7
模試の結果が返ってきた。
不思議なことに、前回よりも少しだけいい結果だったりして。
ほたるは、久しぶりに沢木さんの家の前を通り過ぎて、まっすぐ自分の家へと帰った。
玄関には明かりがついていなかった。
リビングにはひんやりとした空気が漂っている。
キッチンの冷蔵庫に掛けてあるホワイトボードに、PTAの集まりに行ってきます、という節子からの伝言を見つけた。帰宅予定は八時過ぎ。
テーブルの上に、ミートソースのスパゲッティとサラダが、ほたるの夕ご飯として乗せられていた。
電子レンジで温め直して、ほたるは一人きりの食卓に着いた。
いただきます、と手を合わせる。
節子の作るものをまずいと思ったことはない。
なのに、今日はなんだか味気ないような、物足りないような気がする。
ほたるはケチャップを大量にかけて、のどの奥に流しこむようにしてスパゲッティを食べた。
ごちそうさま、と箸を置く。
贅沢になってしまったのかもしれない、と思った。
今夜のように、母親がいないことはよくあることで特別なことではない。
父親がいないのは当たり前のことだった。彼が帰宅するのはほたるがお風呂を済ませて、自分の部屋に戻っている頃だ。
これはほたるにとって、ごく普通のこと。
なのに、さみしい。
さみしい、と思うとぴたりとはまるような気がする。
広いテーブルに一人で座っていると、足の裏からどんどん冷えていくような。おなかは膨れるのに心が満たされない感じ。
欲張りになった自分を感じた。三軒お隣の家と比べてみても仕方のないことなのに。
流し台に食器を片しにいくと、お皿やコップがタワーのように詰まれていた。
おそらく、今朝の分から溜まっているんだろう。
ほたるはスポンジに洗剤を含ませて、手の中でたくさんの泡を作った。
洗い流されていく泡たちと一緒に、この気持ちも消えてしまえばいいと思った。
ベッドに入って、ぐずぐずとしていたら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
電気はつけずにおいたから部屋の中は暗かった。
お風呂に入らなくちゃ、と思った。一日中冷房の下にいたけれど汗をかいた。
ほたるは、音を立てないように静かに階段を下りていった。
一階から話し声が響いてきた。母、だろうか。
穏やかな波と激しい波が交互にぶつかって、砕けたかけらが耳に飛びこんでくる。
リビングの、閉じられたドアの隙間から明かりが漏れていた。どうやら二人とも帰ってきているらしい。
ほたるは、そのドアを開かずにお風呂場に向かった。
廊下を横切るときに自分の名前が何度か呼ばれたような気がした。そこにだけ字幕がついているみたいに。
浴室に入ってシャワーの蛇口をひねると、さすがに声は届かなくなった。
ほっとした。一日分溜まった、目に見えない汚れをやっと落とすことができる。
ほたるがお風呂から上がったときには、リビングの明かりは消えていた。
暗闇は、しんと静まり返っている。二人とももう寝たのだろうか。
ほたるは自分の部屋のベッドへと戻り、もう一度目を閉じた。
中途半端に寝てしまったせいか、意識がはっきりとしていてもう眠れそうになかった。
本を読もうかと思って、蒲団代わりのタオルケットを深くかぶり直した。
どうして、あの二人は結婚なんかしたんだろう。
浮かび上がった疑問に、ほたるは戸惑った。なるべく考えないようにしていたことだったから。
ほたるの知っている両親は、一緒にいる時間は短いし、一緒にいてもあんまり楽しそうじゃない。
気がつくと、さっきのように喧嘩になって、仲直りもしないで寝てしまう。
いつからこんなふうだったのか、ほたるにはわからない。
ほたるが気がついたときにはもう、二人の関係は今のようになってしまっていたように思う。
きっと明日の朝には、父は会社に行って、母はパートに出かけていって、ほたるも同じように塾に行くのだ。
何事もなかったように、普通の一日が始まるんだろう。
ほたるのないものねだりの心がうずいた。
* * *
足が遠のいたのは、なんとなく。
夏休みが終わったら実力テストがあるし、手をつけなくてはいけない宿題もあるし。
それに、あの家の空気だけに慣れてしまうのはなんとなく不公平な気がして。
最近はとくに、ほたるの帰りが少し遅くなるだけで節子は理由を尋ねてくる。何か、勘づいているのだと思う。
ほたるはほたるで、最初に言いそびれるとなかなか本当のことが言い出せないままで。嘘をつくことが面倒くさくなった、というのもある。
ほたるは本を閉じた。
一冊だけ、という約束に従って借りた本には、そろそろほたるの手形がついてしまいそうだ。
何度も同じ本を読み返すことは苦痛ではない。
文章のリズムを身体に染み込ませると、いつもよりもスムーズに言葉が出てくるような気がするから。それが、本当にほたる自身の言葉なのかどうかと聞かれると、判断が難しいところだけれど。
「あの」
不思議なことに、沢木さん家に行くようになってから、こうやって声をかけられることが増えたように思う。
ほたるの気がつかないうちに、世界はほんの少しずつ広がっていっているのかもしれない。
「ちょっと、いいかな」
ほたるに読書を中断させたことを申し訳なさそうに、県で一番の秀才の県一くんは、そう言った。
県一くんは、ほたるを休憩所へと誘った。
そこには、多種多様な自販機が立ち並んでいる。
パックやペットボトルのジュース、塾の中だからアルコール類はないけれど、小腹がすいたときのために、スナック菓子やインスタントラーメン専用の自販機まである。
開かれたスペースには、机と椅子が無造作に並んでいて、塾生がみんなが思い思いに息抜きをしている。
その一角を陣取って、うながされるままに、ほたるは県一くんに向き合うように座った。
「あ、何か飲む?」
ほたるが首を振ると、県一くんは給水所のほうへ行って、水をくんだ紙コップをほたるの分も前に置いた。
「時間取らせてごめん。話っていうのは、由幸のことなんだ」
ほたるを気遣ってか、県一くんは単刀直入に話を切り出したようだった。
「よしゆき?」
「うん。あいつ、夏休み前ぐらいから家に帰ってないらしくて行方不明なんだ。おれ、家が近いから、あいつのおばさんに相談されて、居所を探してるんだけど」
ほたるは疑問符の代わりにぱちぱちとまばたきをした。
県一くんはその様子に戸惑ったように説明を続ける。
「え、あれ? 新浜由幸のことなんだけど……」
にいはまよしゆき?
そんな人はほたるの記憶の中にいない。
ただ、どこか別のところで聞いたような感覚がひっかかる。
県一くんは自分が出した解答が見当違いだったことによほど驚いたのか、ぱちぱちと過剰にまばたきをして、女の子のように長いまつげを上下させた。
こんな県一くんとほたるが向かい合って座っている理由。
この不思議な縁を結びつけたもの。
ほたるは、ぽん、と手のひらを打った。
「エジソンくん?」
それだ、と、県一くんが鏡のように手のひらを打ち返した。
* * *
ちょうちん花がいなくなっていた。
庭にはいつかと同じように物干し台が出され、シーツが干されている。
風でひらひらと翻る、その光景の中にあの白い花は咲いていなかった。
枯れてしまったんだろうか、ほたるはぽっかりと空いてしまった庭の一角を見つめて、急に不安を覚えた。
二週間ぶり、だった。
休みの間、毎日のように通っていたから、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
その間にちょうちん花はいなくなって、庭は前に比べて彩りが淋しくなったように感じる。
気の早い冬支度なのだろうか。
考えてみると、あの花もこの木も、ほたるの知らないものばかりだ。
春乃さんの本の部屋に植物図鑑があったことを思い出して、あとで調べてみようと思った。
今日はいちおう、県一くんから預かったエジソンくんのお母さんの伝言を届けるために来てみた。
エジソンくん、もとい新浜由幸くんは、ちょうどほたるがこの家に来ないようになった頃から塾に顔を出さなくなったようだ。
県一くんの推理曰く、たぶん新しい発明に夢中になっているんだろうけど、というのに、ほたるも同感である。
エジソンくんの家にはエジソンくんの家の事情がある。ほたるの家と同じように。
そう思うと、ほたるは少し気持ちが楽になるような気がする。
こんにちは、といつもどおりの呼びかけに、家の中から返ってくるはずの声はなかった。
ドアの鍵は開いている。ほたるは靴をぬぎ、春乃さんの部屋を目指した。
あの部屋にいると来客があっても気づかないことが多いらしい。
障子の戸に手をかける。ゆっくりと引く。
光が差しこんで、室内を照らした。
「―― 春乃さん?」
おや、という声に顔を上げた。
部屋の前を通り過ぎた高義さんは、ほたるを見つけて一、二、と歩みを引き戻した。
ほたるは椅子を使わずに、そのまま床に座っていた。
本棚と本棚の狭い隙間。前にも後ろにも物があると安心するような気がして。
外からは見えにくい場所にいたのに、高義さんには見つかってしまった。
高義さんは、ほたるの視線に合わせるように、しゃがみこんだ。
どうした、と穏やかな光をたたえる瞳に問いかけられる。
「…… 春乃さん、いなくて」
しぼり出すような声に、ああ、と高義さんの声がかぶった。
「春乃は、今日からしばらくショートステイなんだ。月に一回だけな、春乃は施設のほうに出かけとるから」
ほっと、ほたるは大きく息を吐き出した。
空のベッドを見て、凍りついた心臓が溶け出すのを感じた。 ちょうちん花と同じように、ほたるのいない間にいなくなってしまったのかと思った。
びっくりした、と呟くと、高義さんはすまなそうに肩をすくめた。 それからほたるの隣によいしょと腰を下ろす。
足が折れて、窮屈そうだった。
高義さんは、春乃さんが家にいない数日の間に、掃除や買い物など、普段はなかなかできない用事を済ますのだそうだ。今も近所に買い物に出かけてきたばかりだという。そういえば、ポロシャツにズボンという珍しくまともな格好をしている。
二人ともいなかったんだ。
鍵が開いていたから気がつかなかった。
「エジソン……、じゃなくて、由幸くんは?」
「さて、由幸は知らんな。部屋におらんかったか?」
いつもこんな調子なのだろうか。
能天気な態度を、無用心だ、とほたるは軽く責めた。いやなことを想像した自分へのあてつけと一緒に。
「そうは言っても、盗られて困るものも特別ねえしなぁ」
高義さんはそんなことを言って頭をかいた。ほたるはいらいらとした。
「知らないの。最近の泥棒は物だけじゃなくて、命も盗るんだよ」
それは物騒だなぁとまたのんきに言う。
この家にはテレビがないから最近の事情にはとんと疎くて、と。
ほたるは、言っておいてから気づいた。
今は春乃さんがいないから、唯一盗られて困るものがないから、鍵は必要ないのかもしれない。高義さんにとっては。
高義さんの生活は春乃さんを中心に動いていて、揺るがない。
ほたるが見ている限りずっとそうだし、これまでもこれからもずっとそうなのかもしれない。お互いがお互いを助けられる限りは。
また、いやなことを考えた。
そんなことを考えていると高義さんに気づかれたくないようなことだった。
ほたるはぎゅっと膝を抱えてそこに顔をうずめた。
「…… 相手をそんなに好きじゃなくても、結婚ってできるもの?」
高義さんはごほっと飲んでもいないお茶を吐き出した。
それから隣でうつむいたままでいる頭を見て、あごのあたりに手をやって古い文豪のまねをする。
うーん、とうなって、じっと手のひらを見た。
開いたり閉じたりする、大きな手だった。
「結論だけを言えば、できるだろうな。ここに実践例もあることだし」
ほたるが不思議そうに隣を見やると、高義さんは笑い損ねた。
口元だけつりあがって、ゆがんだ顔になった。
「…… 春乃さんのこと、好きじゃなかった?」
「子どもができた。俺の子だという。だから結婚した、な」
淡々と言われて、ほたるは自分の耳がおかしくなったのかと思った。
高義さんの手が伸びて、棚から一冊、本を引き抜く。
「若い頃は、仕事が面白くてな。家のことを構う余裕を惜しんだ。先に愛想を尽かしたのは娘だったよ。恋人を作るとさっさと家を出て行った」
ぱらぱらとページが右から左へ落ちていく。
左から右へとは落ちない。時間が前にしか進んでいかないように。
「俺は、この部屋にさえ気づいてやれなかった。気づいたのは、春乃が倒れたあとだ。今から八年くらい前のことになるか」
ぱたん、と閉じられる。本から細かいほこりが舞い上がった。
「いつもいなくなってから、気づく。この部屋にも。娘にも。春乃にも」
高義さんは笑った。
いつものように、ほろ苦い笑みだった。
「そこにいてくれるだけでよかったのに、とな」
胸が痛んだ。
何のためにこんな話をさせてしまったのかを思って、後悔した。
こういうとき、なんと言えばいいのかわからなかった。
ほたるはこの人の正確な年齢さえ知らない。
けれど少なくとも五十年以上、隔たっているのだ。届く言葉があるようには思えなかった。
だから、黙った。
黙って、隣の腕に鼻の頭をこすりつけた。
古い木と、土と雨の染みついたにおいをかいだ。
ドアの隙間から見える窓の向こう、空が茜色になっていた。
あたりには暗がりが広がり始めている。日の暮れる時間がずいぶんと早くなった気がする。
夏の終わりの気配にまじって、ふいに影が横切った。
そして、二、三秒後、テープを巻き戻したように帰ってきた。
影は、狭い隙間に入り込んで、床に座っている二人をまじまじと見つめて、腕を組んだ。
まるで、新たな難問にぶち当たったエジソンのように。
やがて、くるりときびすを返して、階下へとまた下っていく。
その丸まった背中が、ぼそりと呟いた。
「…… ばあちゃんに、言いつけてやろうか」
隣から、あからさまに動揺した振動が伝わってきた。
不思議そうに顔を上げたほたるに、情けなく苦笑が向けられる。
「殺されるかもしれん、な」
そんなことを呟いてぺろりと舌を出して見せたのは、いつもの高義さんだった。
日に焼けた肌も、しわの多さも、ほたるの知っている高義さんのものだった。
ほたるはほっとして、心の中でこっそりと春乃さんに謝っておいた。
旦那さんをお借りしました、ごめんなさい。
それでもこれは不毛な片思いだ。勝ち目がないことぐらい、言葉にされなくてもわかる。
このないものねだりは叶わない。だから私はここにいられる。
心がほころんだ。すーっと軽くなった気がした。
理由がなくても、別にいいんだ。
今鳴いた烏がもう笑っとる。と、どこか呆れたように高義さんが呟いた。
* * *
カチャカチャ。
ふちをぶつけるたび、冷や汗をかきながらほたるが食器を洗っていたら、ちかちかと瞬いて電気が灯った。
ステンレスのシンクに跳ね返って眩しい。
「なんだ、やっぱりほたるの仕業だったか」
両手に大きな買い物袋を提げた節子が大股で台所に入ってきた。
ほたるはスポンジを握りしめたまま、悪戯がばれてしまったときのように固まった。
節子は、ほたるが水洗いした皿を取って、布巾で一枚一枚しずくを拭き取り始める。
「家に帰ってきたら、残しておいたはずの洗い物が全部片づいている。いったいどこの座敷童が助けてくれてるのかと思ったじゃない?」
節子の手は慣れたふうで、ほたるの危なっかしいのとは違い、次々と食器を片していく。
ほたるは申し訳なさそうに肩を縮めた。
「…… 私だといやだった?」
「ううん? ほたるでよかったよ」
私、幽霊とか苦手だもの。と節子はメロディをつけて言う。
続けて、口笛を吹き始めた。
どうやら機嫌がいいらしい。特売の商品でも買えたのかもしれない。
ほたるもまねをして、唇をとがらせてみた。
ひゅーひゅーと風の音が鳴るだけでちっとも音が鳴らない。
下手くそねえ、と節子が言った。口笛のことか、皿洗いのことか。
練習するよ、とほたるが言うと、節子は明日の天気のことを心配した。
節子は雨が嫌いなのだと言う。
ほたるは結構好きだった。
気が合わない、血は繋がっているはずなのに、あんまり似ていない親子だった。
スポンジの中でたくさん泡を作る。円を描くように皿を洗う。
節子が口笛を吹いている。
ひゅーひゅーと、ほたるが風を鳴らした。残暑に紛れた木枯らしのように、聞こえなくもなかった。
今日もお父さんは帰りが遅いのだろうか。
あとで節子に聞いてみようと思った。