妖精理論は三つあるのに、使える解決策が一つもない件
三十分。
そう聞くと、短い。耐えられる。大したことのない待ち時間のはずだった。
けれど、エイドリアンの密閉された研究室の中では——
白すぎる壁、静かすぎる機械、動かなすぎる空気のせいで、その三十分は、薄く引き伸ばされた一生のように感じられた。
ミラは実験台の縁に腰かけ、膝を胸に抱え込んでいる。
裸足の足裏が、冷たく磨かれた鋼の表面にぴたりと貼りついていた。
天井の照明はちらつかない。
警告音が鳴るわけでもない。
それなのに、空間全体が低く、無機質な唸りを立てているせいで、彼女は人間というより、変数の一つになったような気分だった。
エイドリアンはモニターを確認し、解析ストリームを調整し、淡々とデータを書き込んでいく。
まるでこれは日常業務で、
「少女が妖精サイズに縮み、DNAが古代の変化呪文で書かれているかを確かめるために髪の毛を一本差し出す」
なんて状況が、少しも異常ではないかのように。
ミラは膝を抱えたまま、彼を見つめる。
白衣。
手袋。
一切の迷いのない集中。
レンズ越しに反射する、数式と構造図。
——医療スリラーで囁かれる、裏社会の怪しい科学者。
まさに、ああいうタイプだ。
無駄のない輪郭と、冷たいほどの理性。
そこにほんの少しの謎が混じるから、余計に厄介だった。
カウントダウンが始まってから、彼は一言も発していない。
その沈黙が、壁よりも強く、ミラを圧迫していた。
「DNAスキャンでは、タンパク質をコードする領域に大きな異常は見られない」
ようやく、エイドリアンが口を開く。声は静かで、正確だった。
「ただし、非コード領域に構造的な差異がある。
標準的な人類リファレンスには存在しない配列だ。
安定しているものもあるが……最近変化した痕跡がある部分もある」
淡々と、事実だけを並べる。
「断定はできないが、改変、あるいは活性化の可能性が高い。
原因は……あの花だろう」
ミラが何も言わないので、彼は少し慎重な口調で続けた。
「時間経過による変化を観測する必要がある。
何がトリガーになるのか、発作とどう連動しているのか。
十分なサイクルを確認できれば——」
ミラは、ゆっくりと腕を組んだ。
「……要するに、私を実験し続けたいってこと?」
「理解したいだけだ」
顎に力が入る。
「嫌」
低く、はっきりとした声だった。
「私は、あなたのプロジェクトじゃない」
「違う」
即答だった。
ミラは一歩引き、深く息を吸う。
「でも、そう感じる。
私は望んでない。
こんなふうに書き換えられることも、呪われることも。
まして、症例ファイルみたいに扱われるなんて」
声を保とうとしたが、わずかな震えが漏れた。
「助けたいのは分かってる。
あなたがそういう人だってことも。
でも……追跡、検査、遺伝子マッピングなんて言われると、頭が真っ白になる。
息ができなくなる。
ガラスケースに入れられて、割れる瞬間を待たれてるみたいで」
エイドリアンは、遮らなかった。
ミラは少し背を向け、片手で口元を押さえ、それから静かに下ろす。
「……まだ無理」
「今は。こんなやり方じゃ」
長い沈黙。
空気が、わずかに変わる。
やがてエイドリアンは実験台から一歩下がり、声の温度を落とした。
「なら、分かっていることだけで進めよう」
ミラが警戒するように顔を上げる。
「ここで確実に言えるのは——何も分かっていない、ということだ」
彼は彼女を見ず、端末の前に立つ。
「菌は君にだけ作用している。
そして、もっと重要な点として——元に戻す方法が分からない」
ミラの身体が強張る。
「既存研究は存在しない。
バイオアルケミーも、神経調整も、周辺的な遺伝子治療ですら説明できない。
だから……」
彼は、そこで初めて彼女を見た。
「今、頼れるのは——妖精の記録だけだ」
「……待って」
ミラが瞬きする。
「世界一の天才科学者が、本気で妖精の記録って言ってる?」
「冗談……じゃないよね?」
エイドリアンは黙ったままだ。
「エイドリアン。
……人生で一度でも、童話を読んだことある?」
「どうして、読んだことがないと思う?」
ミラは口を開き、閉じ、手を振り回した。
「いや、正しい質問はそっちじゃない。
どうして“読んでる”と思えるのかって話!」
「古文書庫がある」
「メリディアン棟の地下。封鎖フロアだ。
分類は《民間伝承・非科学資料》。
樹皮製本、菌処理皮革、押し花装丁……忘れられた方式で整理されている」
ミラは、彼に二つ目の頭が生えたかのような顔で見つめた。
「つまり……」
「あなた、ヴァーミリオンクラウンに二年いて、
最先端の講義を受け、研究を率いて、人工脳モデルを作りながら——
地下でこっそり童話を読んでたってこと?」
「だいたい、そんな感じだ」
ミラの口が開いたまま戻らない。
今日一日の衝撃——
突然の縮小、謎のキノコ、無機質な研究室、元に戻れないかもしれない恐怖。
それらを押しのけて、これが一番の破壊力だった。
論理と冷静の象徴、エイドリアン・ヴェイルが、
世界最高峰の大学に残った理由が——童話。
二インチの自分か、
ドラゴンと呪いと踊る花の精霊が描かれた本を自主的に読んでいるエイドリアンか。
どちらが現実離れしているのか、もう分からない。
「……おかしい」
これは夢だ。きっと。
ミラは両手で顔を覆い、指の隙間から彼を見る。
「エイドリアン……」
「お願い。夢だって言って」
彼は、光るサンプルを見つめながら答えた。
「この希少菌は、民間伝承では二千年に一度開花するとされている。
科学的には、ハルシュタット太陽周期——約二千四百年周期の極小期と一致する可能性が高い。
今はピークだ。
昨夜のハロウィンの降雪、満月、大気条件……全てが揃った」
少し考え込み、静かに続ける。
「妖精記録では、三つの有力な説がある」
「一つ目は──環境要因だ」
エイドリアンは続ける。
「境界域に根づいた“魔性を帯びた植物”との偶発的接触。多くの場合は菌類だ。この世界と向こう側の帳が薄い場所。君のケースは……かろうじて、これに当てはまる」
そう言いながら、彼は癖のように近くのコンソールを調整する。
「二つ目は、古い記録で“魂の奔流”と呼ばれているもの。呪文や接触ではなく、感情そのものが引き金になる変化だ。
科学的に言えば、情動共鳴。妖精因子を持つ人間、特に感情反応が過敏な個体が、極限状態——喜び、恐怖、強い結びつき——に達したとき、形態の不安定化が起こる。変位が生じる」
一拍、間を置いて。
「そして三つ目は……相互の魔法によるものだ」
「それって、どういう意味?」
「人が、妖精界と縁のある存在と結びついたときに起こる、という説だ」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「血、魔法、歴史——どれであれ。世界の境界を越えるほど強い関係性」
声が低くなる。
「意思。犠牲。
本来あるべき場所の規則を曲げてしまうほどの“真実の愛”」
「……どの記録の話?」
ミラはすぐに返す。
「私、童話なら山ほど読んできた。
縮む=壮大な恋物語、なんて限らない」
言葉が止まらない。
「罰のこともある。呪いのこともある。
飲んじゃいけないものを飲んだり、間違った円に足を踏み入れたり。
妖精の食べ物を盗んだから、って話もあるし、
瀕死の精霊を助けたから、とか、間違った至日に月光を浴びたから、とか」
小さく息を吐く。
「元に戻る方法だって、めちゃくちゃだよ。
夜明けを待つ。愛する人に口づける。元の花を探す。
名前を差し出す。大切なものを置いていく。
魔女と取引する。……それか、戻れないまま終わる」
一瞬の沈黙。
「全部が、ルールを曲げる愛の話じゃない」
エイドリアンは、すぐには答えなかった。
——まだ、話せない。
妖精の記録は、大学最古の翼に眠っている。
そこに置かれているのは、かつてヴェイル家が所有し、守り、翻訳し、
血統の学者にしか解けない言語で暗号化したものだからだ。
彼の一族は、ずっと“境界”と縁を持ってきた。
門、閾、そして人と妖精が重なる微細な場所に適した遺伝子発現。
だが、それは理解しているという意味ではない。
縮小現象はいまだ神話で、
妖精との結びつきについても、口承、書物、詩、歪んだ写本に散らばっている。
ミラの苛立ちは、間違っていない。
彼女の知っている物語も、正しい。
幾世代にもわたって語られ、子守唄に織り込まれ、
同じ歌に五つの結末を知る祖母たちが、灯りの下で囁いてきたものだ。
原義は曖昧。
——それが妖精の論理。
不思議によって薄められた真実。
だから、エイドリアンは何も語らない。
代わりに、しばらく彼女を見つめ、わずかに頷いた。
まるで自分に言い聞かせるように。
「なら、試せばいい」
「物語を知っているのは君だ。
花を探せ。月光を待て。取引を見つけろ」
彼はコンソールから身を引き、
スクリーンの影が顔に揺れる。
「地図はない。
もしこれが物語なら、まだ書かれていない。
だから——君が信じる結末から、始めればいい」
少し間を置いて、声が変わる。
再び、実務的で、静かで、正確な調子に。
「満月は昨夜だった。意味があるなら、もう逃している。
夜明けまで五時間。
今夜の現象を再現するなら、次は明日だ」
シーケンス表示に視線をやる。
「DNAの完全解析は、三時間後に出る」
一拍。
「……というわけで、その間に」
立ち上がり、白衣の裾を軽く払う。
「何か食べよう。それから、ちゃんとした服も」
ミラは、ゆっくりと瞬きをする。
まるで、脳がまだ読み込み中みたいに。
縮んだこと。
仮説の数々。
自分が“何者になってしまったのか”という、底知れない不安。
どれか一つでも、心が壊れてしまっておかしくなかったはずなのに。
それでもエイドリアンは、信じられないほど平然と、
食事と服の話を、木曜の午後の予定みたいに口にする。
——それが、不思議と彼女を現実につなぎ止めた。
そんな静かな可笑しさを残したまま、
二人は研究室を後にする。




