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蛍の灯る花  作者: 雪田
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 春乃さんはいろいろなジャンルの物語が好きなようだ。

 日本のもの、外国のもの。

 ファンタジーやミステリー、SF、大河、恋愛小説、児童文学、種類も大きさもさまざまに棚に並んでいて、高義さんに聞いてみたら、購入した順番に並んでいるらしい。

 春乃さんは趣味多き人で、その中でも読書が一番好きで、家の中の一室を本専用の部屋に改造してしまったのだそうだ。

 俺に内緒で。

 と、高義さんは苦く笑った。

 仕事で留守にしがちだった自分の代わりに、よく家を守ってくれていた妻だが、こういう行動力だけは人並はずれてあったな。

 そんなふうに、春乃さんのことを話すときの高義さんは、すごく幸せそうに見える。


 春乃さんのお気に入りというこの部屋は、四畳ほどの広さの中に本棚が乱立していて、棚には上から下までびっしりと本が詰まっている。

 棚の一番上の左端からスタートして、順番に指をすべらせていく。

 目に入ったタイトルを引き抜く。

 ここには春乃さんの歴史が詰まっているんだ、本を選びながらほたるは想像する。

 ここは図書館ではないから、貸し出しカードはいらないし、冊数の制限もないし守らなければいけない返却期限日もなかった。

 何冊か手にした本と一緒にほたるは部屋の奥へと移動した。

 部屋のすみに追いやられるように机と椅子が置いてあって、ほたるはそこに腰かけた。

 小さな窓から入ってくるわずかな光を頼りにページをめくる。

 ほこりとわずかな湿気が漂う部屋。

 はじめて足を踏み入れた瞬間に、ほたるの心はすっかり囚われてしまった。

 一度など、本の世界に入りこみすぎて日がとっぷりと暮れてしまっても、高義さんに呼ばれるまで気づかずにいたことがあった。

 その日、ほたるははじめて塾を無断で休んだ。

 その夜、どきどきとしながら着いた夕食の席では、節子はいつもどおり、不在の父親に少しだけ文句をもらしてから箸を動かすだけだった。

 あっさりと簡単にほたるの日常は崩れた。

 でも気まずい味のしたオムライスを忘れない。

 だから、この部屋の電気はつけないでおくことにした。

 もともと電球が一つしかなくて、そのオレンジ色の光だけで本を読むのは頼りない。

 日が暮れたら読むのをきっぱりと諦めて、一冊だけ借りて家に帰ること。 

 それは、ほたるがこっそりと決めた、沢木さん家のルールだった。


 今日も悩みに悩んで一冊きりの本を選んで部屋を出ると、珍しく隣の部屋のドアが開いているのに気づいた。

 沢木さん家の二階には三つの部屋がある。

 一つはここ、春乃さんの本の部屋で、もう一つは納戸、そしてもう一つは……

 ほたるはドアの隙間からそっと中の様子を伺ってみた。

 まだお日様は空にあるのに、部屋の中は薄暗い。

 部屋の住人は、不在のようだった。

 出かけた様子はなかったので、まだ学校から帰ってきていないのだろう。

 床には、歴代の作品たちなのだろうか、ほたるにはガラクタとも見分けのつかない作品があちこちで山を成していて、この部屋の中、どこでどうやって暮らしているのかを想像することは、とても難しいことだった。

 部屋の真ん中あたりだけ物がなくて、ぽっかりと穴が開いていた。

 そこに、両手を広げたような、と言えばわかりやすいだろうか、縦軸が太いTの形の、ほたるの背丈ほどの高さの機器が立っていた。あれが今手がけている発明なのかもしれない。

 あんまりじろじろ見るのはよくないかな。

 ふと思い立って、ほたるはドアの隙間をきっちり閉め直した。



 階下に降りていくと、居間のこたつ机のところに、大きな背中を見つけた。

 いつもはぴんと伸びている背筋が丸まっている。

 いつもはしていない眼鏡をかけている。

 いつになく真剣な表情が、手元を凝視していた。

 緊迫した雰囲気に、ほたるが声をかけようか迷っていると、頭を盛大にかきむしったあとに大きく万歳をして、そのままばたんと後ろ向きに倒れた。

 そして、廊下に立ち尽くしているほたると目が合った。高義さんはぎょっとして、万歳をしたまま固まった。

 机の上には、針と糸、それからトレーナーやタオルなどの衣類の残骸と、大量の綿が散らかっている。


「何か、繕いものですか?」

「いや、いちおう、一から作るつもりでな……」


 起き上がりながら、高義さんは気まずそうに言葉をにごした。

 机の上のものを集めれば確かに、何かができそうではある。


「知り合いの奥さんにね、知恵を借りて。春乃に新しい座布団を作ってやろうと思ったんだが」


 ほたるは机のそばに近づいていって座った。

 たくさんの素材に紛れて、手書きの設計図のようなものが置いてあった。

 座布団、と言っても普通の四角形ではなくて、身体の部位に合わせて色々な形をしているようだ。

 例えば、お尻の下にはドーナツ型の座布団というように。

 高義さんは眼鏡を外して、目の間を押さえた。


「…… ご覧のとおり、針に糸を通す段階でこけたざまだ」


 ほたるは針と糸を手に取って、すっと小さな穴に先を通してみせた。

 高義さんは驚きや感心の入り混じったような声を上げた。

 今にも拍手をしそうな勢いだったけれど、たぶん、そこまでたいしたことはしていないと思う。


「やれやれ、こういうのは春乃がうまいんだがな、ほんとうは」


 珍しく弱音を吐いて、続けて玉結びに挑戦し始める。

 大きい骨ばった手をすり抜ける糸を見て、出そうとした声がひっかかった。ほたるは思わずのどぼとけを押さえる。

 誰かにとっては簡単なことがほたるにとって難しくて、ほたるにとっては簡単なことが誰かにとっては難しい。

 息を吸う。

 この家の古い木のにおいが好きだ。

 そういうことをうまく言葉にすることができたらいいなと思う。

 今まで一度もそんなことを思ったことはなかったけれど。

 母や友達や周りの人たちや、テレビや本みたいなものが、ほたるよりもずっといい言葉を使ってほたるの気持ちを代弁してくれていたから、その必要性を感じたことがなかった。

 この家は静かだ。高義さんも春乃さんも、あまり多くの言葉を必要としない人たちだった。

 ゴーン、とおなかの底に響く音がした。

 一、二、三、四、五回。ほたるは自分の腕時計と見比べて、五時だということを確認した。

 エジソンくんは、その名前のとおり腕の確かな発明家らしい。

 この場合は修理屋の部門かもしれないけれど、物に新しい命を吹きこむという点において同じものだと思う。


「私、手伝ってもいいですか」


 するっと言葉が飛び出てきた。

 玉結びに三度失敗して、針から糸がまた抜け落ちてしまったところで。高義さんは瞬きを余分にしてから、まじまじとほたるを見つめた。


「いや、でもな。悪いだろう?」

「ううん、私も作ってあげたい。春乃さんに」


 自分でも驚くくらい大きな声になった。

 思わず自分の口をふさいだほたるの上に、ふっと笑みがこぼれた。


「じゃあ、甘えさせてもらおうか」


 大きな手が伸びてきて、ほたるの頭をくしゃくしゃとなでた。







 ほたるは手芸部だ。実は、こっそりと。

 部室には入部したとき以来ろくに行ったことがないので、そう名乗ってもいいものなのか、自信がないけれど。

 中学校には必ず何かの部活動に所属しなければいけない校則があって、それで選んだ手芸部だったけれど、こんなことになるのならもっと真面目に参加しておけばよかった。

 後悔は身に染みて、甘ったるい味がした。

 カラン、と音を立てて氷の柱が崩れる。

 ガラスのコップは大量の汗をかいていて、ほたるの手を濡らした。

 アイスティの濃いオレンジ色の底に漂っているもやもやのはちみつの層が、ほたるの舌を刺激する。

 高義さんの魔法の手にかかったものはなんでもおいしい。

 今日はいい天気だ。庭を通ってくる風が、窓から入りこんできて気持ちがよかった。

 沢木さん家に通うようになってから、たくさんのお菓子を口にするようになった。

 好意を上手に断る方法を思いつかなくて、来ればほぼ必ず何かをご馳走になっている状況だ。

 ここで口にするチーズケーキや草だんごはどれも、ほたるの知っている味ではなくて、もっとずっと複雑な味がした。そのほとんどが高義さんの手作りだと知って、驚いた。

 だからてっきり、高義さんはケーキ屋さんとか和菓子屋さんとか、そういう職業の人だったのではと推理していたら、外れた。

 なんでも、若い頃はどこぞの商社で働いていたらしい。ほたるでも聞いたことのある有名な会社の名前だった。


「まあ、確かに美味いものはたんと食ったかな」


 苦笑いをしてから決まって最後に、でも、と高義さんは付け足す。

 最近になってほたるは、はいはいとそれを聞き流す技を覚えた。

 聞き飽きたという感じで、ごちそうさまという気持ちをプラスして。

 ―― それでも春乃の作った料理が一番美味い。 だそうで。




 ほたるはちくちくと針を動かした。

 最初の座布団ができあがるまでには、一週間近くかかった。

 高義さんに大見得を切った割に、縫い目はガタガタでいびつな形をしていて、お世辞にもいい出来とは言えず。

 でも、高義さんにせっかくだからと言われて、春乃さんにそれをプレゼントした。

 ドーナツ型の座布団は、春乃さんのお尻をすっぽりと包んだ。

 真ん中の穴が大きすぎたらしい。春乃さんは正直に気持ちがよくないという顔をした。

 自分は失敗するのに慣れていない、今まで何にも挑戦したことがないからだ。

 ほたるは正直に落ちこんで、しばらくの間また春乃さんの本の部屋に逃げこんでいた。

 そして、一週間ぐらい経ったあとに。

 久しぶりに春乃さんの部屋を訪れたら、ドーナツ型の座布団は半分に折られ、春乃さんの頭の後ろに敷かれていた。

 びっくりしたほたるに向けて、高義さんが片目をつぶってみせた。

 曲がり具合が首から肩にかけてフィットする感じで、でこぼこしているのがツボを刺激していいらしい。

 ほたるは思わず、ありがとうと叫んで、春乃さんの腕にしがみついた。



 春乃さんの身体の周りを覆うように座布団の数は増えていった。

 今は抱き枕を作成中だ。

 設計図ではシンプルな棒状だったが、少し向上心がわいて、身体は人、頭はうさぎの形をしたぬいぐるみ型枕に挑戦することにした。

 ちくちくと針を動かす。

 鼻をくすぐるのは、お味噌汁のかつおだしのにおいだ。

 ほたるは、夕飯の時間にはいつも家に帰っているので実際に食べたことはないけれど、においから想像するだけでおなかが鳴った。

 気がつくと、居間の戸口のところに制服姿のエジソンくんが立っていた。

 ほたるがおかえりと声をかけると、ちらりと一瞥をくれる。


「じいちゃんは?」


 ほたるは持っていた針で、台所のほうを指差した。

 くんくんと鼻をきかせて何をしているのかわかったようだ。それ以上は何も聞いてこなかった。

 エジソンくんは畳の上にうつ伏せに寝転がった。そのまま静かになる。

 制服にしわが寄るのが気になったが、自分も制服のままでいるで何とも言えない。

 そもそも今までにエジソンくんと言葉を交わしたことが、片手ほどもあったのかどうか疑わしい。

 エジソンくんはこの家に居候をしているらしい。

 事情があって、両親のもとを離れて暮らしているのだそうだ。詳しいことは聞いていないから知らない。

 柱時計は、相変わらずゆっくりと時を刻んでいる。

 エジソンくんは本当に発明が趣味だったらしく、家のあちこちにその作品のあとを見かけることができた。

 例えば、あのとき、高義さんのポケットで鳴ったタイマーも、お風呂のお湯はったらお知らせ器、という名前のエジソンくんの発明品らしい。

 ほたるの座布団たちとは違い、ずいぶんと高性能な優れものだった。

 ほたるは、はあ、と胃の底にためこんだ息を吐き出した。


「エジソンくんはすごいね」


 エジソンくんは寝転がったまま頭を横に向けて、眉をしかめた。

 何を言われたのか理解できないというように。

 ほたるは、さっと血の気が引くのを感じた。

 しまった、ついあだ名のほうを口にしてしまった。

 焦って言い訳をしようと二の句が告げないでいるほたるを見ながら、エジソンくんは、ああ、と短く応じた。


「トーマス・エジソンは、すごいよね」


 …… どうやら、エジソンくんはほたるが本物のエジソンのことを言っているのだと解釈したらしい。

 エジソンくんは一つ、咳払いを落とした。


「エジソンは、発明家で野心家で、発明となんの関係もないことからでもいつも新しいアイディアを引き出すために貪欲に取り組んだんだ。だから、限られた一生のうちにすごい数の発明を残せたし、電気だとか電話だとか他に比べるものがないくらいのすごい発明品を生み出すことができた」


 エジソンがどれほど偉大な人なのかということがよく伝わってきた。

 が、野心だとか貪欲だとか、目の前の人と結びつかない言葉がぽんぽん出てきて、ほたるは呆気にとられた。


「人のアイディアを自分のものにしたり、だとか、戦争の兵器を作った人でもあるから、科学者の汚点を指摘するのにもよく引っぱり出されるけど」


 エジソンくんは、ちょっと思案するように首をかしげる。


「自分の作りたいものを作るためのアイディアをかき集める、その手段は選ばない、生まれることに罪はない、生まれたあとのことは知ったこっちゃない。……そう言ったエジソンの気持ちが結構よくわかるような気がして」


 発明に携わる者としては、と神妙な顔をする。

 エジソンくんがこんなに真剣に何かについて話すことは珍しい、ような気がする。


「でもちょっと違うかも、と最近は思う」

「違うの?」

「うん、自分が作ったものが誰かの役に立つっていう、自分の手を離れたあとから付いてくる結果のほうがずっと、すごいことなのかも」


 エジソンくんは最後には頬杖をつきながらそんなことを言った。

 それから、腕だけを動かして這うように畳の上を進んできた。

 手を伸ばして、ほたるのそばに置いてあった試作品のドーナツ型座布団二号を盗みとっていった。

 枕代わりにしてまた寝転がる。

 エジソンくんが顔を突っこんだところはちょうど春乃さんのお尻が入る予定なのだけど、ほたるは言わないでおくことにした。



 柱時計の振り子は正確に、けれどゆっくりと時間を数えている。

 夏至はもうとっくに過ぎたから日は短くなるばかりなのに、温度と一緒に昼の余韻が勝っていて一日がとても長く感じられた。

 もうずっとこの家で暮らしてきたような気がする。

 それは錯覚で、ほたるの願望に近いようなものなのだけれど。

 もうすぐ夏休みだ。

 うだるような暑さの予感に今からげっそりとする一方で、どこかわくわくとした気持ちを抱いている。

 庭先では、栄華を極めていた紫陽花は枯れかけていた。

 あの庭には次は何が咲くのだろう。縁側の窓から力強い光が差しこんでいた。



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