可能性だけでもいい。やってみるって…お願い
けれど──ミラの耳には、もうアドリアンの声は届いていなかった。
その瞬間、彼の棚の片隅に置かれた小さな置き時計が目に入ったのだ。
金色の装飾が施された、小さな美術品みたいな時計。
そしてミラの心臓は、すとん、と音を立てて落ちた。
口が勝手に開く。両手で顔を覆う。
「授業があるの。今朝はグローバル政策予測と危機マッピングの講義なの。」
「アドリアン、わたし、まだ小さいままなんだけど!」
「把握している」
「違うの、そうじゃない──」
ミラは机の凹凸の上で小さな足をばたつかせながら、必死に行ったり来たりする。
「今日の講義は次の予測ブロックの最初なの。アルドレン教授が新しいモデルを公開する日。衛星の資源圧インデックスとAIのエスカレーションまで組み込まれたやつよ。二週間ずっと楽しみにしてたのに!」
アドリアンは椅子にもたれ、彼女の慌てぶりをどこか愉快そうに眺める。
「後で録画を見れば」
「だめ」
ミラは振り向き、必死に言葉を繋ぐ。
「あなたには分からない。彼は予測を“物語”として組むの。データも、判断ノードも──全部、崩壊と生存の物語。最初が聞けなかったら」
声が細くなる。
「途中のページから小説を読むみたいなものなの」
息が詰まったまま続ける。
「ライブで聞かないと温度が掴めない。どこが急所か分からない。アルドレンは罠の変数を言葉では教えない。地図を動かす“間”で教える人なの。わたし、そこにいなきゃいけないの。たとえ姿が見えなくても。チャットで発言できなくても。」
そこで言葉が止まる。
速すぎる思考が限界を超え、ミラはゆっくりと彼を見る。
「アドリアン……」
赤く濡れた瞳で縋るみたいに見上げる。
論理で救ってもらえると、ほんのわずかでも信じたくなる視線。
「あなたは天才でしょう」ミラは震える声で囁く。
「まだ名前もついていない領域を理解してる人。だったら──」
息が詰まる。
「戻す方法、何かあるんじゃないの?」
叫びたかった。
けれど彼女は立ち尽くすしかなかった。
ペンの高さにも届かない身体で、抱えきれない重さを背負って。
それが限界点になった。
「わたし、まだ一学期すら終わってないの」
最初の涙が落ちた。
「やっと入学したばかり。何も手にしてない。まだ政策ラボで手を挙げるだけで緊張する。毎朝、遅刻しないように通学のルートを暗記してる。友達と食べる食堂の隅っこの席が、やっと“自分の場所”になったばかりなの」
両手で顔をこすり、怒りと悔しさと混乱で震える。
泣くという行為すら、この小さな身体には似合わない。
感情が身体の枠を越えていて、どこにも収まらない。
息が乱れ、ひっくり返った声が漏れる。
「何に触れたのか分からない。何が原因だったのか。どんな菌だったのか、幻覚だったのか──でも、こんなことで全部が壊れるのは絶対に嫌なの──」
声が裂ける。
「ここまで努力してきたのに……また“無”に戻るなんて──消えるなんて嫌……!」
もう制御はなかった。
抑えもタイミングも全部消えた。
幼い子供みたいな泣き方をしてしまう。
小さな両手で顔を覆いながら、どうしようもない泣き声をあげる。
それは演技でも大人の泣き方でもない。
積もり積もって、ようやく崩れ出した本当の涙。
顔を上げた時、ミラの目は真っ赤に腫れていた。
余裕なんてない。
隠す壁もない。
守る誇りもない。
「何かあるって言って……」震える声で縋る。
「可能性だけでもいい。仮説でもいい。やってみるって……そう言って……お願い……」
最後の言葉は息と一緒に壊れた。
もう形を保てない。
強く見せようとする余裕なんてひとかけらもなかった。
ミラはただの女の子だった。
あまりにも小さく、震えて、涙まみれで──
まだ何も始まっていない未来を抱きしめたまま、それが掌から零れ落ちるのを恐れていた。




