ドール服購入ミッション
街に入ると車の速度が落ち、ガラス越しに目覚め始めた都会の喧騒が低く響いてきた。
ポケットの中でミラが身じろぎし、「……着いた?」と小さく呟く。 エイドリアンはシートベルトを外し、彼女をちらりと一瞥した。「ああ。じっとしてろ」
彼はミラが隠れている方のポケットに手を突っ込み、車外へと踏み出す。そこには、騒がしい都会の日常が彼らを待ち受けていた。 もともと、エイドリアンは買い物なんてするタイプではない。ましてや……「こんな」買い物など。
黒いコートに鋭い顔立ち。人混みに溶け込む彼の表情からは、何を考えているのか読み取れない。そのポケットの隙間から、ミラは外の様子をこっそりと伺っていた。彼女の小さな体にとって、外の世界はあまりにも流れが速すぎる。
彼はスマホを取り出し、検索欄に打ち込んだ。 『近くのドールショップ』
ポチッ。 表示されたルートは、徒歩15分。 エイドリアンは重々しく溜息をついた。これからはじまるのは、自分にとってあまりに滑稽な時間だ。
ドールショップのガラス扉を押し開けると、カランカランと陽気なベルの音が響いた。 その瞬間、彼は圧倒されるような光景に直面する――見渡す限りの繊細なビスクドールに、ミニチュアの家具、そして数えきれないほどの小さな服。
パステルカラーに彩られた店内は、全身黒ずくめで険しい表情を浮かべたエイドリアンと、これ以上ないほど激しく衝突していた。客のほとんどは女性か子供で、彼が足を踏み入れた途端、あちこちで視線が釘付けになる。
背が高く、冷たい空気を纏った美青年が……ドールショップに? 一体、何の冗談だ?
「あらまあ! もしかして、妹さんへのプレゼントをお探しですか?」 店員の女性が、親切そうな目を輝かせて近寄ってきた。
エイドリアンは一瞬、言葉を詰まらせた。嘘をつけばいい。それが一番手っ取り早い言い訳だ。だが、それすらも余計な労力に思えた。 彼は軽く咳払いをして、告げる。
「ドール用の服を。それも、かなりの種類を頼む。あとは……適切な家具と、食器類もだ」 店員の目がキラリと輝いた。「まあ! どんなお人形をお持ちなんですか? サイズはどのくらいかしら?」
エイドリアンは言い淀んだ。そんなこと、なんと答えればいいというのか。 ポケットの中では、ミラが「共感性羞恥」で死にかけていた。無理、無理。どうして彼はあんなに冷淡に、ストレートに買い物を進められるの!?
店員がクスクスと笑う。「ふふ、一度にそんなにたくさん買い込むなんて、よほどそのドールを可愛がっていらっしゃるのね!」 エイドリアンは死んだ魚のような目で、「……まあ、そんなところだ」とだけ答えた。
店内のヒソヒソ話が大きくなる。「あの人、コレクターかな?」「リッチな御曹司の変わった趣味?」「それとも、隠れドール愛好家!?」
そんな中、コートの内側に潜んでいたミラは、見つからない程度に外を覗き見ていた。……そのつもりだった。
通路の向こうから、三歳くらいの幼児がトコトコとやってきた。お菓子のカスで顔をベタベタにしたその子が、ふとコートのポケットに目を向ける。 そして、ピタリと動きを止めた。
ミラは息を呑んだ。緑の瞳と茶色の瞳が、真っ向からぶつかる。 一秒、二秒。 幼児は不思議そうに首を傾げ、パチパチと瞬きをした。
ミラは慌てて硬直し、ショーケースのマネキンのように「人形」になりきった。 だが、なりきりすぎた。あまりのプレッシャーに、思わず瞬きを返してしまったのだ。
幼児は息を呑み、わっと声を上げた。「ママ……あのお人形、いま、おめめパチパチした!」 近くで値札を眺めていた母親が、生返事で答える。「いいのよ、お人形さんは瞬きなんてしないわよ」 「でも、したもん!」 母親は顔も上げずに受け流す。「はいはい、想像力が豊かねえ」
「またした! ポケットの中! 銀色の髪で、おめめが緑色なの! あれと同じのが欲しい!」 母親は相変わらず興味なさそうに、「もうお人形はたくさん持ってるでしょ」とあしらう。 だが、幼い少女は一歩も引かず、獲物を狙うハヤブサのような鋭い視線でミラを凝視し続けている。ミラは硬直したまま、小さな子供の集中力がどのくらい続くものか必死に計算し始めた。
……残念ながら、十分ではなかった。つい、また瞬きをしてしまう。 幼女が息を呑んだ。
エイドリアンはごく自然な動作で、わずかに体の向きを変えた。素早く、かつ悟られない動きでコートを翻し、ミラを視界から遮る。 「おい」 唇を動かさず、彼は低い声で囁いた。「人形なら人形らしくしてろ」 ポケットの中のミラは、息をすることさえ忘れて固まった。
「ママ、お願い! あのパチパチするお人形買って! 魔法のお人形なの!」 ようやく顔を上げた母親は、そこに立つ、魔法の人形とはおよそ無縁そうな男を見て、愛想笑いを浮かべた。「ほら、他のお客様の迷惑でしょ」
カランカランとベルが鳴り、幼女が店を出ていく。 ミラは「ふぅ……」と長い溜息をついた。心境は、ブルーベリーほどの大きさの心臓が今にも破裂しそうなほどだ。 エイドリアンは口元にわずかな笑みを浮かべ、彼女を見下ろした。「次はサングラスでも買ってやるか」
怒涛のセレクションを経て、エイドリアンは大量の荷物を手にしていた。色とりどりのドール服、派手すぎない中型のドールハウス、ミニチュアの家具一式に寝具、そして念のための小さな靴。 店員が笑顔で合計金額を告げる。エイドリアンは無言のまま、カードを切った。 隠れているミラは、少しだけ罪悪感に襲われた。
店を出て、両手に袋を下げたエイドリアンがようやく口を開く。 「あとで高くつくぞ。せめて……貸し一つだ。俺みたいな人間がするには、あまりに過剰な親切だからな」 ミラは申し訳なさそうに躊躇った。「……何かお返し、考えるわ」 エイドリアンは不敵に微笑んだ。わかっていればいい、という風に。
エイドリアンは、ドールハウスとフリル付きの服が入ったパステルカラーの袋を抱え、都会の真ん中を歩く。 表情は相変わらず冷徹そのものだが、内心では、自分をこの瞬間に至らせたこれまでの人生の選択すべてを振り返り、激しく後悔していた。
通りすがりの人々が彼を振り返る。好奇心、あるいは面白がるような視線。 黒ずくめの威圧感たっぷりな男が、ミニチュア家具の詰まった可愛いショップ袋を下げているのだ。 滑稽すぎる。
ポケットの中のミラは、笑いを堪えるのに必死だった。 (……ひどい格好。でも、ちょっとだけ……変な意味でかっこいいかも?)
「……楽しそうだな」 エイドリアンが低い声で言った。 ミラはびくりと肩を揺らす。しまった、バレた。 「な、何も言ってないじゃない!」 「心の声がうるさいんだよ」 ミラは不満げに頬を膨らませたが、それ以上は言い返せなかった。




