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蛍の灯る花  作者: 雪田
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 借りた本を返しに行く。

 大義名分が背中を押してくれるだけ、ほたるの心はこの前よりも軽くなっていた。

 毎日のように家の周りをうろついていたら、いくら家が近所とはいえ怪しまれるだろうし、近所だからこそ、面が割れてしまうような事態も避けなければいけなかった。

 そうなった場合の、節子が浮かべる顔をほたるにはうまく想像できない。

 考えているうちに、目的地が近づいてきていた。

 ほたるより少し先を、一人の男の子が歩いていた。

 横を走るつつじの生垣よりも頭が一個分くらい高い。

 白いシャツに黒いズボンという学生服特有の色合いで、同じ学校の人だろうとわかる。

 生垣の端まで到達すると、男の子はくるりと方向転換をした。

 あ、という顔を男の子がした。あ、とほたるも思った。どこかで見かけた顔だと思った。

 男の子はすたすたと早足に近づいてきて、唐突にほたるの手首をつかんだ。


「手伝って」


 ほたるの顔が疑問符でいっぱいになるのを見て、男の子はもどかしそうに言葉を続けた。


「俺じゃダメなんだと」


 そこまで言ってもまだ理解できないでいるほたるに、男の子は眉根を寄せた。

 まるで、難解な問題にぶち当たって四方八方塞がりになってしまったように。

 勝手に絶望されても、ほたるだって困るのだが。

 やがて何かを諦めたように、握っていた手に力をこめた。

 ぐいぐいと引っぱられて、ほたるは慌てて足を進める。

 その行く先には見覚えのある門構えがあった。

 目の前の背中を驚いたように見てから、ああこの人は自分と同じだ、とほたるは思った。

 興味や関心があちこちに向けられずに、狭い世界の中にいる。

 人への思いやりとか、そういう大事なものがいつも何か足りない部類の人だ。

 思い出していた。

 同じ塾で、学校で唯一の科学部部員の、エジソンくんだった。




 玄関を、靴をぬぐ間さえわずらわしいというような速さで通り過ぎ、居間を抜け、縁側に出た。

 この先に何があるのか、誰がいるのか、ほたるは知っている。

 近づくにつれて心臓が小さく収縮するのを感じた。

 ノックも早々に障子の戸を開けはなった。


「ばあちゃん」


 と、隣の人が口にするのをほたるは静かな気持ちで聞いた。


「助っ人、呼んできたから」


 うーという、うめき声のようなものが聞こえた。

 大きなベッドは折れるようにして持ち上がり、春乃さんの身体はもたれるように座っている。

 けれどそこにいつもの穏やかな表情は見えなかった。苦しそうにゆがめられた表情。

 よくわからないままながら、厳しいものを感じ取ったほたるは、ベッドへと近寄る。


「そこ、わかる?」


 エジソンくんは、ベッドの奥、影になったところの白いものを指差した。

 見覚えのある形状から何をするためのものかをすぐに悟る。


「悪いんだけど、ばあちゃんをあそこまで連れて行って座らせてやってくれない?」

「…… 私が?」

「うん。おれが触ると嫌がるんだ」


 エジソンくんは少し怒ったようにベッドの上を睨んだ。

 どうして、という疑問をなんとなく口に出せないまま、ほたるは戸惑いとともにそちらを見た。


「…… 春乃さん?」


 名前を呼んでみた。

 ためらいながら肩に手をかけると、黒い目の中にほたるの姿を見つけた。

 たぶん、このときはじめて春乃さんはほたるの存在に気づいたのだと思う。

 しかし、どうやって春乃さんをあそこまで連れていけばいいんだろう。

 すぐ横に設置されている簡易トイレまでの距離がはるか遠く感じられる。

 困って、エジソンくんを振り返ったけれど、腕を組んで何かを考えているらしい彼の助力は期待できそうになかった。

 ふうっと軽く息を吐き出してから、ほたるはぎこちなく動き始めた。

 春乃さんの脇の下に手を入れて、ちょっと持ち上げてみる。

 すぐに骨がきしんで、折れるんじゃないかと心配になったけれど、気遣う余裕はほたるに残されていなかった。

 重いのだ。

 本やシーツの山とは比べものにならないほどに。

 高義さんの腕の中ではあんなにも軽そうに見えたのにな。

 戸惑って、ほたるが一旦身体を離そうとすると、ぎゅうっと制服の襟のあたりに力がかかるのを感じた。春乃さんの手だった。



 長い長い一瞬を乗り越えて、なんとかたどり着いた。

 便器に腰をおろした春乃さんは、ゆっくりと自分から動き出した。

 どこまで手を貸したほうがいいのかな。

 しばらく様子を見守っていたほたるは、春乃さんの手がゆっくりと寝巻きを引き下ろすのを確認してから、部屋のすみへと移動した。

 ちらりと見えた、骨と皮だけでできているみたいに細い足がまぶたの裏に焼きついた。

 いつのまにか、部屋の中からエジソンくんの姿が消えている。

 開けっぱなしになっていたはずの障子の戸も、今はきちんと閉じられていた。







 春乃さんがきちんとベッドに戻るまで見届けてから、居間へ向かった。

 こたつ机のところにエジソンくんの背中を見つけた。

 後ろから様子を伺ってみると、腕に、すっと赤い線が伸びていて少し皮がむけているのが見える。


「どうしたの、それ」

「ひっかかれた」


 思わず聞いたほたるに、振り返らないままの背中がそっけなく答えた。

 ひっかかれた、って誰に?

 ほたるは目を真ん丸にしてその傷を見つめた。

 エジソンくんは消毒液を直接垂らす、という大胆な治療法をして、上からバンソーコを貼りつけた。

 ゴーン、と突然、柱時計が四回大音量で鳴り響いた。四時だ。


 不思議に感じて、ほたるが腕時計を見てみると、やはりもう五時をとっくに回っている。

 ちっという低い舌打ちが聞こえた。

 エジソンくんはおもむろに立ち上がり、壁から柱時計を外した。それを机の上へと寝かせる。

 ほたるが救急箱と思っていた木箱から何かの工具を取り出して、上と下のネジを回して背中を開いた。

 なんだか、患者さんとお医者みたいだな、とほたるは考えて、博士のほうがしっくりとくるかなと訂正した。なんせ、エジソンくんだし。


「あの、今日は、高義さんは?」

「いない。なんか、用事で。…… 仕事?」


 答えながらエジソンくんの首が傾く。

 ほたるも一緒になって少し首を傾けながら、こっそりとうなだれた。そうか、今日はいないのか。

 エジソンくんは自分からは話さない人のようだった。

 ほたるもそうだった。

 一番大きく響いていた柱時計の針が止まると、残されたのは染みるような静けさだった。

 柱時計のほうの調子が悪かったということは、ほたるにはもうあまり時間がないということで。遅くなるとまた節子に下手くそな言い訳をしなければいけなかった。

 ほたるは、鞄の中に入っていた本を取り出して、机の上へと置いた。


「…… 私、帰るね。本、貸してもらったから、ここに置いていきます」


 んー、とエジソンくんが鼻で生返事をした。

 どうやら博士は患者さんの手術に夢中らしい。

 机の上の柱時計は、あっという間にバラバラにされてしまっていた。

 あんまり似ていないな、と思った。

 ほたるもよく社交的な母と比べられては似ていないと言われるので別に珍しいことではないのかもしれない。

 血って、身体を作っているものの中でもあんまり重要な素材じゃないのかもしれない。

 ほたるは一人そう納得して、玄関にぬぎ捨てたままにしてあった靴を拾っていた。

 気配を感じて振り向くと、いつのまにか、すぐ後ろにエジソンくんが立っていた。


「手伝ってくれて、ありがとう。ばあちゃんの代わりに言っとく」


 呆けていたほたるは慌ててこくこくと頷いた。

 エジソンくんはそれだけ言うと、また居間へと戻っていった。

 猫の手よりは役に立ったということだろうか。

 いまいち実感がわかなくて、ほたるは玄関に立ち尽くしたまま、両手を開いたり閉じたりした。

 さっきの感触はまだ手に残っている。

 薄い寝巻き越しに感じた骨と皮の感触。

 あんなに細くて小さいのに、春乃さんはしっかりと重くて温かかった。

 しがみついたりひっかいたり、そういうパワーをきちんと秘めている。

 全然違うのに、イトコの赤ん坊を抱かせてもらったときのことを思い出した。

 生まれたばかりの命と、死に近づいている命を似ていると思う。

 ほたるにとってそれはとても不思議な感覚だった。


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