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沢木 春乃 様
その名前に、首をかしげた。誰だろう。
ほたるが記憶をさかのぼれるのはせいぜい母親の母親ぐらいまでのもので、自分を含めてもたったの三人しかいなくて、少なくともその中に当てはまる人物は見つけられなかった。
ほたるは封筒を持ち上げ、薄暗い空に向けて透かしてみた。中には三つ折りにされた便箋が入っているようだった。
沢木春乃様。
きれいな字だった。細くてやわらかな、女の人っぽい字だなと思う。春乃の春の部分がかすかににじんでいる。
季節は夏の始まり、梅雨入りしたばかりの六月、しとしと降り続ける雨のしずくの仕業だろう。今も元気よく地面を跳ねては、ほたるの足を濡らしている。
学校帰りの制服のまま、開けはなったドアの前で立ち尽くしている娘を見とがめて、母が家の中から出てきた。
「ああ、春乃さんなら、三軒お隣の沢木さん宛てだわ」
ほたるの手元をのぞきこんで母、節子は言った。
三軒お隣というと、とほたるは自分が今帰ってきた方向を振り返る。
「同じ苗字だから間違って届いちゃったのね。ほたる、届け直してあげてくれる?」
え、とほたるは声にせずに思う。
「これから塾に行くでしょう? ついでに届けてあげなさい。ほら、郵便受けに入れてくるだけでいいから」
ほたるは何も言わずに手紙を見つめた。
それを承諾の印と解釈した節子は、家の中に戻りばたんと勢いよくドアを閉めた。
昨日、洗濯物が乾かなくて困ると漏らしていたので、これ以上の湿気に入りこまれるのに耐えられなくなったのかもしれない。
本当は、学校から直接塾に向かうつもりだった。けれど、濡れてしまった制服の感触が気になって、着替えのために家に寄ったのだ。そうしたら郵便受けの中にこれを見つけた。
閉じられたドアの前で、ほたるはふうっと息を吐き出した。
手の中には、湿気の分だけ重量感の増した手紙。
考えて三秒、たたんだばかりの傘を開いた。
雨は、霧のような細かい粒になっていた。
風にあおられ、じっとりとまとわりつくように降り注いでくる。
濡れないように、ほたるは制服のすそをめくり上げ奥へと手紙を避難させた。
三軒お隣の沢木さんの家の前を、ほたるは家と学校を行き来するたびに通る。
家の周りをぐるりと生垣が取り囲んでおり、庭には四季折々の花が咲いている。
今の時期はやっぱり紫陽花の一群が目を引いた。雨でぼやけた景色の中、赤青紫の三部合唱は鮮やかだ。
ふと、いつのまにか生垣と同じくらいの背丈になっている自分に気がついた。小学生の頃にはなんとか中をのぞこうとしてはぴょんぴょんと跳ねながら歩いていた気がするのに。
立派な門構えの下をくぐり抜ける。郵便受けは玄関の前に設置されていた。
どうしようか。と、ほたるは春の字がにじんだ手紙をおなかの前で抱きしめる。
空を見上げると、分厚い灰色の雲にぶつかって跳ね返ってきた。
少し考えて、ほたるは呼び鈴に指を伸ばした。
「……、……」
しばらく待っても、ガラス戸の向こうは沈黙したままだった。留守だろうか、はじめてその可能性を考えたとき。
庭の奥のほうに目をやったら、縁側が切れるあたりに、ちょっと変わった形の花が咲いているのが見えた。
ちょうちんのような、と言えばいいのだろうか。
白い花だ。花弁が重たいのか、花はおじぎするようにこちらに向かって、ぺこりと頭を下げている。
ほたるもなんとなく頭を下げ返した。
「何か、うちに御用ですか」
予定外の方向から声がした。ほたるは軽く飛び上がって、後ろを振り返った。
庭の生垣の前、ちょうど茂みの影になっていた場所に男の人が立っていた。上下、カエル色のジャージを着ていて、頭に白いタオルを巻きつけている。
男の人は、人様の玄関前で固まってしまった制服姿の女の子を不思議そうに見やって、よいしょ、と掛け声一つ、そばに寄ってきた。
近くで見るととても背の高い人だというのがわかった。カエル色のジャージが七割分ぐらいの長さになってしまっている。
男の人はほたるの三歩手前ぐらいで足を止めた。まだそこには玄関のひさしが届いていない。
ほたるは慌てて横にのいた。男の人は広い肩をすぼめてから、失礼、と断って隣に並んだ。
ざー、という雨が叩く音に耳が奪われる。
土が雨を受け止める、そのやわらかな過程を目で追いかけるふりをしながら、ほたるは隣を気にした。
頭からタオルを外すと、黒い髪の所々に白色が混じっているのがわかる。
こめかみのあたりにできた深いしわをたどってしずくが落ちていく。
この人は誰だろう。その疑問の答えはたぶん、とてもシンプルなものだった。
「あーっと……」
視線の先で男の人が気まずそうに耳をかいた。はっとしたほたるは、やっと自分の使命を思い出した。
「あの、これ」
と、制服の下に避難させておいた手紙を取り出す。
男の人は瞬きをして、その手元を見つめた。
ああ、と思う。
いつも自分には言葉が足りないのだ。続けて出そうとした声がのどの奥でひっかかる。
まずは自己紹介からだろうか。それとも手紙が間違って届いた経緯からだろうか。
「…… また、ずいぶんとかわいらしい郵便屋さんがいたもんだな」
感心したようなため息が降りてきた。
ほたるが不思議そうに顔を上げると、豪快にしわを寄せた笑顔とぶつかる。
手紙に伸ばしかけた指先が土で汚れている。
ほたるの視線に気づいた男の人は、それをズボンの横でぬぐってから、手紙を受け取った。
宛名を見つめてから、裏返して差出人を確認する。
その目が一瞬、遠くを見つめるように細められた。
「じゃあ、これで」
おじゃましました、となんとなく邪魔をしてはいけないような気がしてそそくさと立ち去る。
使命は果たせた。
「ああ、待った。待ちなさい」
という低い声が、両足を引き止めた。
ほたるが止まるのを確認してから、男の人は軽い足取りで庭を横切っていった。後ろ手でポケットからハサミのようなものを取り出すのが見えた。なんだろう。
再び戻ってきた男の人の手には、一本の花が握られていた。
「よかったらこれを」
「…… あの?」
「届けてくれたお駄賃代わりに」
差し出されたものを上手に断る方法は、まだ知らない。迷いながら、ほたるは恐る恐るそれを受け取った。
「ありがとうな」
にこりと微笑まれて、慌ててほたるが頭を下げると、くくっと堪え切れなかったような笑い声が響いた。
きょとんとしたほたるの手の中で、ちょうちん花は相変わらず、頭を下げ続けていた。