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LUNASEA同タイトル小説

BRANCH ROAD

作者: 皐月 沙羅

 男は走っていた。雨の中を走っていた。早く「そこ」に辿り着きたくて走っていた。辺りは闇に包まれ、男の足音だけが響いていた。しかし、そんな音など男の耳には届いていなかった。風や生き物が立てる音も何もかもが届いていなかった。うっそうと茂る木々たちが、何事かとざわめいていることにも気付くことはなかった。

 空が白み始めてきたのを認め、男はようやく走るスピードを徐々に緩めていった。木々の葉の間から、淡い光が地面へと届く。いつの間にか、雨も闇と共に去って行ったようだった。少し先には、きらきらと光るものがあった。泉だった。そこへ行けば願いが叶えられるのだと教えられ、男はやって来たのだった。

 泉は、少し歩けば辿り着ける場所にあるように見えた。ただ、木々が生い茂っているせいで、泉への道をはっきりと確認することは出来なかった。

 男の目の前には分かれ道があった。それは左右に分かれていた。どちらか一方が泉へと続く道なのか、二本とも泉へと行ける道なのか、男にはわからなかった。

目を閉じると、シルクハットをかぶった紳士が現れた。紳士はステッキをくるりと得意げにまわすと、ステッキの先を、ある方向にぴたりと向けた。

男は目を開けた。紳士が指した方向は、左の道だった。男は紳士に従って、左の道を進んで行った。途中、木の根につまずき、「あっ」と声をあげたはずだった。

その男の声が、空気を震わせることはなかった。

男は声を失った。

男はそのことを特に気にもかけなかった。人と言葉を交わしたことなど、もうずいぶん昔のことだったし、独り言なら心の中で言えばいいと思ったからだった。

 道を進んでも、泉が近づいて見えることはなかった。泉は慎重に男との距離を保っているかのようだった。男は足を速めて進んで行った。

 また分かれ道が現れた。今度は上と下に分かれていた。

男は先ほどと同じように目を閉じた。今度はウサギが現れた。ウサギは2本足で立って、男の方を振り返っていた。かと思うと、下の道へと跳ねて消えて行った。

男は目を開けると、ウサギに従い、下の道を進んで行った。顔がこわばっている感じがあった。

男は表情を失った。

男はそのことも特に気にはしなかった。怒ることもなかったし、笑い方だってもうずいぶん前に忘れていたからだ。

 泉は相変わらず、男と一定の距離を保っていた。男はずんずんと歩いて行く。男の足取りには、少しの焦りがにじんでいた。

少し行くと、また分かれ道が現れた。分かれ道の先には、光と闇があった。

男は目を閉じた。黒いマントで体を覆い、大きな鎌を持った大男が現れた。大男は鎌をブンと振ると、暗闇の中に消えて行った。

男は目を開けた。その分かれ道の先は、闇だった。男は迷わずその闇の中へ進んで行った。何も怖くはなかった。

男は恐怖を失っていた。

目の前には泉へと続く一本道が現れていた。男は心の中で、安堵の表情を浮かべた。その道は泉の中まで続いていた。泉に入る手前で、また小さな分かれ道が出来ていた。その道は平行していて、どちらを通っても変わらないように見えた。

これで願いが叶うのだ、と男は思った。あとは水の中に沈んで行けばいいだけだった。

しかし、男は目を閉じることをしなかった。片方を選べば心が失われてしまうのだとわかっていた。

まず声を失い、表情を失い、恐怖を失い、最後に心を失う。それは、彼が思い描いた死への道のりだったからだ。死を願ってここまで来たはずなのに、何かが男を引き止めていた。もはや恐怖さえ、彼を引き止めることは出来ないはずなのに。

 それは、泉のそばにひっそりと佇んでいた。男の視界の中に、くっきりと浮かび上がっていた。男を引き止めていたものは、ひとひらの花びらだった。紅く、紅く、血にまみれたかのよう花びらだった。

男はそれを愛しく思った。とても愛しく。まだ自分にも愛しく思えるものがあることに、男は驚いた。この愛しい気持ちを失うことを考えると、恐怖さえも呼び戻せてしまう気がした。

 男はそっと花びらを拾い上げると、泉を背にして歩き出した。



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