小さな怪我が変えた視界
ミラはラウンジのソファに腰を下ろし、両手を膝に添えたまま窓の外をぼんやりと眺めていた。
地面すれすれに残っていた霧は、ゆっくりと持ち上がり、しっとり濃い緑の景色を露わにしていく。
やがて、アドリアンが救急キットを手に戻ってきた。
動きは相変わらず静かで正確だ。
ミラの目の前に膝をつき、無言のままキットを横に置き──そっと彼女の足首を持ち上げる。
冷たいパックが触れた瞬間、ひやりとした感触がすっと浸透して、痛みが緩むのが分かった。
「……よし。そこまでひどくはない。ただ、今のうちにちゃんと冷やさないと悪化する」
ミラは小さく頷く。
心臓がほんの少しだけ早く跳ねる。
距離が近い──それを意識してしまう自分がいる。
アドリアンはいつも落ち着いていて、どこか人離れした温度をまとっていた。
こんな小さな捻挫に、ここまで丁寧に向き合ってくれるなんて、想像もしなかった。
彼は手際よく包帯を巻き、冷却パックが固定されるようきゅっと締める。
表情は変わらないのに、その集中には静かな熱があった。
「……これでいい。しばらくは無理をしないこと」
ミラは一拍おいて、かすかに微笑む。
「……ありがとう」
アドリアンはバッグをまとめて立ち上がる。
「礼はいらない。ただ──次は蜂の巣には近づくな」
乾いた声。
けれどほんのわずか、口元に楽しんでいる色があった。
ミラは思わず吹き出す。
「努力はする」
アドリアンはいつもの静かな佇まいのままなのに──ほんの少し、何かが緩んで見える。
ほんの一瞬でも、彼の境界が下がったのだと分かった。
意外で、けれど悪くない感覚が胸に落ちた。
出口へ向かう前に、アドリアンは振り返る。
「痛みが戻ったら、すぐ言え」
ミラは彼が去る背中を見送った。
足首はさっきより軽い。
そして心は──少しだけ、ざわついていた。
小さな怪我と数匹の蜂で、人の見え方が変わるなんて。
そんなこと、考えもしなかった。




