私、睡眠薬が手放せなかった」
じりじりと、線香花火の光が大きくなっていく。
「でも、粉薬だったの。粉薬を飲むの、凄く苦手で。だから、いつも麦茶に溶かして飲んでた。あの日も、寝る前に麦茶飲んでたでしょ。あれに、入れたの。……入れたはずだったの」
僅かに、怯えるように、百夏の火の玉が揺れた。
「薬を入れたあとで、一回席を立って、トイレに行って。戻ってきて……ちょっとだけ、ちょっとだけ変だなって思った。お茶の量とか位置とか、なんか、少しだけ違和感はあったの。でも、でもね……睡眠薬飲んでるなんて、知られたくなくて、でも……訊けばよかった。瑞希が花粉症の薬飲んでたなんて、知らなくて、だから……っ」
飲み込まれた言葉。百夏の声が震えて、大きく膨れ上がった火の玉が儚く揺れる。
「百夏が睡眠薬を入れた麦茶を、瑞希は飲んだんだね」
ゆっくり、飲み込まれた言葉を呼び起こす。自分の底の方がきゅっと強張って、震える。
「それで、花粉症の薬と合わさって、ああなったんだね」
ぐすん、と百夏が鼻をすする。その振動が、花火に伝わる。
じゅっ、とアスファルトが焼けた。
「うん」
百夏から零れて落ちたのは、言葉だけじゃなかった。
「……そう」
詰めていた息を、私はゆっくりと吐いた。
二年間、ずっと、気にしてきた。ほとんど気が狂いそうな気持ちで、瑞希のことを考えた。でも、瑞希以上に苦しんでいるのは百夏だと私は思ってきた。薄情にも瑞希のことを忘れそうになるくらい、瑞希のことの三倍くらい、百夏のことを、考えてきた。
私が苦しめてきたのは、百夏だと、思っていたから。
「私、が……いけなかったの、私が、あの時……」
ほとり、と火の玉が落ちて。光に慣れた目が、滲みるような暗闇に惑う。
「知ってたよ」
あの日から、百夏に言いたかった言葉。
軽くなってしまった花火の残りをアスファルトに横たえて、私は闇の中を右手でゆっくりと探った。最初に触れたのは百夏の左肘だった。指先で輪郭をたどって、その先の、しっとりと熱を帯びた左手を取った。それはがくがくと小刻みに震えながら、それでも闇の中で、私の手をしっかりと握った。あの日もそうだったな、と思う。目覚めない瑞希を前に百夏は泣きじゃくり、その左手を私は握っていた。前にもこんなことがあったっけと、奇妙な既視感を覚えながら。一部始終を目撃しながらも何も言わなかった自分の、醜さとおぞましさを痛いほど思いながら。
「全部知ってた」
きゅっと、その手を握る。
「だから、あの日瑞希を殺しかけたのは、百夏だけじゃないよ」
「……違うよ」
「違わない」
闇の中、握り合った手のひらの湿った感触だけがはっきりと。百夏の不眠症は治ったのだろうか。でももう、世界中が寝ていたって私は、苦しむ百夏を助けに行ける。
「私たち、二人であの日を葬っていいんだ」
ふつりと、糸の切れたように泣きじゃくる百夏の感触は、奇妙なほどあの日と同じだった。あの日は終わらないのだと、心のどこか隅の方が囁いていた。瑞希は命を取り留めた。百夏も私も生きている。生きている限りあの日は終わらない。何百回とうなされたって、何千回と泣いたって、あの日は終わらない。例え私たちが自分の罪を口にしても。
線香花火が落ちても。




