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学校の長い休みの始まりは、塾の始まりでもあり。
夏期特別講習は、朝から晩までみっちりと時間割が組まれていて、ある意味学校よりも濃度の濃い時間を味わうことができた。
校舎内は冷暖房完備で、時代の流れに逆らうようにちょっときき過ぎ、というのが通常の設定になっている。
一個前の席に座った須加さんは、薄手のカーディガンを羽織っていたが、ときどき腕のあたりをさするような動きをした。
ほたるは、学校指定のジャージを上着としてまとっている。
寒さとおしゃれを天秤にかけた結果だったけれど、鮮やかなカエル色は教室内でも浮いているような気がしないでもない。
心頭滅却すれば冷房もまた温し。
呪文のように繰り返して、ほたるは次の講義の予習に取り組んだ。
沢木さん家に通うようになって勉強時間は確実に減っている。
けれど、それが原因で成績を落とすというのはいやだった。自分の手で後ろめたさの上塗りはしたくはない。
「ほたるさん」
呼ばれた。
弾かれたように顔を上げると、予想外の人物がそこに立っていた。
お揃いのカエル色のジャージをまとって。
ほたるが目を丸くして固まったのをまんまと見落として、口は動く。
「ほたるさん、ちょっといい?」
須加さんが何事だという感じで振り返って、そこに立っている人物を見て、同じように目を丸くした。
ほたるは慌てた。
「ええと、なに?」
「今日、うち来る?」
須加さんの目が交互に二人を見比べて、好奇の色に光るのがわかった。
あとでどうやって言い訳をしたものか。
内心大量の冷や汗をかきながら、ほたるは頷く。
「よかった。ちょっと頼みごとがあるんだ」
そう言って、エジソンくんは実に嬉しそうに笑った。
ほたるは、できるだけ事務的に見えるようにわかったと応じた。
要件はそれだけだったらしい。
エジソンくんが戻っていく方向では、県で一位を誇る頭脳を持つ県一くんを始め、同じ学校の男子たちがぽかんとした表情でこちらを眺めていた。
カエル色のジャージを翻してエジソンくんが戻ると、いぇーいとかなんとかよくわからない歓声が上がった。まるで勇者が凱旋を果たしたみたいに。
勇者はびくりともしないで、何事もなかったように席に腰かけた。
ほたるも見習って、できるだけ平常を心がけようとした。
一個前の席からの熱烈な視線に早くも決心が崩れそうだったけれど。
…… 例えば、何から説明すればいいんだろう。不思議な縁で結ばれた彼と自分の関係を。
ほたるは、シャープペンの芯をノックする。
何かの確信のようにそれはきっと、どれだけ言葉を尽くしても伝えることはできないんだろうなと思った。
* * *
太陽の存在を否定するようにカーテンは締め切られ、室内は青白く浮かび上がっている。
床は足の踏み場のない、という形容詞がぴたりとはまる有様だった。
この部屋に素足で踏み入ることは、清水の舞台から飛び降りることよりも危険だ、といつかの高義さんの忠告が頭をよぎって、ほたるは一歩目を踏み出すのにずいぶんと勇気を使ってしまった。
「適当に座って」
その適当な場所を見つけるのにも一苦労だった。
ほたるはつま先立ちで部屋を横切って、ベッドのすみに腰かけた。
部屋の真ん中に立っているT字型の発明品は、この間とは少し形が違っているような気がした。
エジソンくんは床のガラクタもとい、作品たちを無造作に足でのけながら発明品のためのスペースを広げた。
アルミだろうか、材質まではわからないが、人差し指と親指で丸を作ったときぐらいの太さの銀色の棒が立体的に組み合わされて、発明品全体の枠組みを作っていた。
正面から見たら縦軸が太いTだけれど、真横から見ると片仮名のコの字のような形をしている。下の部分には四つのローラーがついていて移動可能な機器のようだ。人間が手を広げた姿のような、Tの横軸にあたる部分が一番奇妙だった。
よく見ると、まっすぐではなく、手首のあたりからは直角に下に折れていて、手のひらの部分にだけは四角いプラスチック板が貼られている。
コロコロとローラーを回転させて、エジソンくんが発明品をほたるの手前まで移動させてきた。
邪魔になってはいけないとほたるが動こうとすると、そのまま座っていてと注意される。
金縛りのように凍りついたほたるを四方から囲うようにして、銀色の枠組みがベッドに装着された。
ゆっくりとTの横軸の部分が下ろされてくる。
ちょうど人間が広げた手をたたみ、気をつけをするときのような動きだった。
「ちょっとだけ身体の左側、ベッドから浮かせてくれる?」
言われるままに、ほたるは体重を傾けて左側のお尻とベッドとの間に隙間を作った。
そこに滑りこむように、手のひらのプラスチック部分が入る。反対側も同じようにされた。
ほたるが両側の棒を手すり代わりにつかむと、エジソンくんは、ゆっくりと、今度は手前に発明品を引いた。
コロコロとローラーが回転する。
ほたるは座った格好のままで、部屋の真ん中あたりまで移動した。ぶらぶらと足を振る。
まるで、ブランコに乗っているみたいだった。揺れないブランコだ。
「どう?」
「どうって……、すごい。作ったのこれ?」
「座り心地とか、感想ない?」
お尻の下の感触を確かめる。
プラスチックの椅子はなんとなく頼りなげだが、ぎゅぎゅと体重をかけても落ちそうな感じはしなかった。
「ちょっとお尻が痛い、かな。あと後ろに倒れそうで怖い」
なるほど、とエジソンくんはボールペンで手の甲にメモをとった。
おしり感触、背もたれ、と、読める。
「ほかは?」
ほたるは思いつく限りの感想をくわしく伝えた。
これが何をするための発明されたものなのか、よくわかったような気がしたから。
「頼みごとってこれ?」
「うん、ほたるさんの被験者としての意見が聞きたかったのと、その椅子の部分さ、クッションとか座布団なんかかぶせて、ちょっと座り心地よくできないものかなって」
自分の作ったものが誰かの役に立つことはすごい。
ほたるの中にエジソンくんの言葉がよみがえる。
「わかった。作るよ、私」
ほたるが頷くと、エジソンくんは手を差し出した。
それは、ほたるが発明品から降りるのを手助けするための手だったのだけれど、ほたるは勘違いして、誓いの握手を交わした。
こうして、長い夏休みを使った、ほたるとエジソンくんの秘密の発明計画が始まった。
完成までの間、一度ならず高義さんに計画がばれそうになったことがあった。
いや、よく考えてみると、高義さんに秘密にする必要はなかったんだけれど。
「―― すすめや若人、大志を胸に」
しばらくすると、高義さんは二人を見かけるたびにそんな文句を吐くようになった。
仲間に入れないことを少しだけ残念そうにしながら。
「前に、ほたるさんがばあちゃんのトイレの手助け、してくれたことあったじゃん?」
高義さんから差し入れてもらった水羊羹をほおばりながら、エジソンくんはそんなふうに話を切り出した。
話題が、発明についてならあの口は滑らかに回るようだ。覚えておこうと思う。
「あのときから、ほたるさんみたいな力のあんまない人にも、…… おれみたいなのに直接触られなくても、なんとか、ばあちゃんがトイレぐらいまで簡単に移動できる方法があったらいいのに、と思ってて」
大志を抱いたきっかけはそんなことだった。
すごい、とほたるが本気で感心すると、エジソンくんは照れくさそうに視線を泳がした。
「でも、どうして春乃さんは触られるの嫌がるんだろ?」
ほたるはずっと気にかかっていたことを口にした。
エジソンくんはすでに水羊羹をたいらげて作業に戻っている。
銀色の棒を組み合わせるときに使った針金の、とがっているところにやすりをかける。
手を動かしながら、エジソンくんも少し考えるふうにした。
「基本的に、じいちゃん以外に触られるのは嫌なんだろ」
春乃さんが高義さんのことをすごく信頼しているというのは、見ていてわかる。
でも、ほたるが触ることにはそんなに嫌がらないのに、自分の孫に触られるのまで嫌がる気持ちは正直よくわからなかった。
首をかしげたほたるを見て、エジソンくんはぽつりと呟いた。
「たぶん、おれのこと孫だってわかってないんだと思う」
「え?」
「おれがこの家に来るようになったの、最近だから。はじめて会ったときにはばあちゃんもうああいう状態だったし」
意外だった。
てっきりエジソンくんはずっと昔からこの家に組みこまれている存在なのだと思っていた。つつじの生垣や居間の柱時計なんかと同じように。
「あとは、ほたるさんのことをおれの母親と間違えてるのかも、とか思うこともあったけど……」
エジソンくんはすごく嫌そうなしかめっ面を作ってほたるの顔を見つめた。それから、首を傾けた。
どうやら、あんまり似ていないらしい。
ほたるは、エジソンくんのお母さんのこと、高義さんと春乃さんの娘さんのことを、もう少し聞いてみたいような気がしたけれど、エジソンくんの眉がどんどんつり上がっていくのでやめた。
エジソンくんに母親の話題は禁句らしい。
覚えておこうと思った。
エジソンくん作、何にもしないでも移動できちゃう楽ちんお姫様椅子のお披露目式は、八月の半ば、お盆の前あたりにやって来た。
セミが奏でるファンファーレの中、コロコロとローラーを回転させて発明品が登場した。
高義さんと春乃さんのびっくりしたというか、度肝を抜かれたという感じの顔がおかしかった。
最初は、その見たこともない不思議な形の乗り物を、春乃さんはすごく怖がった。
でも、ほたるとエジソンくん、それに高義さんの強いすすめにうながされて、最後には渋々と受け入れてくれた。
動き出すとさすがに不安げで、ずっと高義さんの手をつかんで離さなかったけれど、椅子が思ったよりもしっかりとしていると感じられたのだろう。しばらくすると、高義さんの手から椅子の両側についている握り棒へと持ち替えた。
そのまま、高義さんに引いたり押されたりしながら、部屋の中をぐるりと一周する。
ほたるとエジソンくんは思わず目を交わし合って笑った。
やった、成功だ。
休みの間、試行錯誤を繰り返した。
ほたるが担当した椅子の部分だけでも、厚すぎるとお尻の下に入れるのが大変だし、薄すぎるとお尻が痛いしということで、素材を変えて何度も作り直した。
九十九の失敗の上に一の成功があるのだ。トーマス・エジソンの言ったことはすごく正しい。
がばっと、突然視界をふさがれた。
高義さんの長い腕が首に巻きつくようにしてほたるを引き寄せる。反対側でエジソンくんが同じ目に遭っているのが見えた。
ぎゅうっと抱きしめられて、息が苦しい。苦しくて、嬉しい。
春乃さんが、お姫様椅子の上で本当のお姫様のように微笑んでいた。
ほたるが手を伸ばすと、指先をきゅっと握り返してくれる。
伝わってきた。
人の役に立つのってすごいことだ。
同じように、伝わってほしいと思った。
繋がったところから、エジソンくんの春乃さんへの気持ち。
散歩に行こうか、と高義さんが言った。四人で一緒に。
日は暮れかけ、外はやっと夜の風が吹き始め、昼間のうんざりするような暑さを追い払おうとしていた。
肌をなでるように通り過ぎていくのがくすぐったい。
「そういえば、こうして外を歩くのはずいぶんと久しぶりだな……」
車椅子を押しながら、高義さんが春乃さんに話しかけている。
後ろから、ほたるはエジソンくんと並んで歩いて、二人の向こう側の空を見ていた。
空は水色とオレンジ色と紺色を混ぜたような複雑な色をしていた。
瞬きをする間に星の数が増えていく。
気がついたらエジソンくんがいなくて、少し後ろのほうでしゃがみこんでいるのを見つけた。
何度もそんなことがあって、そのたびに高義さんがエジソンくんを呼んだ。
あちこちの家から夕ご飯のにおいが漂ってくる。
ほたるはくんくん、と鼻をきかせた。
胸がいっぱいになる、幸せなにおいだった。