心のトリセツ
「心のトリセツが欲しい」
そんな言葉がAから飛び出した時、僕は一瞬驚いた。が、同時に納得もした。
(持て余してるってことだよな、心ってやつを)
Aは二十代の女性だ。小中高と特に問題なく普通に過ごし、普通の大学を受験し、普通に合格。そして、この春に大学を卒業。同時に就職した。
(なのに何故……ってことだよな)
そんな普通の生活は就職してから変わってしまった。突然仕事に行けなくなったのだ。
(いや、今から思えば兆候はあったよな)
いつも追い詰められたように余裕のない顔、口を開けば“このままじゃ駄目だ”のオンパレード。後で聞いた話によれば不眠にも悩まされていたのだとか。
(最初はブラック企業なんじゃと思ったけど……)
Aが勤めていた会社──現在は休職中だ──はブラック企業とまでは言い切れない会社だ。勿論、全くのホワイトではない。仕事も多いし、休みは取りづらい。だが、そのせいでAがこうなったかというと……難しいところだ。
(とにかく原因は分からないけど、今はクリニック通い……それが駄目とは思わないけど)
そう。具合が悪ければ病院に行くのは当たり前。だが、問題なのは何故Aが他の人のように普通に働くことが出来ないのかが分からないことだ。
(原因が分からなければ、解決のしようもない。だから──)
トリセツが欲しいのだ。ままならない心を思い通りにするためのトリセツが。
「トリセツですか。つまり、どうしたら上手くいくか、普通にやれるかが知りたいってことですね」
そう言ったのは僕達の目の前にいる年齢不詳の男、黒羽だ。実は今、Aは面接を受けている。黒羽はこのクリニックのスタッフなのだ。
(この人……何者なのかな)
ちなみに僕が同席してるのは幼馴染であるAに頼まれたからだ。
「そうです! しなきゃいけないことは分かってるんです! でも、どうしてもその気になれないんです!」
この訴えが理解出来る人と出来ない人がいると思う。でも、Aの顔は真剣そのもの。本当にそう思い、悩んでいるのだ。
*
「……で、心のトリセツってあるんですか?」
Aが帰った後、僕は黒羽を見つけてそう尋ねた。別に付け回したわけじゃない。もし、もう一度見つけたら聞いてみようと思っただけだ。
「何故ですか?」
何故? ああ、何で“心のトリセツがあるのかないのかが知りたいのか”ってことか。
(質問を質問で返すことが多いよな、この人)
別に○○人みたいだとかいいたい訳じゃない。それに理由も何となく分かってる。
「あの面接の中では、結局心のトリセツがあるのかないのかは言ってくれませんでしたから」
これは嘘ではない。が、実は本当の理由でもない。
「なるほど、確かに」
黒羽が僕の内心に気づいたのか気づいてないのかは分からない。が、彼は足を止め、俺の方を向いた。
「じゃあ、あなたは”心のトリセツ“みたいなものがあると思いますか?」
何だって?
「感情を自在にコントロールする……例えば、場面によって感情を切り替えたり、ふさわしいものに変えたりする、そんなことが出来そうですか?」
いや、無理だろ……と最初に思ったのは僕自身には出来ないからだ。でも、何かが引っかかった。
(いや、心のトリセツがあるかないかと僕の場合がどうかって何か関係ないんじゃ)
つまり、僕が感情をコントロール出来るかどうかと心のトリセツが存在するかどうかは関係がないんじゃないかということだ。
「いや、僕には無理ですけど」
そう答えると黒羽は面白そうに笑った。
「なるほど。あなたは多数派ですね」
「……?」
うーん、この人何を言ってるんだ?
「あなたは自分には出来ないが、感情をコントロールする方法があるかもしれないと思ってるんじゃないんですか?」
「ええ、まあ」
まあ、黒羽の言う通りだ。
「それは何故……と聞きたいところですが、止めましょう。そろそろ私が喋らなければいけないでしょうし」
まあ、確かにそろそろ質問されることにも飽きてきたな。
「心のトリセツ、もしくは感情を自在にコントロールする術があるかどうか……申し訳ないがその答えは一旦置いておいて、みんながみんな出来てる訳じゃないですよね」
そりゃそうだ。実際僕は出来てないし。
(まあ、出来てそうな人ならいるけどな)
凄い人の中には本当に上手に感情をコントロールしている人がいる。その種の人の話はAの口からもよく出てくる。憧れや自分との比較対象としてよく……
「でも、本来はそれで良いんです。思い通りに行かなくて、非効率的で、不安定で、確実性がないのが心というものなんです」
なっ……
「だけどそれとは反するもの、つまり心を思う通りにコントロールしたり、効率的に動かしたり、安定させたり、確実に動かしたりということを考えることも当然のことなんです……特に現代社会では。そこに答えがあります」
答え……それは……