勇者の影、迫る
野島が築いた小さな平穏。
しかしその影に、かつての“勇者”が迫る。
畑で生きようとした魔王の行く末は――。
村での交流も上手くいき、
野島は、初めて心が安らいだ。
だが――
平穏は長く続かぬものだった。
ある日、村人の一人が耳打ちしてきた。
「なぁ、野島さん。
あんた……ほんまに、勇者に目を付けられとらんのか?」
胸の奥が凍りつく。
勇者――
女魔王を討ち滅ぼすために現れた存在。
もし今の自分が生きていると知られたなら、
村もろとも炎に包まれるのは必定だった。
その不安を裏付けるように、
ある晩、村の周囲に不審な影が現れる。
勇者の斥候か、それとも別の冒険者か。
息を切らし、ゴチが駆け戻ってきた。
「魔王様……
人間ドモが“黒い城跡”の方を探ってイタ、逃ゲルか?」
「俺が魔王だって……バレとるか」
野島は顔を覆った。
交易が広がれば広がるほど、
自分の存在は外へ漏れる。
恩を感じる村人たちを巻き込みたくはない。
だが、逃げればすべてを失う。
***
その夜、畑の端でコウが言った。
「俺は信じるよ、野島さん。
あんたが魔王かも知れないけど、
人として生き直そうとしてるんだって」
その“信じる”という一言が、
野島の背中をわずかに押した。
胸に温かな棘のように刺さる。
勇者の影は日増しに濃くなっていく。
村人の中には恐怖に耐えきれず、
「あらぬ疑いを掛けられる前に魔王追い出そう」
と囁く者もいた。
村長は悩みながらも告げる。
「……取引を続けるか、逃げるか。
決断はそなた次第じゃ」
野島は唇を噛んだ。
三十九歳のおじさんが魔王となり、
畑を耕し、村と共に食卓を囲む。
そんな奇跡を、手放せるわけがなかった。
「逃げるのが賢い。せやけど……もう逃げへん。
この畑も、ゴブリンらも、犠牲はたくさんや!」
野島は密かに魔王城に残した配下を気に病んでいた。
出会ったばっかりの俺にために戦って、
気が付いた主が城から逃げ出しとるんだもんな。
「ここが俺の居場所や!」
だが同時に――
それは勇者たちとの、避けられぬ衝突を告げるものでもあった。
***
野島は唇を噛んだ。
三十九歳のおじさんが魔王となり、
畑を耕し、村と共に食卓を囲む。
そんな奇跡を、手放せるわけがなかった。
「逃げるのが賢い。せやけど……もう逃げへん。
この畑も、ゴブリンらも、犠牲はたくさんや!」
野島は密かに、
魔王城に残した配下たちを気に病んでいた。
――出会ったばかりの俺のために戦って、
気が付いたら主が城から逃げ出しとるんだもんな。
「ここが、俺の居場所や!」
拳を握った。
だが同時に――
それは勇者たちとの、避けられぬ衝突を告げるものでもあった。
***
その日、村の朝は静かだった。
露が光る畑の端で、
野島――いや、女魔王となった彼は荷車の点検をしていた。
「今日は麦粉と干し肉。
これでまた一週間は持つやろ」
ゴチたちが整地した交易路は、
森の外れの小さな拠点へと続いている。
村人たちは最初こそ怯えたが、
誠実な取引の積み重ねで、
少しずつ信頼が芽生えていった。
「ほら見ろゴチ、これでゴブリンどもも冬越せるぞ」
「マスター、ヨカッタ。
人間タチニ、悪イコトシタ…」
「それがわかればええ」
野島は微笑み、
荷車を押して朝陽に向かって歩き出した。
――だが、その穏やかな時間は唐突に終わる。
その瞬間、村に“光”が降った。
天を裂くような聖光。
まばゆい輝きの中から現れたのは、
かつて彼を滅ぼした勇者一行だった。
白銀の鎧が朝陽を反射し、
聖剣の輝きが空気を震わせる。
若き勇者レイジが怒りを露わに叫ぶ。
「魔王! こんな辺境に潜伏しているとは――!」
野島が声を上げる間もなく、
聖女リディアが詠唱を開始し、
賢者クライが防御の加護を重ねた。
荷車に積んだばかりの農作物が吹き飛び、
土と光が舞い上がる。
彼らにとって“赤髪の女魔王”は、
災厄そのものだった。
「ちょ、待ってくれ!
俺は――いや、私は……違う、今は襲ってへん!」
若き勇者レイジの剣が、一瞬だけ下がった。
「魔王……お前は城を焼いた悪鬼だ。
だが、この村人の賑わいは……?」
勇者の瞳には、瘴気をまとう“魔王”しか映っていない。
だが、その背後にある――
人の営みと笑顔が、彼の心に迷いを生じさせていた。
しかし、その迷いは一つの叫びで断ち切られる。
「こいつがっ! 夜ごと森から現れ、
畑を荒らすゴブリンを率いてたんです――!」
村人の声。
恐怖と誤解が交じり合う叫びだった。
再び勇者の顔が強張る。
聖剣が構えられた。
「甘言でたぶらかすとは! 証言は十分だ。
魔王、貴様の最期だ!」
野島は静かに首を振る。
「村長に聞けばわかるー!
何も指示もしてへん!
なんなら魔王ですらないー! ほんまに違うんや!」
「俺達は魔王城攻略で、戦士バニングを失った!
今さら泣き言が通じると思うな!」
聖剣が閃光を放つ。
焼けるような痛みが胸を貫いた。
地に膝をつき、野島はかすかに笑う。
「……そっか。やっぱり、俺は人間の敵なんやな」
勇者が動きを止める。
胸から溢れた血が、地に落ちて花のように散った。
赤黒い雫が、露の残る畑の土を染める。
「……ほんま、これがオチか」
その笑みはどこか懐かしく、悲しげだった。
「けどな……
この村での生活は最高やったで。
俺はもう、誰も傷つけたくなかったんや……」
魔王の体は、まだ戦える。
今からでも勇者を道連れにできた。
(野島、このままでは死んでしまうぞ――!)
体の奥底から、
黒い炎のような意識が必死に叫ぶ。
だが、野島はその声に首を振った。
「もうええねん。……俺は、生き直せたんや」
指先に宿った黒炎をそっと消し、
ただの中年男として、静かに息を吐いた。
「あっけなさすぎる……」
勇者が眉をひそめ、聖剣を下ろした。
光が消え、静寂が戻る。
赤髪の魔王は、跪いたまま動かなかった。
「……マスター?」
森の端で見ていたゴチの声が震える。
誰も、彼女の笑みの意味を知らない。
ただその頬には、
満足そうな穏やかさが残っていた。
――おじさん魔王、ここに眠る。
戦わず、奪わず、
ただ“生きよう”とした者の最期だった。
だが、村の空に残る聖光の残滓は、
やがて優しい朝陽へと変わっていく。
ゴチの瞳に映るのは、守られた畑の緑。
野島の遺した芽は、きっと――また、芽吹く。
彼の選んだ“赦しの死”が、次の再生への布石となります。
――おじさん魔王、ここに眠る。




