毒
「別に不思議なことじゃありません。この世の中は他者基準で溢れていますから、それに自分基準が埋もれてしまうことなんて良くあることです。流行だから、みんなやってるからと思って手を出したけど、全然ハマらなかったなんて経験がない人はいませんよ」
確かに。何か無駄に周りに流されたみたいでカッコ悪いけど。
「周りには流されたからと言って恥じる必要はありません。そう言う世の中ですし、むしろ空気が読めているとも言えます。それになりより試せたというのは良いことじゃないですか。その中から本当に好きなものが見つかるかもしれませんし」
なるほど……確かに。
「しかし、そればかりだと何だか自分がないみたいで格好悪いと感じる人もまあまあいるみたいです。厄介なことに“自分らしさ”とか”個性“とかも流行ですからね」
「自分らしさは大事だと思う」
Aはそう言うと、黒羽はゆっくりと頷いた。
「なら、自分が好きなものや自分基準について考えてみてはどうでしょう。自分らしさを大切にするには、必要なことだと思いますよ」
※
面談の後、俺はAと共に帰る途中で“忘れ物をした”と嘘をついてクリニックに戻った。何故ならどうしても黒羽に聞きたいことがあったのだ。
「どうしました?」
「あの、聞きたいことがあって」
幸い黒羽はすぐに見つかった。だが、ここからが問題だ。
「さっきの話の最後の方が気になって」
「気になる?」
ぐっと言葉に詰まる。実はこうして来たくせに何を聞きたいのかははっきりしていないのだ。
「あの話ってあれで終わりなんですか?」
何とか捻り出したのがこんな言葉。いや、何かが引っかかるけど、それが何なのかは僕自身分かってないのだ。
「なるほど。確かに途中でしたね。あなたはそれが気になるんですね」
「はい」
僕が頷くと、黒羽はゆっくりと頷いた。
「なら、お話しましょう。ただ、まだAさんには話しては駄目ですよ。その理由は話を聞けば分かると思いますが」
そう言うと、黒羽は俺を空いている部屋へと誘った。もうクリニックは閉まる時間に近づいているので部屋は空いていたのだ。
(……悪いことしたかな)
黒羽は帰るところだったかも知れない。今度来る時に何か持ってこよう。
「さて、さっき話さなかったのはAさん自身の自分基準の話です。Aさんは他者基準に囚われるあまり自分基準を見失っています」
確かにそうかも知れない。実際、A自身もそんなような話をしていたな。
「実はそれがAさんのしんどさの源泉の一つだと思います。が、まだそこまで話す時期ではないと思いました。それを話せば、Aさんは”失敗した“と思って余計しんどくなるんじゃないかと思ったので」
なるほど。確かにその可能性はあるな。
「まあ、でも実際には失敗とは言えないくらい良くあることなのです。それこそ、Aさをんから見れば“普通”に見える人もしょっちゅうはまっているような類のものなので、これを失敗というと皆失敗だらけですよ」
他者基準で考えてしんどくなることは僕自身、いっぱいある。それにそれは多分、他の人も一緒だろう。ただ……
(Aは特別しんどそうだよな)
他者基準で考え過ぎてしんどくなるのはみんな一緒、これは納得出来る。ただ、その結果というか、あとの経過には違いがあるんじゃないだろうか。
「皆、他者基準でものを考え過ぎてしんどくなる。でも、違いはありますね。しんどくなって何も出来なくなるか、それでも何とか次の日も回していけるか」
続いた黒羽の言葉はまるで俺の心の中を見透かしたようなものだった。
(違い……自信とか?)
だが、黒羽の答えはある意味僕の予想外のもので、ある意味当たり前のものだった。
「それはそのしんどさから抜けられるかどうかです」
なっ……
「他者基準で考えることはある意味毒を飲むのと似ています。飲み続ければしんどくなる。だから、”あ、やべ“と気づいて止めることが必要です。止めずに飲み続ければしんどくなりすぎるのは普通のことで、異常でも何でもありません」
待て待て!
(毒? 僕達は何でそんなものを飲んでるんだ?)
毒を……しんどくなるものを飲み続けるなんてありえないだろ。誰でも直ぐに止めるはずじゃないのか?
「つい止めずに飲み続けてしまうのは、これが毒ではなく周りからは当たり前のものだと言われているからです。さしずめ水道水といったところでしょうか」
なっ……
(でも……なるほど。他者基準で物を考えることは当たり前だと今まで教えられてきたような気がするな)
水道水というのはこう言うことか。いつも当たり前に存在してる。けど黒羽曰くそれは毒。