第三章 一つの再会、一つの決別 End
昼食を一緒に食べた後、オルカは一人真昼間の大通りを歩いていた。
カシューとは昼食を完食してからすぐに別れた。もう少し積もる話もあったのだが、カシューにも仕事があるため名残惜しいながらも送り出した。
まだまだ日が高く、活気づいた大通りの雑踏の中に紛れた自分の足。
その足は宿屋「妖精の方舟」へと進んでいた。
要件も済んだし、このまま観光を楽しもうかなとも思ったが、街は想像以上に人で溢れかえっていたため、田舎暮らしの長かったオルカは立っているだけでも立ちくらみを起こしそうだった。
確かに大金は得たが、だからといって豪遊する気にもなれなかった。オルカはあまり裕福とはいえない生活をしてきたため、お金に対して慎重なところがあった。
なので、消去法的に宿屋へ足が進むこととなったのだ。
視界の横を流れる風景には目もくれず、ただただ前の景色を呆然と見つめて歩き続ける。
やがて、目的の大きく立派な建物が見えた。宿屋だ。
それを視界に認めた瞬間、オルカはだらんと全身を弛緩させた。
一旦、自宅のベッドとは比べ物にならないほど寝心地の良いあのベッドで一休みし、それからやる事を考えよう。
そう思い足早に進んでいると、広い入口ゲートから見覚えのある面子を発見し、慌てて寝ぼけ眼を見開いた。
セザン、パルカロ、シスカ、そしてマキーナ。今回の未踏査迷宮調査のトップパーティの一角だった。
向こうもこちらに気づいたようで、
「あーー! オル君見ーつけた!」
マキーナはせわしなくこちらへ駆け寄って来た。
「あ……こんにちは」
「こんにちはーオル君! ねぇねぇ、これからごはん食べに行くんだけど、オル君も一緒にどう? お姉ちゃん奢っちゃうぞ?」
「えっと、ごめんなさい。ボク、さっき食べてきたばっかりで……」
「そっかぁ……じゃあさじゃあさ! ご飯食べた後、この辺にある迷宮に潜ってみる予定なんだけど、それに付いて来て欲しいなー。お姉ちゃんだけじゃ心細いのっ」
「……それもさっきやって、お昼前にアルネタイト換金してもらいました」
そもそも、ゴールドクラスの猛者に「心細い」なんて台詞を言われても、あまりに嘘くさい。
「えーーそんなーー! せっかくのお休みなんだよーー!? ヤダヤダヤダそんなのつーまーんーなーいーー!!」
マキーナは両腕を上下に振り、バタバタと足踏みしながら喚き散らす。いけない。昨日と同じ子供モードだ。
オルカがどうしたものかと困惑していると、
「お、お姉様、落ち着いてください。周りの人が痛々しそうにこっち見てますわ」
シスカが慌てて駆け寄り、そうマキーナを落ち着けに入る。
彼女の言うとおり、道行く人が皆例外なく奇異の視線をこちらへ送っていた。
流石に居心地が悪くなったのか、マキーナは駄々をこねるのをやめて、シュンと消沈する。
シスカは口元に微笑を作ると、こちらへ機嫌の良い軽い足取りで寄ってきて、
「やっほ、さっきぶりねオルカ。あんたのエフェクターの調子はどうだった?」
「バッチリだったよ。ありがとう、シスカ」
「い、いいわよ別に。お礼なんだし。それより、あの発情兄貴はどうしたの?」
「は、発情兄貴って…………えっと、迷宮で拾ったサーモスタット持って、工房に戻ったよ」
「ふーん。オルカ、聞きたいんだけど、別にあいつって未踏査迷宮調査の参加者じゃなかったわよね?」
「うん。どうして?」
「あんまりお姉様に会わせたくないのよ。あんなにお美しいお姉様よ? あの男がそんな方を見たら、ナンパなんていう過程すらすっ飛ばして腰振ってくるかもしれないじゃない」
「い、いや、流石にそんな野獣じゃないよ」
そんな風に何気なく二人で話していると、「うぅ~~~~……」という恨みがましい唸り声が聞こえてきた。
「…………二人とも、随分仲良くなったのね」
見ると、マキーナが風船のように頬を膨らませていた。
オルカとシスカを同時に映す漆黒の双眸は半分閉じられており、いかにも「機嫌悪いです」といった目つきだ。
「お、お姉様? どうしたんですか?」
シスカがやや狼狽しながら訊いた。
するとマキーナはじとーっとシスカを半眼で見つめながら、
「だって二人とも、すごく仲良さげに話しちゃってるんだもん」
「ち、違いますお姉様! 仲良くありません! 普通です普通!」
「オル君が敬語やめてタメ口だしっ」
「うっ」
シスカがたじろぐ。
「その上、「オルカ」「シスカ」って気軽に名前で呼び合ってるしっ」
「う」
今度はオルカが。
「そりゃ、仲良くなるのはいいことなのかもだけど、心の距離がちょっと縮まり過ぎなんじゃないのっ?」
「こっ、心の距離ぃ!? そっ……そんな卑猥な距離、縮めたことありませんっ!」
「だって気づいてるシスカっ? あなた今、オル君とすっごく近距離よ?」
「……へっ?」
シスカは目を点にさせたと思ったら、すぐさま自分との距離を確かめる。オルカもそれに倣って二人の顔の間隔を測った。
ちょうど二十センチか、あるいはそれ未満という、マキーナの言うとおりとても近い距離だった。
駄々っ子マキーナに気を取られていたためあまり関心がいかなかったのだろう。なるほど、どうりでいい匂いがしたわけだ。
「――っっ!!」
刹那、シスカは顔を真っ赤にしてものすごい勢いで後退。そして自分の両肩を庇うように掻き抱いた。
そこまで露骨に嫌がらなくてもいいのに……オルカは軽く傷ついた。
「ううううううっ。シスカばっかりオル君と一緒でずーるーいー! お姉ちゃんにも構ってよぉーー!」
腕を小躍りさせながら、再びマキーナが我が儘を言い始めた。
ダメだ、これではまた同じパターンに逆戻り。
道行く人も再び白い目を向け、自分たちをあからさまに遠ざけて歩いていた。
始末に負えず、どこかへ逃げたいと思ったその時だった。
「それじゃあマキーナ、今夜俺たちのやる行事に、彼も参加させようぜぇ?」
助け舟が来てくれた。
自分以外の男の声――パルカロだった。
いつも、最後にはこの人が手を貸してくれるんだよなぁ。
「行事って……飲み会のこと?」
「そうさシスカ。俺たちは今夜アンディーラのある店で、パーティメンバーで飲み会をする事にになっている。オルカ君もその中に加えようって話さ。そうすりゃ、マキーナと彼は望み通り一緒に過ごせるだろ?」
「でも、この国で飲酒が許されるのは十八からよ? 未成年のオルカが行っても飯食うくらいしかやることなくないかしら?」
「シスカだって十六なんだから同じ話だろぉ? 今ここで重要なのは、この最強のお姫様の機嫌を取ることなんじゃないかい? どうだオルカ君、一緒にやらないか?」
「み、皆さんがいいならボクは大丈夫ですけど……」
それを聞いた瞬間、マキーナはものすごい勢いで立ち直り、ハキハキとした口調で告げた。
「じゃあ、今日の夕方、お姉ちゃんたちと飲み会に来なさいっ。そうしたら許してあげます。待ち合わせ場所はここ。いいオル君!?」
何を許す許さないなのかがよく分からないが、それで彼女が収まるのなら悪い話ではない。
それに、どうせこれからの予定は考えていなかったのだ。ありがたく参加させていただこう。
オルカは頷いた。
◇◇◇◇◇◇
そして、あっという間にその時は訪れた。
広い空間の角の一つを囲う形で仕切られたカウンターの前方には、いくつものテーブルと椅子が扇状に広がるように並んでいる。
飲み食いに来た客、トレイを持った店員問わず、多くの人々がそれらのテーブルの間を縫うように往来していた。特に店員の移動頻度が激しく、それなりの人数がいるが客の数もまた多いため一人も手を抜けない感じだった。お尻を触られた報復として男性客に見事な回し蹴りを食らわせている女従業員もいたが、それはあえて無視。
マキーナのパーティにオルカを加えた合計五人も、それらのテーブルの一つを陣取って座っていた。
約束通りの時間と待ち合わせ場所でマキーナのパーティと合流したオルカは、その後について行く感じでこの店へとやってきた。
入るやいなやマキーナが一言二言告げると、店員はすんなりとこの席へ案内してくれた。この店は席が埋まりやすいため、あらかじめ予約しておいたらしい。
支払いはパーティ四人の割り勘であったため、オルカもそれに加わることにした。四人には別にいいと言われたが、タダ飯を食らうのも気が引けたためゴリ押しでそう決めてもらった。
てきぱきと注文し、しばらくするとあっという間に色とりどりの大皿の料理が並べられた。それぞれの小皿に取って食べる形式だった。
そして料理がひとしきり並んだ後、マキーナは緊張の面持ちで店員に追加の注文をした。
それを待っている間、オルカを含めた四人は料理を口にして舌鼓を打っていたが、マキーナだけは一口もせず、そわそわしたまま椅子に座していた。
やがて、歩み寄ってきた店員が、トレイに乗った「ソレ」をマキーナの目の前に優しく置き、去っていく。
それは、大きなグラス。
中には、赤紫色の液体がなみなみと入っていた。
酸味を持った果実のような甘い香りと、鼻につく薬臭さ。それら二つが入り混じったように鼻腔をくすぐる。
お酒だった。
マキーナはそれを前にして、ワクワクするように震えながら微笑みを浮かべていた。
「わ、私、マキーナ・クラムデリアは、ここに来る数週間前に、めでたく十八歳となりました」
そんな顔のまま、たどたどしくそう言い始める。
他の四人は固唾を呑んで、彼女の言葉に耳を傾けていた。
ちなみにオルカの席位置はマキーナの隣だった。テーブルに来るやいなや「オル君はこっちっ」と、無理矢理隣に引きずり込んできたのだ。
「ひ、昼間にもシスカが言っていましたが、この国では、十八歳からお酒が飲めるのです。つ、つまり私は、もうへべれけしても許される歳になったのです」
いつもの彼女らしからぬ、えらくあがった口調と態度だった。
だが彼女は一度キュッと目を食いしばると、腹を括ったように一気に開眼。
「私――今日、お酒デビューです!」
パーティ三人はどっと盛り上がった。あの寡黙なセザンでさえ拍手で貢献している。意外とノリのいい人なのかもしれない。
って、そうじゃなくて。
「あの、これってどういうことで……?」
オルカがおずおずとながらマキーナに尋ねると、
「分かるでしょ? お姉ちゃんは今日、初めてお酒を飲むの」
「そうなんですか?」
「そうなのっ。だから今、すごく緊張しちゃってますっ」
そう言って、マキーナはもじもじしてみせる。
「前は酔った後に路上で目を覚ます人を見て抵抗を感じてたらしいんだけどさ、俺たちがいつも美味そうに飲んでるとこ見て、やっぱり少し羨ましくなってきたそうだぜ。それで、久しぶりに幼馴染とも会えていい機会だからって感じで、今日決めたんだよ」
パルカロがやれやれとばかりに苦笑しながら言った。
「見ててねオル君。お姉ちゃんがオトナの女になる瞬間を」
「は、はぁ……」
とりあえず同意するオルカ。
マキーナは再度グラスに入った酒を覗き込む。
ゴクリ、と唾を飲む音。
しばらく沈黙していたが、やがて意を決して取っ手を掴み――喉に流し込んだ。
おおっ、と四人。
マキーナは口を付けたままグラスを傾け、幾度か喉を鳴らしてから飲むのを止める。
「あら……? ちょっと薬っぽくて刺激が強いけど、いけるかも……」
それが最初の感想だった。
それからも順調な速度でグラスの中身を収めていき、あっという間に空にした。
「ふう……思ったより美味しかったわね。もっと苦辛いのを覚悟したけど、意外とジュースみたいでぐいぐいいけるわ」
割と気に入った様子。
だが心なしか、彼女の顔は少し赤い。目もどこかとろんとしている。
「店員さん、おかわりいいですかー?」
ぽわぽわっとした様子で、通りがかった店員に追加注文するマキーナ。
――そこから先が、惨劇の始まりだった。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
マキーナは片手で腹をパンパン叩きながら、けたたましい哄笑を発した。
そして、もう片方の手に持ったグラスの酒をかっ食らう。
驚くべき速度で飲み干した後、空の器をドンッ、とテーブルに置き、酒の入った方のグラスを新しく掴み出して口に運ぶ。
オルカたち四人は、そんなマキーナの様子を茫然自失で見つめていた。
テーブルにはすでに、おびただしい数の空グラスが無秩序に置かれている。
酒が思った以上に気に入ったらしいマキーナは、あれから何度も追加注文した。
空のグラスの数が増えるたびに彼女の様子もおかしくなっていき、やがて今のような酔い様に至る。
再び空にしたグラスの底をテーブルに叩きつけ、マキーナはオルカにややろれつの回らない口調で言い放った。
「ふぅんだっ。オル君ってば、すっかりシスカにデレデレしちゃってっ……お姉ちゃんというものがありながら……――げえぇぇっ」
「うわ! お酒臭っ!」
マキーナの酒臭いゲップをモロに浴びたオルカは思わずむせ返る。
「くさい!? ひどーい! それ女の子にとって最悪の罵倒だよぉ!? お姉ちゃんのどこがくさいのよぉ! 言ってごらん!? この場で直してあげるからぁ! さあさあさあ!!」
「ごめんなさい嘘です臭くありませんだから詰め寄るのはやめてください!」
至近距離で彼女の顔を見て、オルカは異常に鼓動が早まっていた。
――あれ?
なんで自分は、こんなにドキドキしてるんだろう?
昼間にシスカが近いと思った時には、それほど焦らなかったのに。
だが、そんな風に思案にふけっている場合ではなかった。
「ちょっ!? なっ、なにしてるんですかぁ!?」
オルカはさらに頬を紅潮させて後ずさった。
唇を大胆に突き出したマキーナの顔が、すぐそばまで近づいて来ていたのだ。
「何って、チューよ、チュー。さ、オル君も口、出して。マウストゥマウスよ」
「いやいやいやいやいやいや!! 待って!! 待って!!」
脈絡というものが欠如している。酔いすぎだよこの人。
危機感と僅かな幸福感が同時にせり上がって来て、逃げ出したくなるオルカだが、
「お姉様! 場を弁えてくださいっ!!」
マキーナの席の後ろへ来たシスカが、彼女を後ろへ引き寄せてくれた。
「なぁんで邪魔するのよシスカぁ!? 愛情表現にブチュッと一発やろうとしただけでしょぉ!? べつにえっちなことじゃないじゃなぁい!!」
「そういう問題じゃありません!! 場所を選んでくださいと言ってるんですっ!!」
「いいじゃない別にーー! 逆に周りに見せつけてやるわよぉ!」
「ダメですったらーーーー!」
しばらくそんなやり取りが続いた後、マキーナは力任せにシスカの掴む手を振りほどき、
「だぁーーもうムカついた! てぇーーんいぃーーんさぁーーん! 酒もう三杯追加!! マキーナ・クラムデリア、気合入れて、行っきまーーす!!」
少し離れた所にいる店員に、無駄に声高に呼びかけた。
「お、お姉様、もう控えた方が……」
「さーーーーけ!! さーーーーけ!! さーーーーけ!! さーーーーけ!!」
リズミカルにテーブルを叩いてはやし立てるマキーナ。
「か、畏まりました……」
店員は若干引いた様子で承った。
それから少ししてから、オーダー通りに酒の入ったグラス三つが運ばれてきた。
マキーナはその一つを乱暴に掴み出し、ガボガボと豪快に飲み干してから、
「っっカァァーーーーッ!! この一杯のために人間やってた気分だわぁぁーーっ!! 人間、サイコーーっ!! あっはははははは―――げぇえぇぇぇっ」
グラスを振り上げバカ笑いし、最後にデカいゲップ一発。
周囲の客からは、すっかり白い目を向けられている。
とてもいたたまれなかった。
「まさかお姉様が、こんなに酒癖悪かったなんて……」
「まるでオッサンだ。見初めた貴族の男たちが見たら、一発で幻滅しそうな姿だねぇ……」
「同意、する」
それが、パーティの皆様の感想だった。
「パルカロ、これからはお姉様に酒飲ますの禁止ね?」
「オーライ」
おまけに、パーティ間で新しいルールが制定された。
「あっはははははははは、ははははは……は…………」
だが不意に、マキーナの笑いが収まっていった。
見ると、彼女の表情からは酒で高まった活気が徐々に消えていっている。
目をみるみるうちに細めていき、やがて完全に閉じられると、マキーナの体はまるで支えを失ったようにオルカの方へ横倒しになってきた。
「わっ」
突然の事態に驚くも、なんとか腕の中にキャッチするオルカ。彼女の匂いが酒の匂いと混じって舞い込んできて、ドキリとした。
彼女の顔と接触する胸の表面が、なんだか暖かい。
「すう…………すう…………」
目を向けると、マキーナは安らかそうに双眸を閉じ、小さな寝息を立てていた。
「寝てるわね……」
シスカが自分の胸の中で眠っているマキーナを覗き込んでくる。
その寝顔は、普段の凛々しいものとも、迷宮でゴーレム相手に奮迅している時の勇ましいものとも、オルカを相手にしている時のような興奮気味なものとも、いずれも合致しなかった。
まるで周りに自分を害そうとするものが何もないことに安心しきった、揺り篭に眠る幼子のような表情。
それを見て、パーティメンバー三人の表情が優しいものとなる。
オルカもまた微笑ましさを感じ、ついその頭をそっと撫でてしまった。絹糸のように細やかで纏まりのある黒髪が、サラサラと手からこぼれ落ちる。
「ちょ、ちょっとあんた!? なに触ってんのよ!?」
シスカが怒ったような、焦ったような表情で詰め寄ってくる。
「あ、いや、違うんです。これはその、間違いで……」
「何をどう間違えて、頭撫でるなんて選択肢選んだのよっ?」
「いや、それは……」
答えに困っていると、助け舟を出してくれた人が一人。
「まあそう詰問するなよシスカ。彼が困ってるじゃないか」
パルカロがいつもの軽い口調で割って入ってくれた。
昼間も思った。困っている時、助けてくれるのは決まってこの人だと。
だが次の瞬間、彼は思いもよらない提案をしてきた。
「さてオルカ君、突然だがこれから君に重要なミッションを課そう――マキーナを部屋まで運んでやりたまえ」
「ええええ!?」
シスカが声を張り上げた。
「ちょっとパルカロ、あんた何言ってんの!? 男のこいつにそんなこと頼むわけには――ムグッ」
追い討ちとばかりに言葉を発する前に、パルカロはシスカの口を塞いでから羽交い締めにする。
ジタバタと暴れるシスカを涼しい顔で御しながら、彼は続けた。
「マキーナをこんな椅子しかない、おまけにやかましい場所で寝かせておくのはかわいそうだろぉ? それに風邪ひくかもしれない。そうなったら次の迷宮探索に支障が出かねない。なんだかんだでゴールドクラスであるこの娘の戦力幅はデカいからね。だから君が部屋まで送ってちゃんとしたベッドに寝かせてやるんだ」
言葉だけ聞けば彼女への気遣いに感じるだろうが、それを口に出す彼の表情には悪戯心が見え隠れしていた。
「いや、でも鍵がないからこの人の個室には入れませんよ。ボクの部屋に寝かせるわけにもいきませんし……」
「大丈夫だ。夕方宿を出る前にたまたま見たんだが、彼女、自室の鍵を上着の左ポケットに入れてたぜ。見てみな?」
言われるがまま、一度内心謝ってからマキーナの左ポケットに恐る恐る手を入れると「チャリッ」と金物に触れる感触。取り出すと、それは本当に鍵だった。
「だろ? だから君がおんぶでもお姫様抱っこでもなんでもして、マキーナを送ってやるんだよ」
「でも……なんでボクが……」
「ダメかい?」
「いや、別にダメってわけじゃ……」
「なら頼むよ。俺もセザンもシスカも、これからまだ用事があるんだから、さ?」
パルカロはそう茶目っ気たっぷりにウインクしてくる。
オルカはしばし考えるが、やがて諦めたように、
「……分かりました」
そう呟くように吐き出した。
「あ、それと」と付け足すように発したパルカロの方を再度向き、続きに耳を傾ける。
「行動を起こしていいのは唇までだぜぇ? それ以上は流石に彼女の同意を得ないと御法度だ。目を覚ましたら初めてを失ってました、なんてことにはならないようになー?」
「なっ、なりませんっ!!」
オルカは真っ赤になってかぶりを振った。
割り勘の払い分をテーブルに置いたオルカは、マキーナをおんぶして店を出た。
自分よりも長身であるにもかかわらず、その体は驚くほど軽かった。
背負うためには仕方ないとはいえ、両手に持っている彼女の太ももの感触が……やけに気になった。
「いけないいけない……兄さんじゃないんだから」
オルカは邪念を振り払い、夜の街を歩くことに集中する。
夜の帳の下りた街路の周囲には、街灯や建物の窓から溢れる灯りが蛍のように明るく浮かんでいる。
日中ほどではないにしろ、それなりに人の往来、営みがあった。
通り過ぎた人たちが、すれ違いざまに自分を見てクスクスと笑う。
場違いにすやすやと眠る女性と、それを背負って歩く少年。この図は世間一般的にはどう映るのだろう。少なくともロマンチックな関係には見えないと思うが。
そんな考えを浮かべながら、夕方に来た道を戻る形で歩き続けた。
やがて「妖精の方舟」に到着する。
入口ゲートをくぐって館内へと入り、階段をいくつか登って、彼女の鍵に刻まれたのと同じ番号の部屋へとたどり着く。
女性の部屋に足を踏み入れる事にためらいを抱きながらも、マキーナを寝かせるためだから仕方ないと腹を括り、鍵を使って室内に踏み込んだ。
まるでいけないことをしているような足取りで恐る恐る歩きながら部屋を見回す。開け放たれたスーツケースの中からはみ出た下着類には極力視線を向けないよう自戒しつつ、ベッドを見つけた。
オルカはベッドの傍らで背を向け、おんぶしていたマキーナを下ろしてから、ゆっくりと仰向けに横たえさせた。
「すう…………すう…………」
マキーナはゆっくりと規則正しい寝息を立てている。周囲の様子など構わず、安心したように体を広げながら。
オルカは思わず笑みをこぼす。それだけで、つい先程まで抱いていた不埒な感情は水に溶けるように消え去った。
彼女の足元に位置する毛布をゆっくりとその体に被せてから、
「――おやすみ」
そう小さく一言を添え、踵を返した。
――ギュッ。
歩こうとした瞬間、突然後ろから袖を掴まれる。
「え……」
首を後ろへ巡らせる。
マキーナが毛布から手を伸ばし、自分の服の袖を指で摘んでいた。
起きていたのか――一瞬そう考えたが、彼女は未だに目を閉じて深く寝入っていた。
「オル君つーかまーえた……次、オル君が鬼だからねー……」
そんなマキーナの口から、不意にそんな言葉がこぼれる。
「なんだ、寝言か……」
オルカはついおかしくなり、クスリと相好を崩す。おそらく、自分と鬼ごっこをしている夢でも見ているのだろう。
「えへへ…………オル君……もう離さないよ……」
離さなかったらもう鬼ごっこなんてできないんじゃないだろうか。
だんだん寝言を言う彼女を見るのが楽しくなってきた。
もう少しだけここにいて、様子を見ていようかな。
そんな考えが頭をよぎった――時だった。
「好き……オル君…………」
マキーナのその寝言を聞いた瞬間、今まで安定していた心音が突然最高潮に跳ね上がった。
今…………なんて。
「好き……大好き…………オル君……お姉ちゃんの傍にいて……」
その言葉を裏付けるかのように、オルカの袖を引く力を少し強くしてきた。
寝言であるとは分かっている。だが鼓動が早まったままそのペースを落ち着けようとしてくれない。
別に気温は高くないのに、まるで真夏を過ごしているかのように顔が熱い。
そんなバカな。
冗談だよね?
そんなこと、あるわけが。
――いや。
悪あがきだ。
嘘をつくのはやめよう。
本当は、気づいていた。
彼女の気持ちに――自分を慕ってくれている気持ちに。
自分に自信のない自分でも、それが自惚れではないとハッキリ言えるほどにまで、彼女の気持ちに気づいていた。
ただ、心の中で気づかないフリをしていた。自分にセイフティをかけていた。
彼女の気持ちに気づいたら、自分の中に秘めていた感情も連鎖的に開放されてしまう。
自分が秘め、抑えていた感情。
彼女に好意を向けられて、それを天にも昇るほど嬉しいと思ってしまう感情。
自分も――彼女のことが好きなのだという気持ち。
片鱗はあった。
今まで彼女に笑いかけられたり、手を握られたり、接近してきた時に、決まって顔が熱くなり、鼓動が早まった。
そんな熱病のような症状に付随して感じた、恥ずかしく、それでいて嫌ではないという感情。
そうだ。
ボクは、この人が――この娘のことが好きなんだ。
どんなに抑えようとしても、三つ子の魂百まで。幼い頃に彼女に心酔し、ほのかに抱いていた想いは、そう簡単に消せ、封印できるものではなかった。
――嬉しい。
自分の気持ちを引き出した途端、彼女の好意を素直にそう感じることができた。
伝えたい。自分も好きだって、大好きだって言いたい。顔がほころんでいるのを自覚できた。
明日じゃ待ちきれない。この娘には悪いけど、今起こして伝えたい。
そして、応えてもらうんだ。
そして、彼女といろんなことがしたい。
手を繋ぎたい。腕を組みたい。抱き合いたい。口づけをしたい。そして、もっと深い繋がりを持ちたい――堰を切ったように甘ったるい希望や妄想があふれてくる。
眠りの邪魔をしてしまうかもしれないけど、今だけは許して欲しい。そう思い、彼女を起こすべく、その頬へ手を伸ばそうとした。
――――近寄って来んじゃねぇよ、機械女!
とある追憶が脳裏を過ぎた瞬間、再び鼓動が急激に上昇した。
文字だけで言えば、「好き」という彼女の寝言に対する反応と同じだ。
だが今回のソレに付属して感じた心地は、先ほどまでのような甘酸っぱいものではなかった。
悪寒だった。
自分の伸ばした手は、彼女の頬へ到達する前にピタリと停止していた。
その手の表面は、気持ちの悪い汗でじっとりと湿っている。
オルカは自問した。
自分は今――何を考えていた?
彼女の想いに答えたい?
彼女と結ばれたい?
手を繋ぎたい? 腕を組みたい? 抱き合いたい? 口づけをしたい? あまつさえ、もっと深い繋がりを持ちたいだと?
――――甘ったれるな。耽溺するな。
そのヘチマのようにスカスカな頭を少しでも有効活用して思い出せ。
自分が昔、この娘に何をやったのかを。
どんな毒をばら撒き、どんな醜態を晒したのかを。
「あんな真似」をしておいて、あの娘の気持ちに応えたい? 厚顔無恥にも程がある。
ここに来て以来、気が緩んでいた。
自分はほだされていたんだ。この娘と、彼らの放つ、優しい空気に。
ほだされ過ぎて、罪の意識を忘却しかけていた。
完全にぬるま湯の中に浸かっていた。
――これではダメだ。
もう「あんな真似」を二度と繰り返さないために。
自分を甘やかし、許さないために。
ぬるま湯からは、上がらなければならない。
強くならなければならない。
「んんっ……オル君……」
マキーナは今なお眠り続け、夢の中にいるであろう自分に向けて微笑みを浮かべている。
彼女の伸ばした手は未だに離されていない。むしろさっきよりも強く自分の袖を掴んでいた。
それを見て、オルカの胸が痛む。
だが、断腸の思いで。
その手を振りほどき、部屋を後にした。
オルカはその一日で一つの再会を果たし、そして一つの決別を味わったのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
第三章も終わりです。
ゆっくりながらラストエピソードに近づいております。