最初の異様な兆し
フラミュリナ・オノニディス──(Flammulina ononidis)
晩秋にようやく姿を見せる希少な菌で、冬に入ると動きが鈍くなり、開花までこぎつけるのに何度も失敗した研究班が山ほどいる──そんな説明が教科書のどこにもかしこにも書かれている。
ところが今、この部屋では、まるで別の生き物のように暴れ出していた。
金属棚もタイルの床も一気に飲み込み、太い菌糸の束が枝を広げるように伸びて、換気口や照明へ迫っていく。
この空間にはもう収まりきらない、と言わんばかりの勢いだった。
ノアの視線が、扉の脇にあるプロトコルパネルへ滑る。
画面には異常値が連続して弾けるように表示されていく。
昨日の突然の降雪で一気に温度が落ち、昼の反転で急上昇した。その大きな揺れが、眠っていた成長のラインを一斉に叩き起こしたのだろう。
そして水分量。基質の含水率は五十四パーセントから八十一パーセントへ跳ね上がり、薄灯りの下でも熱帯林のような湿気が広がっている。
ノアが腕を動かすたび、袖の表面を細かな電気が走り、それが喉元へと薄く滑り込んでいく。部屋の空気そのものが帯電しているような感覚だった。
十分ほど遅れてレンが駆けつけ、扉越しに部屋を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「……何が起きている?」
扉に近づいただけで室内の空気が触れたのか、声の終わりがわずかに震えていた。
ノアはこめかみに手を当て、息をゆっくり吐き、重い鼓動を押さえ込むようにして言う。
「見ればわかる」
レンはゆっくりと前に進み、膨れ上がった菌糸の層にブーツの先が触れる。
「記録しないと。明日の朝、学部に報告する」レンはスマートフォンを構えながら言った。「聞いたことがない現象だ。条件だけ見れば教科書どおりなのに、この規模は……」
言葉を失いながら棚のまわりを回り込む。「ここまでの広がりは説明できない」
ノアのそばで立ち止まり、盛り上がっていく菌の群れを凝視する。
「この数のフラミヌリナ、どう扱えばいい?」
ノアは短く考え、落ち着いた声で答える。
「記録を終える。サンプルを採取して保存する。部屋を封鎖する。そしてアルドリック教授へ報告書を送る。朝一で緊急会議だ」
「ノア」
レンが呼ぶ。片手でスマートフォンを構え、もう片方の手でレンズについた霧を拭う。拭いたそばから白い膜がにじみ、画面がすぐ見えなくなる。
「カメラが機能しない」
レンはもう一度拭うが、薄い白膜がまた広がり、像が定まる前に視界を覆ってしまう。
ノアも自分の端末を試す。
「使えない。湿気も胞子も多すぎる。それにこの静電気……機材が持たない」
膨れ上がった菌で満ちる部屋を見つめながら、レンが静かに言う。
「なら手書きで残そう。採取も手順どおりに。信頼できる形で」
二人は温気に満ちた密室の中で手早く書き込み、必要なサンプルを集めていく。
この後に訪れるヴァーミリオン最大の異変が、まだ始まりにすぎないことも知らぬまま。




