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蜂の大群に追われて死を覚悟した朝

午前七時。

五階の寮フロアは、まだ眠りの膜に包まれていた。

外の世界は夜と朝の境目に揺れ、初秋のひんやりとした気配が廊下の空気にも滲んでいる。太陽はまだ地平線の下だというのに──遠くの木々の上には、かすかな琥珀色がすでに刷かれていた。

ミラは部屋の扉をそっと閉め、カメラのストラップを首にかけたまま、癖のようにレンズを調整する。

ひとつ息を吐くと、白く消えていく。

こういう朝がいちばん好きだった。世界が、ほんの数分だけ動きを止め、自然そのものが息を潜めているように感じられる瞬間。

廊下の向かい側で、別の扉が開く。

アドリアンが出てきた。

濃い色のジョガーパンツにスレートグレーのトップス。イヤホンはポケットの中。

相変わらず表情は読めなくて、動作は静かで整っている。

ふたりは無言のまま視線を合わせた。

「おはようございます」

ミラがほわっと笑う。

アドリアンは小さく頷く。

「……おはよう」

「ランニング?」

軽い調子で尋ねると、彼はまた頷くだけ。

ミラも笑みを深くする。

「わたしも外へ。朝露が残ってるうちに、かわいい植物撮れたらいいなって。この光がね、完璧なんだよ」

アドリアンは、短く視線を合わせ──何も言わない。

それは拒絶ではなく、ただの“アドリアン”だった。

階段を降りていく。

音といえば、ミラのブーツのコツンという響きと、アドリアンの靴が床を軽く叩く小さな音だけ。

外に出ると、冷気が頬を包んだ。

世界は淡い青灰色で満たされ、低く漂う霧が地面近くで揺れている。

しばらく、ふたりは森へ向かう小道を並んで歩いた。

ミラは時々立ち止まり、露ののった葉や、石垣を這うツタ、まだ完全に見えていない陽光のきらめきを撮る。

白い小花の咲いた低い茂みの前で腰を落とし、シャッターを切ったあと──ミラはスマホを取り出し、植物識別アプリを開こうとした。

「シロツメクサ。 トリフォリウム・レペンス Trifolium repens」

思わず瞬きをする。

ミラはスマホを握ったまま、彼を見る。

「……へぇ」

そして、ふっと小さく笑った。

「ありがとう」

アドリアンは肩をわずかにすくめる。

なんてことない、そんな顔。

彼はまた、朝そのものの一部みたいな歩幅で進む。

小道が丘で分岐する手前──

太陽がついに昇り始め、松と桜の上を金色が満たす。

光と湿気が溶け合って、すべてが、かすかに息づくようにきらめいた。

ミラはカメラを構え、その一瞬を切り取る。

アドリアンは分かれ道の先をちらりと見て、ミラに視線を戻す。

言葉の代わりに、ひとつだけ、ほんの気まぐれにも見える頷きを落とし──

彼は走り出した。

木々と光のあいだに、すぐその姿が溶けていく。

ミラはカメラを下ろし、遠ざかっていく彼の背中を見送った。

森は静かに、しかしどこか微細にざわめいている。

彼の姿が木々の奥へ溶けていくと、ミラは再びレンズに向き直る。

世界が完全に目を覚ます前──その一瞬を捕まえるつもりだった。

小道は背の高い松のあいだをゆるやかに曲がり、朝の薄明かりに包まれている。

霧が地面すれすれにとどまり、縁だけ金色に染まった葉がひとひら、風に揺れた。

ミラは野草が群れて咲くあたりでしゃがみ込み、カメラを構える。

露はちょうどよかった。

柔らかな花弁の上で、まるでガラスの粒のように光を跳ね返している。

もう少し、と身を寄せ、マクロへピントを詰め──

耳元で低いノイズがふっと立ち上がってくるのに、気づかなかった。

ぱち、と弾ける音。

肘が、隣の低い枝にあるゴツゴツした“樹皮の塊”に触れてしまったらしい。

ミラは木の一部だと思っていた。

違った。

巣が、脈打つようにひとつ震え──次の瞬間、弾けた。

黄と黒の、怒りの渦。

まるで生きた嵐雲のように、うねり上がっていく。

ミラの目が大きく見開く。

「ちょ、うそでしょ──」

カメラを胸に抱きしめるように片手で掴んだまま、彼女は駆け出した。

ブーツが地面を叩き、落ち葉が舞う。

羽音はどんどん迫ってくる。

後ろを振り返る余裕なんてない。

もう反射だけで動いている。

角を曲がった瞬間、息が焼けつきそうになったころ──

反対側からジョギングしてくるアドリアンが見えた。

落ち着いて、均整のとれたペース。

イヤホンを入れたまま、シャツには薄く汗が滲んでいる。

視線はもっと先のどこかを見据えていて──

そこへ、ミラが飛び込む。

髪は乱れ、胸は激しく上下し、まるで追い詰められた小動物みたいな目のまま。

止まれない。

「アドリアン、逃げてっ──蜂が──!」

ほとんど叫ぶように、そのまま彼の手首を掴んだ。

彼は一瞬足をもつらせ、顔に驚愕の影が走る。

一拍遅れて──ミラの勢いが、そのまま彼を引きずった。

アドリアンは振り返る。

「──何だ?」

鋭く、しかし抑えた声。

そしてその瞬間、彼も聞いた。

あの低く、怒りで震える羽音を。

彼の眉がわずかに引きつり、角を回って迫る黒い群れを捉える。

「蜂……?」

ミラは手を放さない。

右手は相変わらずカメラを抱え、左手は彼の手首をしっかり掴んだまま。

身長は彼のほうがずっと上なのに、彼女は驚くほどの力で引っ張る。

最初はぎこちなかったステップが、次第にそろっていく。

アドリアンは息を整えながら横目で彼女を見る。

問い詰めたい顔をしている。

しかしミラはただ叫ぶ。

「後ろ見るな!」

「見る気はない」

アドリアンは即答し、そのまま速度を上げた。


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