三段噺引用
三つのワード
・十字路
・ネズミ
・呪い
自前はライトノベルですが、純文学に近くなってしまったような、、、
ここはどこだろうか。
視覚認識から得た情報を自らの物に出来たのは、目を覚ましてからたっぷりと数十秒使った後だった。
鼻を焦がす腐敗した悪臭。
黒の色を混ぜたような霧。
巨人でも住んでいそうな巨大な建築物。
それらの光景は正に異世界と感じるにはふさわしかったかもしれない。
それでも自分の心は酷く落ちついていた。
どれほどの悪臭だろうと嫌悪は感じない。
他人の不安を煽る闇だとしても心は乱れない。
巨大な建物は映画の向こうに感じられる。
一体いつから自分はこんな浮世離れになってしまったのか。
その人間味の無さにさえ、不安を持つことはなかった。
一つ。
たった一つだけ、この虚ろな心に巣食うものがあるとすれば。
ーー自分はどこの誰なんだろうか?
ということだ。
これは何の感情かわからない。
どうやら自分の感情さえ忘れてしまったようだ。
「あれは……小さな池?」
色を失った地面に、曖昧な境界線を作るものを見つけてはなんとなしに行ってみる。
歩くための器官に問題はない。
平行感覚は正常なはずだが、視線が酷く地面に近いのが少しだけ気になった。忘れていた好奇心というやつだろうか?
「こんな所にネズミ……?」
それでも視界は自らの認識した情報をただただ写す。
右目の上に刺された痕があり、酷く淀んだ瞳の色が印象的だった。ヒゲの数は左二本、右一本といった非左右対照で、特に目を疑ったのは腹を横断する太い傷痕が十字に刻まれたことだった。
しかし、不思議と生傷は一つしてなかった。
これが驚愕かと、頭の片隅に思い浮かんだ。それは自分が失っていた感情だという証拠でもある。
自らの冷静さに半分驚愕を感じつつ、話しかけてみる。
「お前はだれだ?」
そこではたと気づいた。
「これは、池に映った自分……俺なのか?」
疑問という感情が芽生える。
おかしい。
いや、何がおかしいのか?
なぜ俺はネズミになっている?
いや、なぜ俺は人間だと思っていたのか?
疑問に疑問をぶつける姿は、覚えたての赤ん坊のように感じられて、なぜかとても不愉快だった。
これが嫌悪。
「っ!」
頭痛が視界を不安定に変える。
現実と記憶が入れ替わり、にやけた人間の口元と右手に持つナイフだけが映った。
「……そうだ、俺は追われて、早く逃げないと!」
いつの間にか腐敗臭を忘れ、四足歩行で逃げる違和感を忘れていた。焦燥という感情を思い出し、苛まれるのは際限なしの恐怖。
淀んだ景色は明確に不安の黒を映し出し、助かりたいという希望を思い浮かべ、それを塗りつぶさんと捻りやってくるものが絶望だと知った。
いくら走っても進んだように感じない意識に、身体は疲労を思い出し、脳は諦念を進言してくる。
ただ、なぜこんなに逃げているのかだけがわからなかった。
「おい、止まれ!」
くぐもった声に身体は反応し、ピクッと動いた自身の耳が酷く敏感に思えた。
闇から出出来たのは自分と同じネズミだ。
「貴様はあまり見ない顔だな? 新人か?」
「……あっ……!」
声が思ったように出ない。
これは恐怖か? 好奇心か? 絶望か? 希望か?
「まあいい。喜べ! ついさっき食糧となる死んだ奴がこの十字路で見つかったんだ! 」
「……死んだ……奴?」
「何をそんなに怯えている? 我々の食糧だぞ?」
これを怯えているというのか?
「死んだ奴を……食糧……にするのか?」
「当たり前だろう? 死ぬ奴が生きる奴の糧になる。誰でもわかる自然の摂理という奴だ。もちろん食べるものがなければ何かを殺すしかない」
「……………………」
死んだ奴、つまりこの腐臭はそれが原因なのだろう。
ついてこいと言わんばかりに歩き出すネズミの背中を追いかける。
だが直ぐにある感情が芽生えた。
「……自分が死にそうになったら……他を殺すのか?」
「当たり前だ」
ぶっきらぼうに答えた背中にその感情は爆発する。
俺は唯一の武器である牙を、前に歩いているネズミの首筋に当てて、一瞬のうちに裂いた。
ネズミは驚愕の瞳と共に絶命する。
「……あは……ははは……はははははは!」
自然と湧き上がる快楽の笑み。
そうだ、この感情は。
「これが正義か!」
現実に色が戻った気がする。
こいつは同族殺しもいとわない獣。
いつか自分だけではなく腹が減るたびに周りを犠牲にしていたに違いない。
それを未然に防いだ自分は正義の執行者かと、自らに洗脳をかけるように言い聞かせるーーが、何かが足りない。
そんな気がした。
「……とりあえずこの先か」
あのネズミが歩く先はこの長い一本道。
先は何一つ見えない。一寸先は闇という表現は正にこのことだろう。
「……その死んだネズミを……弔ってやるか」
足を早める。
既にその時には、全ての疑問は心の奥に沈み込んでいた。
どれくらい進んだのか自分ではわからない。
ただ、ネズミとなった自分では酷く遠いような気がした。
しかし腐臭はだんだんと強くなってきており、これはもうすぐ着くに違いない。
そんな思いを馳せたとき、ピタリと身体が止まった。
不自然なほどに、石のように、金縛りのように、ピタリと。
「なんだ……これ」
見えた景色は地獄。
一人の人間が壁を背にもたれかかっている。
いや、死んでいる。
それに群がる大量の同種。
ある者は目玉を食いちぎり、ある者は腹部を咀嚼し、ある者は骨さえ噛み砕く。
しかし、それは百歩譲ってよい。
なぜならそれは野生にはある当然の光景だからだ。
でも。
「あれは……あの人間は……」
何処かでみた虚ろな目。
右手に持った紅い血を付着させたているナイフ。
首筋にある鋭い刺し傷。
そしてーー
ーー直感がつげた。
「あれは俺か……?」
手足が震えてきた。
これは恐怖だ。
「な、何言って……俺はここに」
でも知りたい。
それが好奇心。
「じゃああのネズミが言ってた死体は……」
ネズミじゃなかった?
焦燥が来る。
「は、はは……」
快楽はもう賞味期限切れのようだ。
ズキリッ!
そんないかにもの音を立ててあの感覚が蘇った。
現実と記憶が入れ替わるそんな感覚に。
殺してやる。
そんな感情を心のうちに隠し、ひたすら拍手を送った。
自らの論文をパクった同期の研究者。
涙を浮かべ喜ぶ、その彼女。
俺を含めた三人は小さい頃から一緒で遊んでいた。
いつか、一緒に世界を変える発明を、発見をしようとよく言い合ったものだ。
そんな子供みたいな夢は現実を前に脆くも崩れていった。
その結果がこの盗作。
「……殺してやる」
再び誓ったこの想いは直ぐに成就することになった。
その好評をはくした論文には一つ致命的なミスがあったのだ。
精神置換と呼んでいた俺の技術は精神置換を行なった後、確実に一人が死んでしまうということだった。
初めて試した友人とその彼女は、彼女が男の身体で死に、男は女の身体で一生を過ごすことを余儀なくされたのだ。
「元に戻せよ! お前の研究のせいで! 俺は! あいつは!」
「あの世で勝手に戻ってろよ」
そんなことを言ってナイフを刺したのをはっきり覚えている。
人を殺す感覚に俺は、何か失ったものを求めてこの薄暗い闇の中に紛れた。
その時には既に壊れていたのだろう。
覚えているのはそこまでだった。
あと一つ覚えていることは、研究に使っていたマウスを解き放っていたことだ。
「ああ……そうか」
俺は死んでいたのか。
それも自殺で。
この虚ろな目も、忘れた色々な感情も、現実味のない景色も。
全部が偽物だ。
周りを異物に感じたのは、自らが異物だからにすぎない。
これはきっと散々、実験に使ってしまったネズミの呪いなんだろう。
「なら……俺はこの世界の異物だな」
だからさっき取り戻した正義で。
自らの腹を裂いた。
この傷は、数々行なった実験の痕だと気づくがもうどうでもいい。
薄れていく意識の中。
「ああ、死にたくなかった」
懺悔が生まれ。
「ああ、殺したくなかった」
後悔が生まれ。
「ああ、純粋な子供の頃に戻りたかった」
望みが生まれ。
それでも。
「こんな俺が幸せになれるわけがなかった」
幸せを感じ、思い出すことは終ぞ無かった。
そこで俺の意識は泥沼にしずんだ。
一体どこで、俺は人生の十字路をまちがえたのだろう?
そんな後悔を残して。