別離の海に
汀に、ひとり佇む姿を見つけたのは、星が流れたからだ。
風は無く、水面さえも凪いだ海辺は、時が止まったような錯覚さえボクに起こさせた。そんな中、呆けたように空を眺めていたのは、おそらく遠く聞こえる祭りの喧騒から目を背けるためだ。けれど、もしかしたら、幼き日の恋心が沈んだ海を直視するのが怖かっただけなのかもしれない。
それはどちらも同じことで、けれど目を瞑ることをしなかったのはボクのささやかな抵抗だと、そんな気がした。
ボクは煩わしい思考を振り切るため一度だけ夜気を吸い込み、厭わしいそれらから視線を逃した。その先に、一際秘めやかに、しかししっかりと煌くその星を見つけたのは、必然であったのだと思う。
それなればこそ、流れたその星の軌跡を追ったのも、その先に彼女を見つけたのももちろん必然だったのだ。
星影を仰ぐ彼女の見目形はどこか懐かしさを覚えるものであった。
ぷっくりとした淡い桃色の唇や少しだけ眠そうに垂れた眦には、いまだ幼さが残っており、処女雪で押し固めた白肌は、辺りの薄暗さと相まって半ば青くさえ感じるほどであり、病的にさえ写るはずのそれが美しく見えたのは、彼女の容姿が整っているからだけではないだろう。身に着けているワンピースは白を基調としており、肌に溶け込んでいるようにも見え、ただ一点それに反するように、艶やかな黒髪が首根のあたりまで真直ぐと垂れていた。年のころは十四か十五か、ボクと五つは違っているだろう。
黒髪が流れ、彼女の双眸がボクを捕らえた。
「こんばんは。いい夜ですね」
ボクが発した言葉だ。
「そうですね。月明かりがとても綺麗」
そう言い、顔を空に向けて反らした彼女は少しだけ笑っていたような気がする。
「なにか嫌な事でもあったんですか?」
今度は彼女から切り出した。ボクが当惑していると、寂しそうな顔をしていましたからと補足することも忘れずに。
ボクは少しだけ考える振りをして、彼女の表情を窺った。
「……今日はボクにとって特別な日なんです」
アナタも同じような顔をしていますよとは言わなかった。
彼女はそうですかと呟いて、もうこの話題に触れることは無かった。
それから彼女とは砂浜を歩きながらいろいろな話をした。季節についての話であったり、好きなテレビ番組の話であったり、或いは休日の過ごし方であったり、もしかしたら苦手な食べ物も教えあったりしたかもしれない。
彼女は新しい話をするたびに、少しずつ表情を緩めていった。ボクはどうだろうか、生憎と鏡を持ってはいなかった。
最後のほうになると、もうどちらから話し始めたのか覚えていないくらいには夢中になっていた。
旅行。趣味。友達。そして海の話。
それを切り出したのは多分ボクで、だから静寂をつくったのもボクだ。
ふと気がつけば、祭りの音が止んでいた。
「もう行かないと」
沈黙を破ったのは彼女であった。
ボクはそれに頷いてから、会話に一拍おくように夜空を見上げた。それに倣ったのか彼女も同じようにして、もう一度ボクのほうを見た。
「それでは失礼します。今日はありがとうございました。とてもすばらしい夜でした」
「こちらこそ」
互いに一礼を交わしてから、決まっていたように反対の方向に歩き出す。
もはや砂を踏みしめる音だけしか互いの存在を確かめるものはない。一歩二歩と静寂を嫌うように足を踏み出し、しかしながら次の瞬間、互いに見合わせたように立ち止まった。
ボクは精一杯に息を吸い込んで、少しだけ言葉と一緒に吐き出した。おそらく彼女と同じように。
「少しは泳げるようになった?」「少しは泳げるようになったかな?」
振り返らずに訊ねた。顔は見られたくなかったから。
「ああ、なったよ」「うん、なった」
言葉が重なるのも気にせずに、前だけ見据えて、背中合わせで声を発した。
「今度は好きな人を助けられるように」「今度は好きな人を泣かさないために」
「まあ、見つけないといけないけどね、好きな人」とボクはつけたし、彼女はそれを聞いて笑った気がする。
「がんばれ」といって笑ったのだ。
振り返ると、彼女の言葉も足跡も、波に攫われていた。
天国でも遊泳できると知った日。
沙羅の花も凋落を迎える、少しだけ蒸し暑い夏の出来事である。