風の囁きが戻ってきた
ミラは机に向かって座っていた。
腕を組んだまま、ノートパソコンを開いた状態で。
アドリアンとの討論。
最初はワクワクした。
挑発したときは、自信満々だった。
少しだけ得意になっていたくらいだ。
——でも、現実が迫ってくると
胸の奥に、じわっと不安が入り込んでくる。
“本当に通用するの?”
ミラはため息をつき、スマホを手に取った。
ビデオ通話をかける。
数回の呼び出しのあと、父——ハリソン・ラクスパーが画面に現れた。
背景はいつもと同じ。
書類の山。
いくつかの外交旗。
「ミラ。さて、今日は何の御用かな?」
まあまあ冗談っぽい声。
ミラは息を吐いた。
「討論があるの。
その人に挑んだときは自信があった。
……でも今は、勝てるかどうか不安。」
ハリソンは少しだけ背もたれにもたれ、言葉を選ぶように目を細める。
「答えを私に求める必要はないだろう。
君は自分で考えられる子だ。」
「分かってる。
ただ、視点がほしい。」
ハリソンが小さく笑った。
「よし。まず対戦相手を知ること。
“事実で押し潰すタイプ”なのか。
それとも“論理構造を組み替えてくるタイプ”なのか。」
ミラは眉を寄せる。
「——両方。」
「なら、彼の土俵で勝とうとしないことだ。
“自分の賢さ”を前提にしている人間は、
“自分が想定していない角度”に弱い。」
ミラは少し背筋を伸ばす。
「つまり、相手のロジックに引きずられず、
“枠”そのものを変える?」
「そういうことだ。
相手に合わせるのではなく、相手を“動かさせる角度”を探せ。」
ミラはゆっくり頷く。
もうアイデアが回り始めていた。
「……少し楽になった。」
ハリソンの表情が柔らかくなる。
「当然だ。君は私の娘だから。」
ハリソンが腕時計をちらりと見たあと、
ふと思い出したように言った。
「ところでミラ。
今週末、少し出かけてみないか?
気分転換になる。
会わせたい人がいる。
予定がつけば、私も飛ぶ。」
「……旅行?」
ミラは一瞬きょとんとする。
「そうだ。
詳細はあとで送る。」
そのとき——
画面の向こうで肩越しに、別の影がぬっと現れた。
「ミラ!」
母——クララ・ラクスパーがひょいと顔を出した。
「どう? トップランク大学の生活は?
クラスメイトはみんな、恐ろしく頭がいいの?」
ミラは思わず笑ってしまう。
「“恐ろしく競争心が強い”に近い。」
クララは目を細めてにやりと笑う。
「いいじゃない。そういう環境は研ぎ澄まされる。
大学の雰囲気には慣れてきた?」
ミラは肩をすくめる。
「……まあ。
追いつくまでが大変、って感じ。」
クララの表情が少し柔らかくなる。
「それは普通よ。
あなたは慣れる子。
いつもそうだったでしょう?
寮の部屋は? ちゃんと落ち着けてる?」
「まあまあ。まだ荷物の配置考えてる。」
「じゃあ、ちゃんと眠れてる?」
ミラは苦笑いしながら、ほんの一瞬、目線をそらす。
「寝付くまでに時間かかった。
でも……一応、眠れた。」
クララは画面の向こうで角度を変えた。
「そっちはこっちより寒いはずよ。
体調は大丈夫?」
ミラは息を吸い、ゆっくり吐いた。
「うん。……徐々に慣れると思う。」
その後も少しだけ言葉を交わし、
母の “生活リズム気をつけなさいよ” という小言を聞き終えて、
ミラは通話を切った。
ミラはベッドに仰向けになり、
携帯の画面をうつ伏せに伏せたまま枕の横に置いた。
光が視界に差し込まないように。
——寝る時間は早く。
——朝は決まった時間に起きる。
——身体のバランスを整える。
そう決めたのに、最近はうまくいかない。
眠りの入口が、妙に遠い。
暗闇のなか、
また——聞こえる。
遠い森で葉が揺れる音のような、
風がかすかに流れていく気配。
それが、自分の名前を
そっと通りすぎるみたいに思えてしまう。
ミラは毛布を頭まで引き上げ、
胸の奥に膨らむざわめきを押さえ込むように
そっと手を伸ばして、
ナイトテーブルの上の耳栓を探った。
ミラは毛布を頭まで引き上げ、少しでも落ち着けるようにと身を丸めた。
枕元に手を伸ばし、耳栓をつけて、雨音アプリを再生する。
柔らかなリズムが静かに部屋を満たしていく——
それでも、森の葉が擦れるようなあの微かなざわめきは消えなかった。
何年も聞こえなかったはずなのに、どうして今になって戻ってくるのだろう。




