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極小の生、耐え難き重さ

アドリアンは、コートを胸の前にそっと押さえながら、寮へと戻っていった。


そのポケットの内側で、ミラは必死に布地にしがみついている。小さな指先が、裏地の織り目に食い込む。


「これ、すっごく屈辱的なんだけど」とミラは小声で吐き捨てた。 「わたし、小銭じゃないんだから、ポケットに突っ込まないでよ」


アドリアンは歩調を崩さない。 「掌の上にするか? 丸見えになるが」 ミラはただ、睨みつけるに留めた。 嫌だ。でも──この姿を他人に見られる方が、もっと嫌だ。


寮に着くと、アドリアンはすぐさま机の上を片づけ、希少な標本を扱うような慎重さでミラを置いた。 花弁をまだ身体に巻きつけたまま、ミラは腕を組む。 「第一段階。服。葉っぱで過ごす気はない。ここはファンタジー小説じゃないから」 「現実的な問題だ。解決しよう」


アドリアンは引き出しからパリッとしたハンカチを取り出し、素材を見極めるように目を細めた。そして迷いなく小さなハサミを手に取る。


「ちょ、待って。作るの? 本気で?」

「他に案があるか?」


彼は淡々と切り進め、数回の繊細な調整で、細い糸で即席のチュニックをまとめ上げた。


「……完成度がおかしい。慣れてるの?」

「構造と比率を理解しているだけだ。悩む前に着ろ」


文句をぶつぶつ言いながらも、ミラはしぶしぶ身につけた。腹立つことに、想像よりずっと着心地がよかった。


そこからは本題へ──元の大きさへ戻る方法探しだ。 彼らはミラの行動をすべて逆算し、光、温度、静電気、あらゆる反応を試した。カメラに触っても、何も起きない。縮む直前の詳細も全部話したが、それでも突破口は見つからない。


アドリアンは興味を抑えきれない様子でメモを取り、表情ひとつ変えずに変数を精査していく。


ミラは、半分ブチ切れ、半分「人生って何?」という哲学の淵に立たされていた。


「つまりさ」ミラはついに叫んだ。「私がちっちゃくなったこと、驚きじゃなくて、まずワクワクってことなの?」


アドリアンは背もたれに身を預ける。平坦な声で。 「パニックを起こして、何が変わる?」

「私の気持ちは変わる!」

「それでは研究にならない」

「研究!? わたし、ラボのモルモットじゃないんだけど!」


ミラはあきれて布切れの上に倒れ込んだ。 「もう、絶対あの森には近づかない」


アドリアンはじっとミラを見つめたまま、計算する瞳を崩さない。 「行くことになるよ。君も答えを欲しがるはずだ」


けれど──ミラの耳には、もうアドリアンの声は届いていなかった。 その瞬間、彼の棚の片隅に置かれた小さな置き時計が目に入ったのだ。金色の装飾が施された、小さな美術品のような時計。


そしてミラの心臓は、すとん、と音を立てて落ちた。 口が勝手に開く。小さな両手で顔を覆う。


「授業があるの。今朝はグローバル政策予測と危機マッピングの講義なの」 「アドリアン、私、まだ小さいままなんだけど!」

「把握している」 「違うの、そうじゃない──」


ミラは机の凹凸の上で小さな足をばたつかせながら、必死に行ったり来たりする。 「今日の講義は次の予測ブロックの最初なの。アルドレン教授が新しいモデルを公開する日。衛星の資源圧インデックスとAIのエスカレーションまで組み込まれたやつよ。二週間ずっと楽しみにしてたのに!」


アドリアンは椅子にもたれ、彼女の慌てぶりをどこか愉快そうに眺める。 「後で録画を見ればいい」 「だめよ」


ミラは振り向き、必死に言葉を繋ぐ。 「あなたには分からない。彼は予測を“物語”として組むの。データも、判断ノードも──全部、崩壊と生存の物語。最初が聞けなかったら……」


声が細くなる。 「途中のページから小説を読むみたいなものなの」


息が詰まったまま続ける。 「ライブで聞かないと温度が掴めない。どこが急所か分からない。アルドレンは罠の変数を言葉では教えない。地図を動かす“間”で教える人なの。私、そこにいなきゃいけないの。たとえ姿が見えなくても。チャットで発言できなくても」


そこで言葉が止まる。速すぎる思考が限界を超え、ミラはゆっくりと彼を見る。 「アドリアン……」


赤く濡れた瞳で縋るように見上げる。論理で救ってもらえると、ほんのわずかでも信じたくなる視線。


「あなたは天才でしょう」ミラは震える声で囁く。 「まだ名前もついていない領域を理解してる人。だったら──」


息が詰まる。


「戻す方法、何かあるんじゃないの?」


叫びたかった。 けれど彼女は立ち尽くすしかなかった。ペンの高さにも届かない身体で、抱えきれない重さを背負って。


それが限界点になった。


「私、まだ一学期すら終わってないの」


最初の涙が落ちた。


「やっと入学したばかり。何も手にしてない。まだ政策ラボで手を挙げるだけで緊張する。毎朝、遅刻しないように通学のルートを暗記してる。友達と食べる食堂の隅っこの席が、やっと“自分の場所”になったばかりなの」


小さな両手で顔をこすり、怒りと悔しさと混乱で震える。泣くという行為すら、この小さな身体には似合わない。感情が身体の枠を越えて、どこにも収まらない。


息が乱れ、ひっくり返った声が漏れる。


「何に触れたのか分からない。何が原因だったのか。どんな菌だったのか、幻覚だったのか──でも、こんなことで全部が壊れるのは絶対に嫌なの──」


声が裂ける。


「ここまで努力してきたのに……また“無”に戻るなんて──消えるなんて嫌……!」


もう制御はなかった。抑えもタイミングも全部消えた。幼い子供みたいな泣き方をしてしまう。小さな両手で顔を覆いながら、どうしようもない嗚咽をあげる。それは演技でも大人の泣き方でもない。積もり積もって、ようやく崩れ出した、本当の涙。


顔を上げた時、ミラの目は真っ赤に腫れていた。余裕なんてない。隠す壁もない。守る誇りもない。


「何かあるって言って……」震える声で縋る。

「可能性だけでもいい。仮説でもいい。やってみるって……そう言って……お願い……」


最後の言葉は息と一緒に壊れた。もう形を保てない。


強く見せようとする余裕なんてひとかけらもなかった。 ミラはただの女の子だった。あまりにも小さく、震えて、涙まみれで──まだ何も始まっていない未来を抱きしめたまま、それが掌から零れ落ちるのを恐れていた。

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