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Verdict









───絶望。

俺の人生からついて離れないないもの。

うんざりだ。どうしてこんなどす黒い感情を抱えながら生きなければならない?

生きるとは、こんな残酷なことを指すのか?

であれば、俺は生きている間に絶望を抱えたのではない。

むしろ逆だ。

俺の方が、絶望に生かされているのだ。

絶望が、俺の人生を抱えてこの世に産み落とされたのだ。

俺だけじゃない。

この星に生きるすべての人間が、絶望を育む苗床として生を授かったと言っていい。

そうでなければ説明がつかないだろう?

社会が豊かになればなるほど、人々は抱える絶望を増やしていく。

日本の幸福度を知っているか?

日本の幸福度は、開発が進んでいない多くの発展途上の国よりも低い。

物質的な満足だけでは、この絶望は減りやしない。むしろ持つ者と持たざる者の差を作り、そこに階級が生まれるだけ。

だからこの世から絶望が無くなることなんてないし、それに耐えられるものは栄え、耐えられなくなったものは脱落していく。

そう、俺たちは、絶望するためだけに生かされている───










「おい、大丈夫かよ? 顔色が悪いぜ?」うっすらと目を開けると、そこには最近特に見たくない顔があった。

「ったくお前は放課になるといつもそうやって腕組みながら寝るよな。違いと言えば下向いてるか上向いてるかだけ。クラスメイトと話したりとかしねーのかよ。」

「黙れ。俺はこの時間を使って、少しでも脳を休ませたいんだ。でないと、あまりに脳を酷使しすぎて、本当に頭がいかれるんじゃないかと不安になるんだよ。」

「はいはい、それは失礼しました。でもさ、今日は本当に顔色悪そうだったから、あんま無理はすんなよ?」目の前の男はそういうと、俺の前から立ち去りどこかへ行ってしまった。

進級してからこの男───名を山田雄彦という───は、俺と席が一つ前だというだけで、やたらと仲良くしようとしてきた。この男もそうだが、進級したり進学するたびに出てくる、席が近いもの同士から仲良くなるという考えは、一体どこから来るものなのだ。別に席が近いことと人間的な相性の良さに相関関係はない。にもかかわらず、クラスが変わると常にこの男のような奴が現れてくるのだ。しかも今年はクラス担任の方針で、席替えはせず一年間通してこれでいくと決まってしまったから、五月中旬の今でも相変わらずこの男は俺の前の席にいる。まったく、鬱陶しいにもほどがある。俺はただでさえ絶望から一時退避するためにこの放課の時間を使っているのに、この男のせいですぐにまた絶望のある世界へ引き戻される。脳が空間を、時間を認識している間は、常に絶望が隣り合わせなのだから、脳を使う必要性のない時くらいその絶望から逃れようというのは至極当然の発想なのに、なぜかそれをあの男は理解してくれない。訳を話しても

「おいおい、いくらなんでも考えすぎなんじゃない? 絶望が隣り合わせだって、お前には絶望が物理的に見えてんのかよ?今お前の真横にいたりするのか?」

と言われてしまって終わった。

というのも、この山田という男は致命的に頭が悪く、また、青春を“あおはる”とでも呼びそうな、典型的な根明の男なのである。そのため、この男には何を話しても無駄だったのだ。

あるいはこれも、ある種の絶望だとでも言うのだろうか。つまり、この男は俺をむりやりこの絶望の溢れる世界に引きずり戻すことで、俺に絶望をいち早く思い出させる存在であるから、まさにこの男自体が俺にとって絶望である、ということだ。

ああ、本当に嫌になる。どうしてこんなにも絶望を抱えながら生きなければならないのだ。そもそもおかしな話だ。人は、生きている間に感じる幸福や希望の数よりも、さらに多い数の絶望を感じながら、それでも生きているのだ。いくら稀に幸福に見舞われることがあるからと言って、その幸福が訪れるまでに数えきれないほどの絶望が襲ってくるのだから、釣り合っているとはとても思えない。とはいえ、そんな風にして生きるくらいなら、いっそ死んでしまった方がよさそうなものだが、そう簡単にはいかないから、人生は絶望に満ちていると言えるのだが。

皆、心の中では分かりきっている。今すぐに死んだ方がずっと楽だと。だが、肝心の死ぬだけの勇気を、人々は持ち合わせていない。心では死にたいと思っていても、動物としての本能がそれを忌避する。本能にとって、生きることに意味があるのかなんて問いは、大した問題ではない。ただ我々に、生きろと命じる。それが、人々の本望ではないにも関わらず、本能にとってはやはり些末な問題なので、生きることを強制してくる。

生き地獄などという言葉があるが、まさにその通りだ。死にたくても死ねない。死んで落ちるのが地獄のはずなのに、実際は、今いるこの現実こそが地獄なのだ。そしてそれこそが、人生が絶望に満ちていると考えられる最大の要因であり、これがために、俺の脳は現実を知覚している間、絶望をすぐそばに感じざるを得ないのだ。

くそったれ。気づけばまた絶望について考えていた。こうなるから放課の間くらい寝ていたいというのに…!

「───えーそれでは、放課が終わりましたので、そろそろ授業を始めます…」

あれこれ考えていた間に、国語の教科担任の男が、授業が始まったにも関わらずまだ騒がしい教室に向かって、一人で喋りだしていた。この男の授業は壊滅的につまらないので、生徒側になめられてこうして話しかけても聞き入れてもらえないことがしばしばであった。だいたい、本当に話を聞いてもらいたいなら、もう少し大きな声で喋るべきだろう。授業の時間が過ぎさえすれば本人的には問題がないと考えているのだろうか。であれば、授業がつまらないのも納得がいく。

また、小さな絶望が一つ始まるのか。そう思いながら、俺は仕方なく授業を聞くことにした。


「おーい、もう授業終わりましたけどー?」頭をノートのようなもので叩かれた感触と共に、真右のほうから自分を呼ぶ声がした。

まったく、今度はなんなんだ───まだ眠い目を擦りながら声の方を向くと、そこには隣の席の女、西田真理が呆れたという様子で俺の顔を覗き込んでいた。

「あのさ、放課中寝てるのはともかく、授業中まで寝てるってどういうわけ?テスト作るのはあの人なんだから、少しは話聞いておいた方がいいと思うよ?」寝起き一発目から、西田の“口撃”が始まった。

「俺だって最初はそのつもりだったさ。ただ、あまりにも授業が退屈だったし、第一、いつも言っているだろう。俺はなるべく意識がない状態を保ちたいんだ。

…そうしている間は、絶望しないで済むんだからな。」俺はいかにも不愉快だという感じを存分に醸し出しながら、西田にそう返した。

「はいはい、またあんたの“絶望癖”ね。そんなこと言って、本当はただうとうとしちゃっただけでしょ?」

「何?」俺は思わず聞き返した。よりにもよって俺のこの苦痛を茶化すとは、一体どういうつもりだ。

「だってあんた、自分で思ってるよりよっぽど抜けてるじゃない。あんたはその“絶望癖”のせいでそうせざるを得なかった、みたいな言い方してるけど、そんなの嘘。その根拠だってあるんだから。」西田はやけに自信満々である。

「根拠だと?そんな根拠、一体どこにあるというんだ。少なくとも自分では、思い当る節はないのだが。」こちらも自信ありげに返す。語尾に“のだが”をつけるのがポイントだ。

「例えば去年の修学旅行でも、エレベーターで6階に上がりたいって時に、あんた一人だけ下りって気づかずに開いたエレベーターに乗ろうとしてたし、現金を財布に入れずにポケットに入れてたから会計の時にぽろぽろ落としてたし、その現金だってそもそも最初出発する前に下ろしたことを忘れてさらに余分に下ろしたやつだし、それからえーと…」

「分かった、もういい。俺が抜けている人間であるという可能性について、否定できないことは認める。ただし、あくまで可能性を認めるというだけだ。それ以上のことはない。」

正直ここまで言われて反論する気力すらも削がれてしまっていたが、なんとか食らいつこうと試みた。

「ふーん。あくまで認めないんだ。でもさ、最後に聞きたいんだけど、その校外学習中に下りのエレベーターに乗ろうとするあんたを無理やり引っ張って連れ戻したり、落ちた小銭を一緒に拾ってあげたり、それ以外にも面倒見てあげたのはどこの誰だったっけ?」

「西田真理さんその人ですその節は本当にどうもありがとうございました。」勝敗は決した。気づけば俺は完膚なきまでに叩きのめされていた。油断も隙も無い女である。

「うんうん、本当のこと言えて偉いね! 今日は下校がてら散歩に連れて行ってあげるからね、早く帰る準備済ませちゃおうね♪」西田はすっかり勝ち誇った様子で、椅子に座ったままの俺を見下ろしながらそう言った。

「そんなペットに話しかけるような言い方はやめろ。気色悪い。要は俺と一緒に帰りたいということだろう?お前は本当になんなんだ。俺といたいのかいたくないのか、はっきりしろ。」

「別にあんたとなんか一緒にいたくないわよ。でも、飼い主としてはやっぱり、ペットのことは見過ごせないじゃない?放っておいたらさ、どこかに行っちゃいそうで不安だから。

なんというか、そうやって考えたら私って本当動物の飼育に向いてるな… 将来はブリーダーになろうかしら…」西田は顎に手を当てて、考え事をするポーズをとった。

「おい、あまり俺を本気で怒らせるなよ。俺がその気になれば、お前みたいな小娘、いくらでも言い負かしてそのプライドを───」

「うるさい。支度しろって言ったでしょ?もうすぐ帰りのHR始まるから、それまでに荷物まとめとくなり準備しといて。分かった?」

「…………。」俺は、大人しく帰りの準備をすることにした。


「それにしても、山田の言う通り今日のあんた特に顔色悪かったわね。何かあったの?」

西田が俺の横を歩きながら、ふと思い出したようにそう呟いた。

西田真理、18歳。俺が抱える絶望の一つ。この、制服を過度に着崩したりもせず、一見ただの優等生に見える女───しかしながらその正体はとんでもないサディストである───と最初に出会ったのは、ちょうど一年前だった。

高校二年の始まったばかり、たまたま席替えで隣同士になったのがその最初のきっかけだった。

「…橋本悠也君ね、オッケー、名前は覚えた。私の名前は西田真理。これからよろしく!」西田は席替えが終わり一段落したところで、元気よく俺に声をかけてきた。

「……あ、ああ、よろしく。」まさか一回の席替えごとにこんなに仰々しく声をかけられるとは思ってもいなかったので、その時の俺は思わず返事をするのが遅れてしまった。

西田は顔立ちも整っていて成績も科目問わず優秀だったので、当然だがクラスでは所謂“マドンナ”的なポジションだった。俺の記憶が正しければ、確か高校の入学式で、新入生代表として登壇していた気がする。そのうえ性格も活発で“面倒見がいい”方なので、多くの男子からは羨望の的であった。そのため俺が西田の隣の席になった頃は、一部の同性から殺意の目線を向けられたこともあった。

俺も当初はその程度のイメージだったし、まあ一つの学校に一人はいるタイプの人間だろうという評価だったのだが…


「ちょっと橋本君、ぼーっとしてるけど頼んどいたここの掃除、もうやってくれたの?」

「あ…」

「あ、じゃないでしょ!?なんでついさっき言われたこともできないのよ。ほら、もう時間ないから早く!」

「いや、俺はさっきまで絶望について真剣に考えていたんだ。どうやったら現状を打破できるのかと思索を───」

「はあ?絶望?何を言ってるの。今は掃除の時間なんだから、掃除のことだけ考えて。分かった?」

「あ、ああ…」

みたいなことが起きはじめ───

「橋本君、また消しゴム落としてるけど?」

「ありがとう。考え事をしているときに、つい弄んでしまう癖があってね。それでよく落としてしまう。」

「考え事って、また例の“絶望癖”?」

「随分陳腐な言い方だな。俺だって絶望について四六時中考えたいわけではない。ただ気づいたら考えてしまっているだけなんだ。」

「…橋本君って、最初はただ頭のよさそうな人ってイメージだったけど、かなり抜けてるし中二病だし、よくわからないわね。」

「………。」

そしてしまいには───

「おい、橋本!」

「…なんだ。」

「なんだじゃないわよ、今日日直あんたでしょ?なんでいつまでもぼけーっとしてんのよ!ほら、いったいった!」

「うるさいな。頼むからもう少しだけ寝させてくれ… って、痛った! お前、何をする!」

「あんたが駄々こねてるのが悪いんでしょ? それとも、もう一発食らいたい?」

「分かった、黒板を消しに行けばいいんだな。頼むから暴力はやめてくれ。」

「素直でよろしい。まったく、これだから橋本は…」

気づけば俺は、すっかり西田の管理下に置かれてしまっていた。これが、俺とこの絶望的少女との一部始終である。口でこそ反撃はするものの、結局はいつも西田に負かされっぱなしだった。

くそっ、絶対にその天狗の鼻をへし折ってやる───いつしか俺はそう誓っていた。


「別に具合が悪いとかそういう訳ではない。ただ、いくら寝ていても、夢の中でまで絶望について考えることがあってな。今日のあの放課中は、たまたまそういう日だったというだけだ。」

「はあ… あんたって本当口を開けば絶望絶望って、今日も楽しいこととかなかったの?」

「なかったな。学校にいて楽しいことなんて基本的にない。一刻も早く家に帰れないか、それだけを考えながら生活している。」俺は即答した。当たり前だ。そんなことは、もう何年も前から分かり切っていたことだ。学校だって、俺を取り巻く絶望の一つにすぎない。

「あっそ。 …今日も楽しくなかったんだ、学校。」西田はぽつりとそう呟いたが、その表情はなぜか少し暗い。

「どうした? なぜそんな暗い顔をする? そんなに俺が学校生活を楽しくないって言ったのが気に入らなかったのか?」この疑問は嫌味ではなく本心だった。

「べ、別に気に入らないとかじゃないわよ! 私だってあんたと一緒にいさせられて退屈極まりなかったわ! 変なこと聞くな、このバカ!」これまたなぜか西田は怒りだしてしまった。

「………。」俺は思わず西田に気圧され、黙り込んでしまった。

「………。」俺が何も言わなかったので、西田の方も気まずくなったのか黙ってしまった。

二人して何も喋らないまま通学路を歩いていたが、そこから最初に口を開いたのは西田の方だった。

「あ、あそこにあるのって…」西田が目的のものに指を指しながら俺に話しかけてきた。

西田が指を指す方にあったのは、ずばり猫の死体だった。毛色は黒で、野良猫にしては肉付きがよかったから、誰かの飼い猫だったのだろうか。丸まりながら死んでいるから、恐らく死期を悟った猫が死に場所としてそこを選んだのだろう。背の高い雑草に囲まれているため、それ以上詳しい情報は見て取れなかった。

「………。」西田は黙ってその死体に近づき、しゃがんでじっくり見ようとする。

「おい。あまり近づきすぎるなよ。どんな細菌を持ってるかも分からないし。」俺はそう言いながら、歩道から離れていく西田を追いかけた。

「…この子、雨に晒されてかわいそう。ずぶ濡れじゃない。」西田はひとりごちた。今日は小雨が降っていたため、猫の死体には水に濡れた光沢があった。

「ああ、そうだな。」西田の普段の尊大な態度からは想像もつかないほど小さくなった後ろ姿を見ながら、俺はそう答えるしかなかった。

「なんか、あの日を思い出すわね。 思い出すたび、小っ恥ずかしくなってあんたのこと殺したくなるから、嫌なんだけどさ。」西田はため息交じりに口を尖らせた。

「…………。」西田の言う“あの日”がなんなのか分かってしまった俺は、どう返事をすればいいか分からなかったので、黙っておくことにした。


あれは、今日と同じ雨の日のことだった。時期としては、高校二年の二学期か。雨脚の強さは今日以上で、ほとんど土砂降りと言っていいほどだった。

普段なら別にそんな日に外出する必要もないのだが、その日はどうしても欲しいゲームの発売日だったので、仕方なく家から一番近いゲーム屋に行ったのだった。

欲しいゲームも無事購入し、満足して家に帰る途中、目の前に傘もささずにとぼとぼとこちらに向かって歩いてくる女の姿が目に入った。その女というのが、他でもない西田であった。

その日は日曜日で学校は休みだったから、西田は私服だった。乱れた白いブラウスに、青のスキニーという格好だった気がする。雨に濡れて、ブラウスの下からは下着が透けていた。

西田は下を見ながらふらふらとかなり危なげな様子で俺の横を通ろうとしていたので、俺は思わず声をかけた。

「おい、西田? どうしたんだ、こんな雨の中傘もささずに…」

「話しかけないで。あんたには関係ないでしょ。」西田は俺の呼びかけに対して疎ましい様子でそう返事をしたが、その様子からは普段の喧嘩腰で気の強そうな感じは見受けられず、むしろこれ以上私に干渉しないでくれという弱気な印象を受けた。

「そういう訳にもいかない。見かけてしまった以上、それを見て見ぬふりをして放っておくことは出来ない。そんなことをしたら、また俺の心の中に絶望が一つ増えることになる。俺は、これ以上自分の中に抱える絶望が増えたり、誰かが抱える絶望が増えるのを見るのは嫌なんだ。

お前がどれだけ嫌がってたとしても、関係ないからな。」俺はそう言いながら、自分が使っていた傘を西田に差し出した。

「無論、だからと言ってお前が俺のことを心底嫌いなのは知ってる。だから一緒に寄り添ってあげようだの、話を聞いてあげようだの、そんなことは考えていない。ただ、この天気の中何の対策もせずに出歩くのは、風邪をひく恐れがある。この傘を貸してやるから、今日はそれをもってまっすぐ家に帰れ。いいな?

俺の心配ならいい。どうせ家はすぐ近くだし。」

「橋本…」西田は驚いたようで、目を丸くしていた。俺に差し出された傘を受け取り、ぼーっとしていた。

「はっ、西田にしては素直だな。でもそれでいい。傘は明日返してくれればいいから。じゃあ、俺はこれで…」俺は西田にそういい、家の方向へ歩き出した。

「ねえ、橋本。」西田が家に帰ろうしていた俺に、後ろから声をかけてきた。

「なんだよ、傘を貸したとはいえ、俺だって濡れる方がいいってわけじゃないんだぞ?」買ってきたゲームのパッケージが濡れないよう、ビニール袋の持ち手を縛って中を密閉しながら俺は言った。

「あのさ、あんたさえよければなんだけど…」西田はやはり普段とは違う様子で、たどたどしそうにしている。

「あんたさえよければ、このまま、私の話を聞いてくれないかな。」西田は下を向いて、その頬が赤くなっているのを俺に見られないようにしながら、消えてしまいそうな声で呟いた。


俺と西田は一つしかない傘に二人で入りながら───俺はともかく西田はこんなところを通行人に見られて恥ずかしくないのかと疑問に思ったが───会った場所から少し離れた小さな公園に向かった。その公園には場違いなほど大きな木が生えており、枝もその枝に生えた葉も立派で、多少の雨粒の侵入に目を瞑れば雨宿りには最適だった。

俺と西田はその木の大きな幹にもたれながら、横並びになった。まさか西田に呼び止められるとは思っていなかった俺はこの状況でどうすればいいのか分からず、とにかく西田が話を切り出すのを待つことに専念した。

「…私ね」公園についてからどれくらい経っただろう。遂に西田が口を開いた。

「私、実はお母さんと喧嘩しちゃって、それで思わず家を飛び出してきちゃったんだ。」

「私のお母さんってね、普段は優しいんだけど、私の成績とか進路のことになるともの凄く厳しくてさ。今日もこないだの模試の結果を見て、お母さんが私のこと責めてきて。私だって真面目に勉強して、油断なんて絶対にしたつもりなかったのに、『最近の真理は勉強以外のことにかまけてだらしない』、って… それで私もついカっとなって、普段だったら言わないようなことを言っちゃってさ。そこからはもうずっと口論。お父さんもどうしたらいいか分からなくて、全然仲裁にはいってくれなかったの。」

「…勉強以外のこと、というのは?」俺は話を聞いていて素直に疑問に思ったことを聞いてみた。

「さあ、それが実は私にもよく分からなくて… でもお母さん曰く、ここ最近は特に勉強中上の空になることが多いんだって。二年生に上がったくらいかららしいんだけど…」どうやら西田本人にも分からなかったらしい。

「そうか… すまない、話の腰を折ってしまって。続けてくれ。」

「私のお母さんはさ、受験生の時に、かなりの難関大学に挑戦したらしいの。でも結果は不合格。第二志望の大学に通うことにしたんだけど、結局、卒業するまで悔しくて堪らなかったんだって。」

「社会人になってから出会った同じ会社の同僚、つまり今の私のお父さんと結婚して私を産んだ時に、思ったらしいの。絶対にこの子にはそんな思いはさせないって。だからお母さんは私の成績の話になると、やたらとうるさくてさ。

もちろん、お母さんにとって私が大事な存在だからっていうのは分かるよ。でも…」そこまで言って、西田は我慢できなかったのか泣き出していた。

「それってさ、娘として産まれてきたのが私だから、お母さんはそこまで成績にこだわってくれてるのかなって、少し思うんだよね。もしかしたら、私がいい成績を取っていい大学に入るよう促すことで、自分の遺伝子が劣ってたわけじゃない、つまり自分は周りの人間よりも劣ってるわけじゃないって証明したいだけなんじゃないかって。

お母さんは私に、その願望を叶える器としての属性以外、何も感じていないんじゃないかって思うんだよ。例えば、今から時間を戻してもう一回子供を産み直せるってなったら、お母さんは私より優秀な子供が産まれてくるようにやり直すのかな。親だったら、『産まれてきたのが今ここにいるあなたでよかった』って言ってくれると思ってたけど、私のお母さんは本当にそう言ってくれるのかなって、そのことについて考えだしたら、私…」西田は口を開くたびに表情が暗くなっていった。泣きながら喋っていたから、息も絶え絶えになりながら言葉を紡いでいた。

「はっ、私のことを心配してこその行動なのに、お母さんを疑うとか、本当親不孝者ね、私。

この絶望も、私みたいな人間にはちょうどいいわ。ふっ、ふふふ。」西田は自嘲気味に、そう吐き捨てた。

「親だからと言って、無条件に尊敬したり許したりする必要は決してない。

全ては、西田がどう思うか次第だ。」俺は西田の発言がどうしても気に入らず、はっきりとした態度でそう言った。

「なんで? 相手は実の親で、私の面倒を見てくれた人なのよ?そんな人をみすみす裏切る訳には───」

「だったらなんだというんだ。血が繋がってるからなんだ。面倒を見てくれたからなんだ。

援助を受けた者は、その相手に一生畏敬の念を抱かなければならないという法律でもあるのか?

別に、最悪縁を切りたいと思ったならそうすればいい。」

「そんな、いくらなんでも恩を仇で返すようなものじゃない!」西田は気づけば泣くのをやめ、いつもの調子で食らいついてきた。

「……今西田が言ったようなことを子供は思わざるを得ないことこそ、俺の意見の最大の根拠なんだ。

子供って言うのは、家族というシステムの構造上、弱い立場になりやすい。金銭的にも精神的にも、あらゆる意味で親に頼らざるを得ないからだ。だから子供の方は、精一杯親に報いようとする。親の望むような子供になろうと努力する。

だが、これはおかしいことだと思わないか?勝手に子供を産んだのは親の方なのに、どうして子供の方が親に気を遣って振舞わなければならない。いくら親の扶養に入っているからって、そんな恩着せがましい話があるか。まして親の方が子供に対して生き方や役割を押し付けるなど、言語道断だ。そんなものは、本当に子供を思ってやってることじゃない。ただのエゴだよ。」

「もちろん今は別にそこまで母親のことを本気で疎ましく思っているわけではないだろうが、今後もしもうこの人と一緒にやっていけないと思ったなら、容赦なく縁を切るべきだ。

そのことを経緯と共に説明したところで、社会からは『相手は肉親なのにそんな態度をとるなんて失礼な』と批判されることもあるだろうが、気にするな。そんな連中は、きっと西田ではなく母親の方に同情しているのだ。自分のことを考えていない人の意見に、耳を傾ける必要はない。

それに、西田ほど優秀な人間が、母親一人に縛られて生きづらさを感じることになるなんて、社会にとっても損失だろう。俺だって、目の前で人が絶望に苛まれるのを見るのはごめんだ。」俺は少し喋りすぎてしまったかと後悔したが、それでも思ってることはすべて言った方がいいだろうと判断し、最後まで言い切った。

「…今日初めて話したのに、随分言ってくれるわね。何様のつもり?」案の定西田は俺に言われっぱなしだったので、少々ご立腹らしい。

「そうだな。大分言いたい放題だったかもしれない。西田がどう思ってるかなんて、俺には分からないからな。当事者じゃない俺の視点から、このことを完璧に理解するのは難しい。今の西田は、それだけ繊細な問題の渦中にいるということだ。

だから逆に言えば、西田がこのことで悩んだり苦しんだりしても、それは西田が人間的に弱いからというわけではないのは覚えておいてほしい。自分を責めたりしなくてもいい。親子関係の問題というのは、人生を取り巻くあらゆる絶望の中で、最も深刻なものの一つなんだからな。」俺はそう言い、とにかく西田の中にある絶望を少しでも取り払えないかと心の中で模索した。

「……本当、毎度毎度偉そうな態度だよね、あんた。」西田は俺の話し方にまだ不満な様子だった。

「……でも、このことを人に話したのはあんたが初めてだから、それでも少しは楽になったかも。そういう意味では、その…

ありがとう。」西田の表情がそれまでよりも少しだけ明るくなったのを見て、俺は安心した。

「別に礼を言われるようなことはしていない。俺はただ、日ごろからあらゆる絶望について思案し続ける者として、家族関係の絶望に関する見解を伝えただけだ。」

「何それ、またいつもの“絶望癖”?」西田は普段通りの俺を小馬鹿にした態度でそう言ってきた。

「その言い方はやめろと言っているだろう。俺は真剣なのに、安っぽい表現はしないでくれ。」俺は西田に軽口を叩かれため息交じりにそう言ったが、内心ではいつもの様子に戻ってくれて安堵していた。

気づけば雨は止み、雲が割れてそこから光が差し込んでいた。雨上がりのお決まりの光景は、俺には内に抱える絶望から少しだけ解放されたであろう西田の心を表しているように思えた。

「そろそろ帰ろっか。」景色をしばらくぼーっと見ていた西田が俺より先に口を開いた。

「ああ。ただ、大丈夫なのか?家に帰ったら、母親とはどうするつもりだ?」

「そうね… とりあえず、家を飛び出しちゃったことを謝ろうと思う。そこからは、お母さんの反応次第かな。」西田はどうするべきか既に結論を出していたらしい。苦しいところからすぐに立ち直るだけの強さを持ち合わせているのは、勝気な性格の西田の強いところだなと思う。

「そうか。でも、無理はするなよ。憎たらしいのは事実だが、西田のおかげで学校にいる間助けられてるのも事実だからな。そう簡単にいなくなられても困る。」

「相変わらずの上から目線と中二病っぷりね… やっぱりさっき感謝したのは取り消そうかしら。」西田は終始俺を睨みながらそう言ったが、言い終えた後一瞬微笑んだことを、俺は見逃さなかった。


「なんでこの子のこと見てあの日を思い出したんだろうって、自分でも考えてたんだけどね。」俺が一通り過去を思い返すのが終わったのとほぼ同時に、西田が小さな声で呟いた。

「なんかこの子がさ、あんたが私のこと見つけてくれなかった場合の私に感じられたの。

あのまま雨の中をずぶ濡れになりながら彷徨い続けて、この子みたいに人気のないところでうなだれて、最後には死ぬしかなかったのかなって。

もちろん大げさな表現だし、感傷だよ、こんなの。実際には、多分そうなったとしても結局は家に帰ってたと思う。でも今日はあんたが横にいたから、ついそんなことをね…」頭の中の憂鬱な気分も一緒に吐き出すかのように、西田は大きなため息をついた。

「……もう帰ろう。これ以上ここにいても、疲れることはあったとしても、恐らくいいことはない。」やけに大人しい西田を見て段々不安になってきてしまった俺は、早く家に帰るよう催促した。

「そうね。あんたにしては的を得た発言だわ。褒めてあげる。」西田は無理やり不遜な態度を作って、家のある方角に向かって歩き出した。


家が位置しているのがごく一般的な住宅街であり、特別標高が高いというわけでもないので、ベッドから見える窓の景色は、満天の星空とはいかなかったが、それでも俺はこの景色が好きだった。夜の闇、さらにその奥に広がる宇宙は、小さな星がちらほらあるくらいで、後はただ何もない空間があるだけだったが、俺はむしろその何もない空間の方にいつも目が行っていた。この、見ているだけで吸い込まれそうになる虚無の空間は、少しずつ自分の中から絶望を吸い出して、いつかはきれいさっぱり精神を浄化してくれるのではないかと、ついそんなことを思わずにはいられなかった。実際、寝る前にベッドに寝転がりながら窓の外をぼーっと見ていると、少しだけ気持ちが楽になり、まるで脳みその中の絶望のもやが晴れていったような感覚になれる。残念なことに、それも寝て起きたころにはまた充填されてしまうので、根本的な解決にはならないのだが、それでも俺は毎晩寝る前は必ず空の方を見るようにしている。一時でも楽になれるのなら、そうしない手はない。

それでも今日はなかなか落ち着かなった。どうしてなのか一瞬戸惑ったが、すぐにそれが西田とその母親のことを今日の帰りに思い出したからだと分かった。

西田は、あれから母親とうまくやっているのだろうか。あれ以来、母親に関する情報は西田の口からは聞いていない。普通なら、多少のトラブルはあれ深刻な問題は発生していないからだと判断するべきだろうが、西田は負けん気が強い性格だし、プライドも高い。本当はあの後も大きな問題が発生したが、隠しているだけなのではないか。そう考えると、自分に何か出来ることはないか考えずにはいられなかった。

西田にあの時言ったことは本心だ。親が相手だったとしても、決別をする必要があるなら迷う必要はない。ただ、なるべくなら母親ともうまくやってほしいというのもまた本心だった。息子だろうが娘だろうが、母親の存在というのはいい意味でも悪い意味でも子供に影響を与えるものだ。そのことは、俺もよくわかっている。というより、嫌というほど分からされた。

今から三年ほど前、中学3年生の時に、母さんがこの世を去ったときに。

そろそろ寝るか───西田のことを考えているうちに、俺は思い出したくないことまで思い出してしまったので、今日はもう寝ることにした。いくら少しでも多く自分が抱える絶望の数を減らせないかと日々思案し続ける俺でさえ、絶対に克服できないものに関しては、もう意図的に考えないようにしていた。それでも湧き出そうとしてくるが、必死で上から押さえつける。ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じた。


「勉強を教えてやれ…?」西田の突然の発言を、俺は最初理解できなかった。

「うん、なんか山田がね、流石に今年は受験生だから、定期テスト以外の時間も勉強したいんだって。でも山田って頭がいい方じゃないから、私に色々教えてほしいって頼まれたの。

でも私も毎日放課後は家か塾で勉強してないとお母さんに何言われるか分からないし、付き合って上げたくてもできないのよ。だから橋本、私の代わりに勉強教えてあげて。」

「どうしてそうなるのだ。別にそこで西田が断って終わりの話じゃないか。俺がそんなことをしてやる必要はない。」俺ははっきり断った。暇じゃないのは西田に限った話ではない。

「いや~そう言わずにそこをなんとか頼むよ。ほら、ジュース奢ってやるから。な?」山田が前の席から身を乗り出して、物で釣る作戦で俺を誘惑してきた。

「嫌だ。俺だって暇じゃない。それに、物で釣るにしたって、ジュース一本で一体何時間拘束するつもりだ。日本の最低賃金を知っているのか?」

「うわ、橋本、馬鹿で中二病なのは知ってたけど、ここまでケチだとは思わなかったわ…」西田はかなり引きつった顔で、目には失望の色を浮かべていた。俺に心底呆れた様子だった。

「だいたい暇じゃないっていうけど、暇じゃなかったら普段からあんなに絶望がどうたらこうたらなんて言わないでしょ。本当に忙しい人はね、そんなこと考えてる暇なんてないのよ。

いい? あ・な・た・は・、ひ・ま・じ・ん・な・の!」どうやら西田はもはや山田のことなどどうでもよく、俺の精神に攻撃をかけることに目的がシフトしたようだった。

「本当にお前は憎たらしい女だな。こないだ一緒に下校したときは、まるで惨劇に見舞われたいたいけな乙女のような、弱さと儚さを見せていたというのに。その変わりようはなんなんだ?」

「私の様子が弱くて儚そうだったですって…? あんた、私が本当に弱いかここで試してみる?」西田と俺はまさに一触即発だった。

「分かった、確かにジュース一本じゃ釣り合わないよな。何だったらいいんだ?」山田が仲裁に入り、なんとかこの場を収めようとする。

「そうだな。寿司10巻。回転寿司でいい。サーモン10巻だ。それで、ひとまず今日のところは手を打とう。」

「ぷっ。あんだけ格好つけて突っぱねといて、寿司10巻でいいって。それもサーモンだけ?橋本って、意外と舌は子供なのね。もっとグルメなのかと思ってたのに。

……でもそういうところも、見方によってはかわいい。」

「え?か、かわいい…?」俺は西田の口から出た言葉が信じられず、開いた口が塞がらなかった。

「あ……!

…いい、あんたは何も聞いていないし、私は何も言っていない。もしこれ以上追及したら、口の中にチョークの粉を突っ込んで、口腔内で粉塵爆発させるからな!」西田は赤面しながらそう吐き捨て、足早に教室を飛び出していった。

「………?」俺は西田の発言の真意が分からずじまいだったため、口をぽかんと開けていることしか出来なかった。

お前ら、本当に仲がいいな───山田の呆れた声が、後ろから聞こえてきた気がした。


「回転寿司で5皿分なら俺でも払えるし、マジで助かったわ。今日はありがとな!」山田は最終的に俺が協力することになったのが余程嬉しかったのか、満面の笑みである。

放課後にどこで勉強するのかという話になり、俺は高校から少し離れた小さなスーパーマーケットのフードコートを提案した。本来なら放課後の限られた時間は少しでも多く勉強に充てるべきだろうが、学校はもちろんのことそこから近い喫茶店やファミレスは、まず間違いなく同じ高校に通う学生に出くわす恐れがあった。山田は気にならなかったようだが俺は学校以外の場所で同級生と遭遇するのはごめんなので拒否した。このスーパーならそのリスクもないし、またスーパー自体が小さく地元の高齢者が買い物に使うくらいのもので、フードコートも人気が少なく勉強にも集中できるし、端の方の席なら店の迷惑にもならないというメリットがあった。約束した回転寿司の寿司10巻、つまり皿の枚数で換算して5皿分については、また後日時間のある時に奢るということになった。

「だが、西田の代わりが俺で良かったのか?俺も勉強は全くできないというわけではないが、とはいえ西田ほど頭がいいというわけでもないから、あまり期待されても困る。」

「でも橋本ってさ、国語と数学だけで言えばはっきり言って西田以上の成績なわけじゃん。俺が一番教えてほしかったのはさ、ずばりその国語と数学に関してなんだよ。塾に通ってるわけでもないのに、どうしてそんなに高い成績が出せるんだ?」

「おいおい、そんなこと西田の前では口が裂けても言うなよ。もしあいつが今のお前の発言を聞いてたら、きっと『私が橋本に劣ってるところなんて一つもない!瞬間最大風速が私よりも速いときがあるだけ。勘違いするな!』ってどやされることになるだろうからな。」

俺はこの場に西田がいないことなど分かり切っていたが、周りに聞こえないよう声を潜めて耳打ちするように言った。

「ははっ、確かに西田ならそう言いそうだな。気をつける。でもまあとりあえず、実際どうなんだよ。どうやって勉強してるんだ?」

「別に特別何かしているわけではない。数学で言えば、受験に使うレベルの知識ならぶっちゃけ公式や定理の意味を理解していなかったとしても、具体的な使用方法、つまりどういう問題が出てきたときに使えばいいかを覚えていさえすれば、まあなんとかなる。もちろん、公式や定理の証明方法とか存在意義みたいなものを知っている方が、理解は早いけどな。

国語に関して言えば、まあ、こっちの方が数学よりも上達するまでの過程が遥かに難しいんだが、はっきり言ってこれまでの人生経験によると言っていいな。どれだけ本を読んだか、どれだけ映画やドラマ、アニメといった映像作品を見てきたか、どれだけシナリオのあるゲームを遊んできたか、そして単に数の問題だけではなく、その中でも質のいい作品に触れてきたか。受験対策として国語を勉強することは可能と言えば可能だが、その経験があるかどうかは、かなり成績に関わってくるな。」

「評論にしろ小説にしろ、自分以外の人間が思想を乗っけて作ったものから作者の意図を読み取る必要があるが、それは長い年月訓練されないと難しい。特に今は昔に比べて身近な情報を得るのに時間も努力も必要なくなってきてるから、普段から意識的にそういう経験を積んでおかないと厳しいかもしれない。

俺の場合は、小さなときから現実に蔓延る絶望にうんざりしていたせいで、虚構の世界に浸るのが好きだった。そのおかげで、特に意識してなくても自然にその訓練が為されてたって訳だ。」

「そうか… 俺、普段から何見ても面白れーって思うくらいで、そんなこと考えたこともなかったから、今から勉強しても成績を上げるのは難しいのか。」山田はさっきまでとは一転肩を落としてしまい、下を向いてしまった。

「とはいえ、方法論的に勉強することに意味がないわけではない。でなければ、国語という受験科目が、受験生にとってあまりにもアンフェアなものということになってしまうからな。西田は親が厳しいから、勉強ばかりで俺よりも娯楽に触れる機会はなかっただろうが、それでも成績がいいのは、つまりそういうことだ。国語の問題を解くうえで、何かいいメソッドがあるのだろう。それは、明日にでも本人に聞けばいい。」予想外の山田の気の落としように圧され、なんとか励まそうと試みた。

「なるほど、そう言われればそれもそうだな。過去のことは気にしても仕方ないし、早速勉強するか!」山田はそう宣言し、なんらかの試験の過去問の写しを机の上に広げた。

「そうだな。俺も勉強しているから、何か分からないことがあったらいつでも聞いてくれて構わない。」山田が気分を持ち直したのを確認して、俺たちは本格的に勉強を開始した。


「なあ、橋本。」勉強開始から4時間が経過したころ、山田が唐突に口を開いた。

「なんだ?何か分からない問題があったか?」

「問題は大丈夫なんだけど、橋本ってさ、友達っている?」山田は妙なタイミングで妙なことを言いだした。

「急になんだ。今は勉強中なんだから、勉強のことだけに集中しろ。」

「まあまあ。で、いるの?いないの?」意外にも山田は食い下がってきた。

「学校で会話する程度の奴はいたが、学校外でわざわざ会うほどの友達はいなかったな。強いて言えば、フィクションが友達ってぐらいだな。普通の人間が友達と遊んでいる間に、色んな作品に触れて、その展開に感動したり憤慨したり、そんな感じだ。」

「…一応聞くけど、西田は友達なのか?」

「まさか。あいつは俺にとっては……えーと、上手い表現が思い当たらないが、とにかく友達などという生温いものではない。それはきっと、あいつも俺に対して同じことを思っているだろう。」西田との関係性を問われ、返事に困ってしまった。

「ですよねー。ははは…

でもさ、羨ましいな。友達なんていない方が、人生にとって有益だからな。」山田から信じられない一言が飛び出し、どう返せばいいか一瞬戸惑った。

「何?お前、さては自分に友達がたくさんいるからって俺に嫌味を言っているな?確かにお前は根明でモテそうだし友達もさぞたくさんいるんだろうが、俺だってそれ以外の喜びを───」

「いや、そうじゃなくてさ、勉強を始める前、お前は言ってたよな。国語に関して言えば、人生経験の有無が成績に影響するって。これは前々から考えていたことなんだけど、だとしたら俺、今までどうしてもっと人生の時間を有意義に使ってこなかったんだろうって思って。」

「俺はこれまでの人生ずっと、勉強なんて出来なくても自分のやりたいことさえやれればいいと思ってたし、友達をたくさん作れば楽しく生きられると本気で考えてた。俺の友達も皆そうなんだと思ってた。将来に対する不安も、仲間がいれば何とかなるって思ってた。

でもいざ高校三年になって蓋を開けてみれば、俺の周りの連中は次々と俺から離れて行って、各々準備を始めていった。皆自分より頭のいいやつのところにごますりにいったり、俺が将来について真剣に相談したいことがっても、今は時間がないってはぐらかして聞く耳持たない。俺だけだったんだ。将来について考えていなかったのは。

その時俺は思った。ここは学校で、そこに通う学生は互いに蹴落とし合う敵同士で、もし自分の夢を叶えたかったら、自分以外の人間の夢を踏みにじらないといけないんだって。そして俺は、仲間だと思ってたやつらにまんまと出し抜かれて、その勝負に負けたんだってさ。

どれだけ口では『ずっと友達だよ』だの、『僕がついてるよ』だの言っても、本当はピンチの時になっても助ける気なんてさらさらない。ただ甘い言葉をかけて油断させて、すべき努力から遠ざけるよう仕向けているに過ぎないんだ。人を励ますようなことを言っておいて、いざ学年順位で追い越されると途端に態度を翻す。俺が信じていた友情なんてものは、所詮そんなものだったのさ。

だから、俺も高1高2の間、あんなやつらと遊んでなんかいないで、もっと勉強しておけば良かった。そうすれば俺だけが裏切られることもなかったんだ。お前の話を聞いて、改めてそう思ったって話さ。」山田は自嘲気味に、不敵な笑みを浮かべながらそう言った。

「学校や受験というシステムの中で自分の進路を実現することは、他の誰かの進路を諦めさせることでもある。だから、敵同士で馴れ合うなんてのは、単なる時間の無駄でしかない。

ただ、じゃあ俺が今までの人生で経験してきた、友達と放課後遊びに行ったことや、夏休みに普段より少し遠い所に出かけた思い出はなんだったんだ?あれは全部茶番だったのか?もしそうなら、俺はそんな茶番のためにこれまでの人生を費やしてきたってのか?

俺はそう考えだしたら、自分っていう存在には何の意味もなかったんじゃないかって、自分のこれまでの人生はあまりにも無駄が多すぎたんじゃないかって、俺は、俺は…」山田の顔面は徐々に蒼白していき、その肩はわなわなと震えている。

「俺の人生に、意味なんてなかったんだ。 ふっ、ふふふふ、はははは、ははははははっ!

そう、ただあるのは、絶望だけ… 俺に残されたのは、絶望だけだったんだ…」山田は不気味な笑みを浮かべたかと思うと、今度は自分の顔やら首を掻きむしりだした。

「なんで!なんでだ!なんで俺だけがこんな思いに…絶望に…クソッ、クソッ、クソッ!」

「おい、落ち着け!」山田の様子の異変にたじろいでしまい、ただ見ているだけだったが、流石に止めなければと思い、首を掻こうとしている腕を掴んで無理やり引き剥がした。

「いいか、よく聞け。今日のお前は明らかに変だ。よって勉強も中止だ。今すぐ荷物をまとめて帰るぞ、いいな!」俺は山田の肩を持って揺さぶりながらそう言った。

「え…? 俺、なんか変だったか…?」俺に肩を掴まれた山田は、さっきまでの狂気じみた雰囲気を感じさせず、俺の焦りようにむしろ山田の方が困惑しているといった様子だった。

「何? お前、自覚がなかったのか?」俺は次々と変わっていく山田の様子が恐ろしくて、それ以上山田に聞くことが出来なかった。

「ああ。いきなりお前が俺の肩をぐらぐら揺らすから、なんだと思ったよ。

で、なんだ、もう帰るのか?言っとくけど、俺が満足するまで付き合ってくれないなら、契約破棄とみなして、寿司の話はなかったことにするからな。」

「それでいい。今日はとにかく帰ろう。」俺は戸惑いを隠せない山田の代わりに、山田の筆記用具を鞄にしまってやった。

「……? 本当に寿司、いいのかよ…?」山田は最後まで、俺の様子に驚いていたようだった。


翌日。俺は普段登校するよりも早めに家を出て、朝早くから山田が登校するのを待っていたが、今日に限っていつまで経っても山田の姿が見えない。

昨日の山田の様子は明らかにおかしかった。目はうつろで、顔の色は血の気が引いて真っ青、それに時折見せるあの気色の悪い薄ら笑い。俺は山田を知ったのは高校三年に上がってからで、それ以前の様子については知らなかったが、それでも進級してからの2か月弱の間に俺が見た山田は、あんな表情を見せるようなやつではなかったはずだ。

それに、山田が最後の方に言っていた台詞も気になる。

「そう、ただあるのは、絶望だけ… 俺に残されたのは、絶望だけだったんだ…」

これも山田の口から発せられたとはとても思えないし、まさか俺以外の人間まであんなことを言うようになるとは思わなかった。というよりも、あの時の山田は俺以上だった。俺が普段絶望について思案するときよりも遥かに苦しんでいた様子だった。俺はあくまで自分が抱える絶望をどうすればいいかについて考えることが多いが、あの時の山田は、絶望を受け入れ、それに対抗しようとは考えてはいない、そんな感じだった。

嫌な予感がする───俺は一刻も早く山田が現れるのを祈った。あいつが来たら、昨日自分で言っていたことを本当に覚えていないか確認したい。もし覚えていないなら、教員や西田に相談したい。だがそれもこれも、山田が来てくれないことには何も始まらないのだ。

しかしながら山田は朝のHRが始まるまで姿を見せず、代わりにクラス担任が神妙な面持ちで教室に入ってきた。

「えー普段なら、今から朝のHRを始めるところだが、その前にお前らに言っておかなければならないことがある。」そう言うクラス担任の顔色はかなり悪い。

「…山田が自殺した。自宅の自分の部屋で首を吊っていたそうだ。」クラス担任がそう言うと、教室中がざわついた。

『えーあの山田が?』

『でも逆にああいうタイプが結構抱えこんでたりするじゃん。』

『確かに、そのパターンもあるよねー』

そんな内容の喋り声が、クラス中で巻き起こった。

「嘘…だろ…?」俺はそう呟かずにはいられなかった。にわかには信じられなかった。昨日まで一緒に勉強していた山田が、自殺…?

確かに様子はおかしかったが、それも今日あいつが学校に来たタイミングで、なんとか対処法を模索するつもりだったのに。

「…それから、橋本。」クラス担任が今度は俺に向かって何か言いたいらしい。

「お前は、この後応接室に来なさい。職員室の横の部屋だ。分かるな?」クラス担任がそう言ったタイミングで、また教室中に様々な憶測の声が響き渡った。

「え、あ、はい。分かりました…」俺はまだ山田の死が受け入れられず、無気力にそう答えるしかなかった。

「橋本、大丈夫?」西田は俺がしどろもどろになっているのに気づいたのか、心配してくれた。

「ああ、ありがとう。こんな時に心配してくれるとは、西田らしくないな。」

「だってあんた、顔色が真っ青なんだもの。そりゃあ少しは心配したくもなるわよ。

それに、西田らしくないは余計。人が心配してあげてるんだから、素直に受け取りなさい。」この異常事態に茶化さず俺を心配してくれた西田の優しさに心の中で感謝しながら、俺はクラス担任を追いかけて、教室を後にした。


応接室は長さのあるローテーブルとその脇にソファがあり、後は壁に時計がかけられている程度の質素な部屋で、その他に特筆すべきものはなかった。

「失礼します。橋本君を連れてきました。」クラス担任と俺がその応接室に入ると、中では二人の男女がソファに座って待っていた。

「こちらが、山田君のご両親だ。」俺とクラス担任がソファに腰掛けた後、クラス担任が俺に目の前の男女二人を紹介した。

男の方も女の方も、見た目は40歳前半といった具合で、服装も華美なものは着ておらず、山田のイメージとは対照的に、大人しい印象だった。

「どうも、息子がお世話になっていたとか…」父親の方が、俺に挨拶した。

「あ、はい。橋本悠也と言います。」

「じゃあ、雄彦が言っていたのは…」今度は母親が父親に向かって口を開く。

「ああ、そのようだね。

橋本君、雄彦が死んでしまったことは、もう担任の先生から聞いたかい?」

「はい、つい先ほど…」

「雄彦は、実は遺書を遺していってね。あいつの机の引き出しに入っていたのを見つけたんだ。

そこに橋本君の名前があったんだが、なんというか、その…」そこまで言って、山田の父親は黙り込んでしまった。

「……とにかく、君の見解を聞きたい。ひとまずその遺書を読んでくれないか。」山田の父親は折りたたまれた1枚の紙を俺に差し出した。

「はい、分かりました。僕に分かることであれば。」俺は山田の父親から遺書を受け取り、折りたたまれているのを開いて目を通そうとした。

しかしそこには、とてもではないが信じられないものが書かれていた。






















橋本、お前の言う通りだ。

人生にあるのは、絶望だけ。俺たちは、絶望を抱えるために生かされている。

絶望。

絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望

絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶望絶

だから、この真理に気づいたお前も、絶望して死ね。







































「……!」俺はしばらく息が出来なかった。気づけば、遺書を持つ手が震えている。

「うちの雄彦は、橋本君と何かトラブルがあったのではないのかね?」山田の父親が、優しく諭すようにそう言ったが、その瞳が全く笑っていなかったのを、俺は見逃さなかった。

「いえ、そんなことは決して。そもそも僕自身、山田君と知り合ったのは今年からで、対して彼と話すこともありませんでした。彼の方から何度か話しかけてきてくれた時もありましたが、だからといってその時に何か喧嘩したりもしませんでしたし…」俺は進級してからの山田との関係をなるべく丁寧に話した。

「噂に聞くに、昨日雄彦と一緒に勉強していたとか。その時はどうだい?」山田本人から聞いたのか分からないが、山田の父親は俺が昨日山田と会っていたことを知っていた。

「その時だって、僕たちは別に喧嘩したりしてません。ただ…」

「昨日の彼は、明らかに様子が変でした。勉強を始めてから4時間くらい経ったときに…」俺は昨日スーパーのフードコートで起きたことを山田の両親に話した。

「…なるほど、雄彦はその時から様子がおかしかったのだね。確かに雄彦がそんな風になっているところは、私も妻も見たことがない。

ではこの、『橋本、お前の言う通りだ。』というのは?」

「ええ、それは…」俺は日ごろ自分が向き合っている絶望について、そしてそのことを山田にも共有していたことを話した。

「ただ、以前山田君に僕の考えを伝えたときは、山田君はいまいち理解してくれませんでした。だから、お前の言う通りだって、山田君が言うのは意外というか…

そもそも僕のこの主張って理解してくれた人は今まで一人もいなかったし、僕にも山田君がどうして死ぬ間際にそんなことを書いたのか、よく分かりません。」

「そうか… 橋本君にも何も分からないか。残念だが、それが本当だというのなら仕方がない。

だが、最後に一つだけ聞かせてくれ。君は、本当に雄彦に恨まれるようなことはしていないんだね?

少なくとも、遺書に書いてまで死を望まれるほどのことはしていないんだね?」山田の父親は、俺の目を鋭い視線で見つめながらそう確認した。

「はい。僕は山田君に恨まれるようなことはしてません。それは間違いないです。」山田の地親の試すような視線に屈しないよう、俺も相手の目を見据えてしっかりそう言い切った。

「そこまで言うなら、本当にそうなんだろう。君の目を見れば分かる。君は嘘をついていない。それを私たちも信じよう。

では先生、私たちはこれで帰ります。今日はわざわざお忙しい中時間を作っていただだいて、ありがとうございました。」山田の父親はクラス担任と俺に向かって頭を下げ、奥さんを連れて応接室を出て行った。

「…朝から大変だったな、橋本。この時間だともう授業は始まってるだろうから、できるだけ急いで教室に戻りなさい。」クラス担任は張り詰めた空気から解放されたからかほっと一息ついた後、俺に教室に戻るよう促した。


応接室から戻ってきた俺に、真っ先に西田が声をかけてきた。

「ねえ橋本、一体何があったの?

あんた、昨日山田と一緒に放課後勉強したんだよね?その時に何かあったんでしょ?

なんであんただけが担任の先生に呼ばれたの?ねえ、どうして?」

「…………。」俺は、西田にこれまでに起きたことを話すべきか一瞬悩んだ。

突如豹変した山田。そしてその日のうちに自殺したあいつが残した遺書。

『だから、この真理に気づいたお前も、絶望して死ね。』

山田の遺書の最後の一文を思い出した俺は、どうしてもこのどす黒い感情を西田に共有するわけにはいかないと思った。

「いや、なんでもない。ただ昨日俺と山田が一緒にいたってのをどこかで知った山田の両親が、その時どんな様子だったか聞いてきただけだ。

だから、お前が心配するようなことは何もない。」俺は心中の不安や恐怖をなるべく西田に悟られぬよう努めた。

「そう…… なら、いいんだけど。」西田はいまいち納得していない様子だったが、それ以上俺に追及してくることはなかった。


その日の夜、俺はいつものように窓の外に広がる夜の闇を見つめ、絶望から一時解放されないか試した。空の方を見始めてから少しすると、最初は普段通りゆっくりと自分が抱える苦しみや悩みがなくなっていく感覚がしたが、その感覚も次第に薄れていき、結局は元の通りにまた頭の中を絶望のもやが覆った。

やはり、山田の一件がまだわだかまりとして残っているのが原因だろう。俺は、自分以外の人間があそこまで絶望しているところを見たことがなかった。あの時の山田の表情は、まるで悪霊に憑りつかれたようで、正気の沙汰とは思えなかった。

それに、山田の父親のあの俺を試すような目つきと言葉遣い。途中までの、目の前のこの男のせいで自分の息子が死んだのではないかという猜疑心が見え隠れしたあの鋭い視線は、思い出すだけで寒気がした。

そして極めつけは、文字通り絶望に塗れたあの遺書。まさしく狂気の代物であり、ともすれば紙をも貫通しそうなほどの濃い筆圧と乱れた筆跡で書かれた文字は、文字そのものに呪いがかけられているとしか思えないほどだった。

駄目だ、これ以上考えたら本当に頭がおかしくなる───俺は半分パニックになっているのを何とか鎮めるために、目を閉じて眠気がくるのをひたすら待った。


山田が死んでから一か月が経過した。

山田の死について、俺は忘れるよう試みた。そもそも俺とあいつは今年に入ってから席が近かったがゆえに軽く話す程度の仲だったし、確かにあいつの死ぬ間際の様子や遺書からは、絶望について日々思案し続ける俺にとって興味深いものではあったが、それにしたって考えれば答えが出るというものでもないし、俺だって自分が抱える絶望を一つ一つ乗り越えるのに精一杯なのに、そこに山田の死についてまで考えることが増えるとなると、気が気じゃなかった。

それに、あいつのことを忘れてるのは俺だけじゃない。俺以外の人間だってそうだ。最初の方こそ山田がどうして死んだのかクラスの同級生もあれこれ考察していたが、今ではあいつのことを話題にするやつは一人もいない。結局、全部他人事だ。誰だって、自分の絶望と向き合うのでもう限界なんだ。今日も世界は、まるで山田という人間は最初からいなかったかのように、いたって正常に周り続ける。

もうすべて忘れよう───俺は、自分もそういった世界の一員であることに反吐が出る思いだったが、死人についてあれこれ考えても仕方がないのも事実だと、そう割り切ることにしたのだった。


「もしもーし、ぼーっとしてるけど、お昼ご飯食べなくていの?」いつも通り脳を休ませるため寝ていたところを、西田に起こされた。

「…ん、もうそんな時間だったか。」気づけば俺は、四限から昼食の時間になるまでぶっ通しで寝ていた。西田によれば、一か月前から俺のこの癖はより酷くなったらしい。

「本当、あんたますます老化が進んでるわね。これからは、橋本おじいちゃんって呼んだ方が良いかもしれないくらいよ。橋本おじいちゃん、お小遣いちょうだーい。」西田が普段では出さないような甘い声音で、両手をこっちに差し出してくる。

「ふざけるのも大概にしてくれ。大体、人間は一秒経つごとに確実にそれ以前よりも老化しているのだ。分かるか?老化が進んでいるのは、当然のことなんだよ。」俺は西田を思い切り嘲った。

「はいはい屁理屈屁理屈。老化が進んでるっていうのはね、あんただけ周りの人間より年齢を重ねるスピードが速いって意味よ。人は一秒経つごとに一秒分老化してるのは確かだけど、あんたはもっと老化してるって話。

あ、そう考えれば普段の痴呆っぷりも理解できるし、やっぱりそうなんだわ。あんた、脳年齢は60手前とかじゃない?」

「はっ、だとしても構うものか。人は、生きていればいつかは老いるのだ。お前だって今はその美貌を保っていられるかもしれないが、10年20年経った後にもそれを維持できるかどうかは分からないんだぞ。

老化を否定することに意味などないのだよ、西田。老化を受け入れるのだ。」俺は開き直った。

「ちょっと待って、それって、少なくとも今は私のこと奇麗だって、橋本はそう思ってるってこと?」西田が妙なところにつっかかった。

「ん…? まあ、客観的に見てお前が容姿端麗なのは明らかな事実だろう。それは俺が保証する。」

「そうじゃなくて、橋本自身は、どう思うの…?」西田はさらに質問してきた。

「え?いや、まあ、かわいいとは思うけど、そりゃあ。わざわざ聞く必要あったか?」俺は思ったことを率直に言った。

「ちょっ、なにそれ、嬉しすぎるんだけどマジで……

…いや、嬉しいっていうのは、客観的な視点に基づいて私の容姿が優れてるのが証明されたことに対して思ったのであって、あんたにどう思われようが、別になんとも思わないからな!」

「いや、だったらなおさら、なんでわざわざ俺の意見なんかを───」

「ああもう、聞き返してくるな!この痴呆老人が!」西田の顔は真っ赤になっていて、そう吐き捨てた後は、そっぽを向いて俺の方を見なくなってしまった。

どうして今ので俺が責められなければならないのだ───俺は西田の意味不明な態度に絶望しながら、鞄を開いて昼食を取ろうとした。

のだが、鞄の奥の方に手を突っ込んでもそれらしいものがない。俺は普段の昼飯は、朝登校するときにコンビニで買うようにしていた。父親が出勤する前に机の上に500円玉を置いていくのだ。だから俺がこうして鞄の中を漁ったら、本来ならコンビニのレジ袋の感触がするはずなのだが…

「あ…」俺は思わず声を出してしまった。今日の朝は家を出るのが遅く、学校に遅刻しないことを念頭に行動したあまり、コンビニに昼食を買いに行くのを忘れていたのだった。

「何、どうしたの?そんなに慌てて。」さっきまで俺から顔を背けていた西田が、急に俺が声を上げたのに驚いたのか、俺の方を向いてそう言った。

「忘れた。昼飯を買ってくるのを、忘れた。」

「はあ? あんたいつもコンビニ飯なのに、慣れというかルーティンというか、そういうのはないの?忘れることなんてあるの?」

「……今日は普段より家を出るのが少し遅かったんだ。だから、そういう意味では今日は普段通りではない。いつもの習慣に乱れがあってもおかしくはないだろう。」

「はあ… あんたって、何言われてもまず言い訳から入るわよね。それよりも先に、相手の主張に少しでも認められるところがあったら、そこを素直に認めるようにした方がいいと思うんだけど。」

「…そういえば、購買があったよな。そうだ、購買に行くとしよう。」俺は西田の小言を無視した。

「ちょっと、無視すんな! それに、今日は購買は定休日だよ。」

「何!? だとしたら、とうとう終わったな。俺にはもう食うものがない…

……寝るか。」俺は腕を組んで目を閉じようとした。

「………はあ。」その時、横で西田の深いため息の音がしたかと思うと、

「……私のお弁当、食べる?」西田が恥ずかしそうに自分の弁当箱を俺の方に差し出してきた。


「……は?」俺は西田の言っていることが一瞬理解できず、口をぽかんと開けることしか出来なかった。

「だから、今日お昼ご飯忘れちゃったんでしょ?だったら私のお弁当、少し分けてあげてもいいって言ってるのよ。それとも何、私の弁当じゃ何か不満でもある?」

「いや、そういう訳ではないが… いいのか、本当に。

なんというか、俺なんかのために、わざわざ。」確かに西田は日ごろからよく俺の不注意をフォローしてくれるが、流石にそこまでしてくれるとは思わなかった。

「ちょうど今から食べようとしてたところだし、別に気にしなくていいわよ。

それに、飼ってるわんちゃんがお腹を空かせて寂しそうにしてるところとかー、心優しい飼い主である私には見てられないし。」

「……普段であれば食ってかかるところだが、立場を考えて、今はその不遜も許そう。」

「じゃあ、机くっつけよ? その方が食べやすいし。」西田が自分の勉強机を抱えて俺の机に横付けした。

「ええ?いや、それは流石に、周りの目が…」俺は自分たちを見ながらニヤニヤしている周囲の同級生の方を見ながらそう言った。

「何? 意外と橋本って、そういうことを気にするタイプだったんだ。」

「俺が気にしなくても、見ている人間が気にしているのなら同じことだろうが…!」俺は声を潜めて耳打ちした。

「別にいいじゃない、そんなこと。じゃあなに、食べるの?食べないの?どっち?」

「食べます。」俺は即答した。

可愛らしいピンク色の、楕円型の弁当箱の中には、彩の良いおかずが半分と、白いご飯が半分ずつ入っていた。

「なかなか美味そうだな。誰が作っているんだ?母親か、父親か。」

「いつもはお母さんが作ってるんだけど、お母さん昨日の夜から具合が悪くて朝起きられなさそうだったから、今日は私が。」

「これだけのおかずを、西田一人で?」

「別にこれくらいだったら私でも出来るわよ。揚げ物とか煮物とか面倒くさかったり時間のかかりそうなものはないけど。」

「いや、これだけでも十分凄いだろう。西田の意外な一面だな…」俺は見事な料理の腕だと素直に感心した。

「意外ってどういう意味?私ってそんなに家庭的なイメージがなかった?」

「まあ、少なくとも女子力とは無縁の存在だろ。」

「あんた、あんまり軽口叩いてると、箸を目玉にぶっ差して、脳みそに貫通するまで押し込むけどいい?」西田は俺のことを思い切り睨みつけた。

「でもまあ、誉め言葉として受け取っておくわ。ていうか、箸で思い出したんだけど…

ねえあんた、割り箸とか持ってない?私、当たり前だけど自分が使う分しか持ってないから。」

「割り箸…? いや、そもそも今日は昼飯を買い忘れたのだから、都合よく割り箸のみがあるわけがない。」

「ええ?毎日コンビニ飯なのに、予備とかあまりとか鞄にないの?」西田は呆れた様子である。

「ないな。コンビニ飯と言っても、基本的にはパンかおにぎりだから、割り箸をもらう場面もないしな。

…俺は西田が俺に弁当食わせてやるって言ってくれただけで嬉しかったよ。今日のこれは、何もかも俺の不手際が招いた失敗だ。気遣ってくれてありがとう。」俺は上から目線にならないよう慎重に言葉を選びながら『別に西田のせいではない』という意思を伝えた。

「はあ、仕方ない。 …橋本、口開けて。」

「急になんだ。なんでそんなことをしなければならないんだ。」

「いいから、早く。ほら、もっと大きく開いて。」西田は何故か少し恥ずかしそうだった。

「……? こ、こうか…?」俺は西田の発言の意図は分からなかったが、従わなかったらそれはそれで面倒なことになりそうだったので、言われた通りに口を大きめに開いた。

俺が西田の方を向いて口を開いたかと思うと、次の瞬間西田は俺の口の中に箸で掴んだ卵焼きを俺の唇に箸が触れないよう器用に放り込んだ。

「はがっ」口の中に突然物が入ってきて一瞬驚いたが、それが舌の上に乗ったときに卵焼きだと理解し、落ち着いて咀嚼することが出来た。

西田が作った卵焼きは、最初弁当箱を覗いたときに見た印象通りの美味さだった。本人の言う通り、料理の腕はそれなりにあるようだった。

「……私だってこんなの流石に恥ずかしいんだから、今日はもうそれで我慢してよ。

おねだりされたって、絶対にあげないから。」そう言う西田の声は、普段の態度からは予想もつかないほど弱々しい声だった。


「なあ、西田。」俺は下校する傍ら、隣を歩く西田に声をかけた。

「何?」

「最近の俺は、やはり変か。」

「別に、あんたが変なのは出会った時からずっとそうだったじゃない。」

「そういう話をしているのではない。その、山田が死んでからの俺の様子はどうかという話だ。」

「…………。」西田は黙り込んでしまった。西田は俺に対して思うところがあるらしかった。

「……確かに山田が死んでからのあんたは、なんというか、それまで以上に顔色が悪くて、より生きるのがしんどいって感じだった。

授業中居眠りしてるときも、額に凄い汗かいてる時があるし、今までよりもずっと不注意は多いし、心ここにあらずっていうか。」

「だから私も、余計に放っておけなくなっちゃったというか、今のあんたを放っておいたらどこかにいってしまいそうな気がして…」西田の声は言葉を紡いていくにつれて段々細くなっていった。

「だから、あれ以来俺のことを気にかけてくれるようになったんだな。

俺だってそんなことくらい分かる。でなきゃ、今日もわざわざ恥ずかしい思いをしてまで飯を食わせてくれたりしなかっただろ。気を遣わせてしまって、すまなかったな。

…俺は、西田がいてくれてよかったよ。本当にありがとう。はっ、お前がいなきゃ、今ごろ生きてたかどうかも分からないな。はははっ」普段ならこんなこと思っても言わないだろうし、俺が西田にまともに感謝の意を伝えたことなどなかったが、特に俺が辛いときに助けてくれた西田に、今は面と向かってお礼を言いたくなってしまっていた。

「……本当になんなの、急に、普段はそんなこと言わないくせに… 馬鹿。」西田はか弱い、ともすれば今にも泣きだしそうな声でそう言った。

俺がいくら隠してたって、西田には分かってるんだよな───出会ってからずっとそうだったが、西田には出し抜かれてばかりだ。俺が勝ったことなど一度もなかった。

西田は俺がピンチの時には常に側にいて、俺の情けない一面をフォローしてくれた。口ではあれこれ文句を言っても、その手助け自体には、いつも感謝していた。

「ねえ、橋本。」西田は立ち止まって俺の方を向いたが、顔は下を向き、もじもじしていた。

「これは、受験が終わるまで言うのは我慢しようと思ったんだけど… 今の橋本の言葉聞いて、もう我慢できなくなっちゃったみたい。

だから、言うね。私、その、あんたのことが───」西田が何かを言おうとした、その時だった。

「すまないね。君に恨みはないが、哀れな息子の、最後の頼みだったんだ。

……だから、君には死んでもらうよ。」左耳に息がかかるほどの至近距離で男の声がしたかと思うと、その直後に左の脇腹に猛烈な痛みを感じた。

「え…?」俺は自分の身に何が起きたのか一瞬分からなかった。

恐る恐る自分の脇腹を見ると、学生服に血が滲んでおり、その染みの中心部には、男が握ったナイフが突き刺さっていた。

男はナイフを引き抜くと、そそくさとどこかへ走って行ってしまった。痺れるような激痛が体中を駆け回った後、ナイフの刺さっていた場所から、俺の鮮血がぼこぼこと溢れだしていった。

「嘘… なんで…?」西田の方は、俺の脇腹を見てわなわな震えていた。

「ぐっ…! はあ、はあ、はあ…」俺は痛みに耐えられず、思わず地面に倒れこんだ。

「嫌、橋本、嘘、死んじゃ嫌、死んだらだめ!」西田はとっさに倒れこんだ俺の肩を抱き、今までに聞いたこともないほどの大声で俺に声をかけた。その目には大粒の涙を湛えていた。

「あああああああああっ!」俺はかつてないほどの痛みに、声を抑えられなかった。

頼む止まってくれ頼む止まってくれ頼む止まってくれ… 俺がいくら願っても、出血は収まらず、腹を抑える指と指の間を血が通り抜けていった。視界がぼやけていき、世界はゆっくりと、色を失っていく。

「お願い、橋本、死なないで…! お願い、だから…!」遠くなっていく意識の中で、西田の声だけが俺の頭に入ってくる唯一の情報だった。

「神様、お願いしますどうか橋本を、こんなところで死なせないで…!

今死なれたら、私、私…!」

しかしその声も徐々に遠くへ行き。

俺の世界は灰色から黒色へ、その色を完全に失い、あるのはただ闇だけになった。

そして俺の意識は、そのとき完全に。

途切れた。


なんだ、ここは…?俺は重たい体を引きずるようにしながら、なんとか立ち上がった。

そこは、何もない真っ暗闇だった。自分が立っているところでさえ感触こそあれ、奥の方にまだ空間が広がっているように見えるほどに黒く、目の錯覚を疑った。

俺は、すぐにここから出て西田に会いに行かなければならないと思い、どこへ向かえばいいかもわからなったが、とぼとぼと歩き出した。

俺が考えなしにふらふらとその空間を歩いていると、目の前から緩やかに、そして穏やかに、まるで雨上がりの雲の切れ目から日光が漏れ出すように、光が俺に向かって差し込んできた。

「うっ……」俺は徐々に強さを増していく光が眩しくて、思わず腕で目のあたりを覆った。

よく見ると、光の中に、うっすらとだが人影が見えた。その人影は、俺に優しく語りかける。

「悠也…」その人影の声は、紛れもなく母さんの声だった。

「……! 母さん…!」俺は信じられなかった。どうして死んだはずの母さんがここにいるのか訳が分からなかった。

俺は気づけば母さんの方に歩み寄っていった。三年前に死んで、あまりのショックでその死については考えないようにしていた人。その本人を目の前にして、もっと間近で話したいと思う人間はいないだろう。

しかしどれだけ俺が近づこうとしても、母さんとの距離は縮まらない。よく見ると、母さんは俺とは反対の方向に後ずさりしていた。

「なんで…? どうして俺から離れようとするの…?」俺は母さんならてっきり向こうも近づいてきてくれると思っていたので、裏切られたような気持ちになってしまった。

「悠也…… あなたには、まだやるべきことがあるはず……

お母さんはよくわからないけど、あなたはまだこちらへ来てはいけない。

お母さんと違ってあなたには、待っている人がいるから……」母さんは俺のかつての記憶通りの、優しく全てを包み込むような声音でそう言ってくれた。

「でも、俺は、俺を待ってくれる人なんて、それこそ母さんしか思いつかないよ。

俺は、もっと母さんのそばにいたいよ……」俺は母さんとの久々の再会に、相手に突き放されたようで、情けなく泣くことしか出来なかった。

「ふふふっ、私だって、もっとあなたのそばにいたいわ。実の息子なんですもの。

でも、それは今ではないはず。あちら側であなたを待ってくれている人が、今、この瞬間もあなたが来るのを待っている……

だからどうか、彼女の元に行ってあげて…… それが、お母さんのただ一つの望みです。」母さんの影はそう言うと、光の中へゆっくりと消えていった。

「嫌だ、母さん、離れたくない…!」俺は母さんに追いつこうと走ろうとしたが、まだ体が重く、のろのろと歩いていくことしかできなかった。

「嫌だよ、母さん、もっと俺といてくれ……!」俺は光のある方へ手を伸ばしたが、ついにはその手は母さんの影に届くことはなく、そして同時に、俺の意識も薄れていってしまった。


「母……さん……!」俺は、うっすらと目を開けながら、母さんになんとか声が届かないかと、呻くように声を出した。

しかしそこは、それまでいた真っ暗闇の空間ではなく、どちらかというと先ほどの空間よりも余程見知った場所だった。天井がある。その天井には蛍光灯があり、視線を横に移すと、心拍を測る機械や、点滴があり、そして───

「嘘… 橋本が、橋本が目を覚ました……! あっ、ああっ… 良かった、本当に良かった…!」俺の手を握りながら、大声を出して泣いている西田がいた。

「ああっ… もう、どこまで心配かければ気が済むのよ! 本当、バカ…!」西田の顔は、泣いているからか少し赤かった。

「こ、ここは、病院、だよな。 俺は、どうやってここまで。」まだ意識が完全に回復したわけじゃなかったが、それでも俺は聞かずにはいられなかった。

「あまり喋らない方がいいわよ。まだ起きたばっかりなんだから。

あなたが刺されて意識がなくなった後、とりあえず救急車を呼ばなきゃって思って電話したんだけど、いざ救急車が来ても、お医者さんが言うにはかなり危険な状態だって。

だから私、もうこうして祈ることしか出来なかった。ひたすらあなたが目覚めるのを。」

「そうか… じゃあ、俺を助けてくれたのは西田ってことか。いよいよ命まで救われることになるとはな。

ここまでされちゃ、お前にはもう感謝の意を伝えたくてもどうすればいいか分からないよ。」俺は西田の泣き顔を見て、少しもらい泣きしてしまった。

「だから喋らないで。今は、とにかく安静にして。私のことなんて気にしなくていいから。当然のことをしたまでよ。そこから起き上がったのは、他でもないあんたなんだから。

本当に、よく目を覚ましてくれたよ…」西田は涙の跡を服の袖で拭いながらそう言った。

「なあ、俺は一体どれくらい寝ていたんだ? 今は一体何時なんだ?」

「はあ、橋本って本当、私の話を聞かないわよね… たまには素直に言うこと聞きなさいよ、このバカ。」西田はそう言いながら、呆れているとも喜んでいるともとれる笑みを浮かべていた。

「あんたは、あれから丸一日以上ずっと意識がなかった。今は大体、夜の21時くらいかしら。」

「西田はその間、ずっと俺のことを…?」

「流石に学校休んでまでって訳じゃないけど、今日も学校が終わってからはまっすぐ病院に向かった。それからはあんたがいつ起きてもいいようにって、ずっとここで待ってたよ。母さんも塾の先生も勉強しろって言ってきたけど、もう今日は意地でも飛び出してきた。」

まったく、とんでもなく甲斐性のある女だなと思った。どうしてここまで俺にしてくれるのか、疑問に思うレベルだ。ただ、母さんが言っていた、俺のことを待ってくれている人というのが、西田であることは間違いなさそうだった。

そんな西田になら、話してもいいかもしれない。いや、話してしまいたい。

数多の絶望について考えてきた俺ですら解決不可能として記憶の奥底に封じ込めていた、俺の最もどす黒く、グロテスクなこの感情を。この絶望を。

「西田。」俺は深呼吸をした後、顔を西田の方へ向けた。

「お前さえよければ、俺の話を聞いてくれないか。」

「俺が絶望について本格的に考えるようになったきっかけの、その日のことを。」


「……俺は産まれたときから、実の親に愛された記憶がなかった。

俺の父親は、明らかに俺を嫌っていた。理由は俺にも分からなかった。とにかく俺の父親は、俺が小さいときも何をしても大して褒めもしなかったし、俺に対して何かリアクションをすることがあるとしたら、俺が父親の言うことを聞かなかったときに、それを怒鳴って叱りつけるくらいだった。

だが、それで済めばまだよかった。俺の父親は、あろうことか母さんにまでそんな態度をとっていた。例えば、家に帰ってくる前に風呂を入れておかなければ、それだけで母さんや俺に当たり散らすようなことをしていた。母さんは気が弱かったから、いつも言い返さずに黙ることしか出来なかったし、俺も父親に何をされるか、何を言われるか分からなくて、大人しく言うことを聞くことしか出来なかった。

母さんも、父親ほどではないにしろ共働きで忙しかったからか、俺にかまう時間はほとんどなかった。俺は、正常な人間が本来承認欲求を満たすべき時期に、それを満足に得ることが出来なかった。俺はただでさえ父親がさっき言った通りの人間だったから、せめて母さんには愛されたいって、そう思ってた。だから母さんが俺に興味がなさそうなのを見て、俺は母さんを恨んだ。今思えば、実に愚かだったよ。本当はまず恨むべきは、父親の方なのに。俺は、無意識に力の弱い方を敵視するようになっていたんだ。本当に情けない話だが。

そんな風だから、いつしか俺にとっての親とは、俺という投資商品に金を出す共同出資者程度の存在となっていった。俺も親も、互いに単なるビジネスパートナーであって、親は俺が成人するまでの生活を保障し、その対価として、俺は親の老後の生活を保障する。俺は親というものを、そういう風に解釈するようにした。そうしなければ、家族とは本来こういうものだと解釈しなければ、とてもではないがまともではいられなかったからだ。」

「だが違った。俺がいくら自分の中で家族というものをそう定義しても、その定義から外れた言わば反例が、世間にはいくらでも存在した。

電車に乗れば、母親が子供の手を引いて楽しそうに会話している。公園に行けば、父親が自分の息子とキャッチボールをしている。俺には母さんと手をつないでどこかへ出かけた記憶はないし、父親とは、遊ぶどころか、喧嘩や説教以外で口を交わした覚えもない。

学校では、友達が家族旅行の話をする。俺はその一つにも共感できなかった。仕切りたがる父親、直ぐに歩き疲れ休憩をせがむ子供と、お土産を選ぶのに時間のかかる母親。俺には全く理解が出来なかった。全部空想の話だと思った。だって、俺にはそんなことをした記憶が一つもないんだから。

俺は、自分だけが寂しい思いをしていることを嫌でも分からされた。俺は、家族というものがそもそも淡白な関係性であると理解することで、自分だけがこんな思いをしてるわけじゃないと、なんとか心に余裕を持たせようとした。それなのに、実際にはそうではなく、家族に対して強い孤独を抱いているのは俺だけであり、そして世間の俺以外の人間は、そんな人間がいることなんてお構いなしに、愛を享受し、それが当たり前だと思って生活していく。この真実に、俺の精神は完全に圧し潰された。これが、俺の初めての大きな絶望だった。

そして最初にして、今日まで解決されることのなかった絶望の一つだ。」俺はここまで言い終え、一旦深く息を吸い、落ち着いてゆっくりと吐き出す。

「一つ…? っていうことは、まだ…」西田は、俺の話を真剣に、一言も聞き漏らさぬよう注意深く聞いてくれた。

「ああ、むしろここからだ。……俺の人生が、本当に絶望に塗れたものになってしまったのは。

今から大体三年前、俺が中学3年の時の話だ。俺が朝起きて自分の部屋がある二階から一階へ降りると、母さんが台所で倒れていた。手首から血を流して、あたりは血の海だった。俺はすぐに救急車を呼んで、病院へ母さんを運んでもらった。なんとか命だけは助かったが、母さんはうつ病だと診断された。心身ともに父親に酷使されて心を壊してしまったんだ。

それから一か月間、俺はなるべく母さんのそばにいるようにしたが、母さんはそれまで以上に何を考えているのか分からないようになってしまった。自分から言葉を発することもなかった。とうとう俺は母さんが俺をどう思ってるか分からなくなってしまったんだ。

結局、最後にはまた自分の手首を切って死んだ。まだ40代だったのに、これからがむしろ人生長いというときに、死んだ。亡骸のそばにあった遺書には、ただ一言だけ。

『裕也、ごめんなさい。』とだけ書いてあった。俺はその時に理解したよ。母さんは俺のことを愛してなかったわけじゃなかった。母さんは死ぬ間際まで、俺のことが心残りだったんだって。それなのに、俺は、俺は……!」

「母さんは俺のことを愛してないだなんて、そんな酷いことを……」俺は涙を流さずにはいられなかった。自分では覚悟したつもりだったが、それでもパンドラの箱は開くのを拒んでいた。喉が喋ろうと拒否するのを必死に抑え、話を続けた。

「……さっき、母さんが心を壊したのは父親一人のせいだという言い方をしただろう。だがそれは違う。実際には、俺だって立派な加害者だ。母さんが家事と仕事で忙しいのは分かってた。俺がもっと手伝ってやればよかったんだ。自分にできることはないかと、もっと積極的に助けようとするべきだった。俺はすべき努力から逃げたんだ。面倒臭いだの俺はそもそも親に愛されていないのだからそこまでしてやる必要はないだの、忙しそうだった母さんを見て思ったのは言い訳ばかりだった。そのせいで、母さんは死ぬまで追い詰められてしまったというのに。

それだけじゃない。あろうことか、俺は母さんが俺のことを愛してくれていないと思ってしまった。母さんが生きている間、もっと言葉を交わせばよかった。それこそ本人に聞いてみればよかった。もっと早く気付いていれば、勝手な勘違いで母さんと距離を置くこともなかった。

母さんは、俺が殺したようなものだ。いや、それ以上だ。母さんを殺したのは俺だ。俺なんか産まれなければ、母さんだってあんな父親とさっさと離婚できたはずなんだ。俺が産まれたせいで、中途半端に父親と離れたくても離れられなくなってしまったんだ。まして、その息子にそっぽを向かれてしまったとあっては、心が壊れてもおかしくないだろう。

西田、俺はどうしようもない人殺しだよ… そう、俺はどうしようもないただの人殺しなんだよ……!」俺は耐え難いほどの悔しさに歯噛みした。口にするだけで、当時の感情が蘇ってくる。

「橋本…」西田は、聞いているだけなのに、まるで自分のことのように、辛そうな、泣き出しそうな表情をしていた。

「……橋本は、好きな人とか、いなかったの? 好きな人がいれば、少しは───」

「好きな人……? はっ、はは、ははははははっ!」俺は西田の言っていることがあまりに馬鹿馬鹿しくて、噴き出さずにはいられなかった。

「俺が一方的に人を好きになってどうなるんだ?相手が俺のことを愛してくれなければ何の意味もない。だが、そんな魅力が俺のどこにある?顔立ちが整っているわけでもない、話が面白いわけでもない、性格も特別いいってわけじゃない。そんなことは、お前が一番よく知ってるだろ?

客観的に見て、俺が他の男より優れているところなんてないし、そんな人間が、人に好かれる道理もない。

もちろん、西田が言いたいことは分かるよ。俺は母さんが死んでから、特に異性へ執着するようになった。関係ない女性を巻き込んで、ごっこ遊びに耽ろうってわけさ。この時点で、女性を精神的道具とみなす最低な行為だが、俺はなりふり構ってられなかった。この寂しさを埋めるために、俺は奔走した。

だが、そんな魂胆で女性に近づいても、向こうも馬鹿じゃないから当然うまくはいかない。俺は高校一年のある時、一人の女性と仲良くなった。その子は俺の話をよく聞いてくれる子だった。俺はそのころから絶望だなんだとそんなことばかり言っていたから、俺の話をまともに聞いてくれたのはその女の子くらいだった。俺は、気づけばその子のことが好きになっていた。俺はその子に告白したくなった。ある時、放課後その子を誰もいない教室に呼び出して、俺はその子に告白した。その子には、告白するより前に俺のすべてを話していた。ただ、その子は、俺になんて言ったと思う…?

『今までしてくれた話が私に同情してもらうためなんだとしたら、ずるいよ。』

だってさ……! なあ、笑えるだろ!俺がどれだけ真剣に自分の思いを伝えようが、向こうからしたら、ただの泣き落としでしかないし、実際俺はその子の言う通り、極めて浅はかな判断で、母さんの死を道具に使おうとしていたんだよ…!こんな笑い話、傑作だろ?」

「結局、恋愛なんてアニマとアニムスの押し付け合いでしかない。自分の中の理想像を、それとは関係ない他者に無理やり落とし込んで、互いが互いにそうすることで利害が一致するから、問題にならないだけだ。分かるか?愛し合うなんて嘘っぱちだ。所詮は、他人を巻き込んだ精神的自慰行為に過ぎないんだよ。

そしてかくいう俺も、その情けない自慰行為に浸ろうとしたクソ野郎ってわけだ。まして、そのために母さんの死を使おうとしたんだから、世間の連中より余程たちが悪い。

だから俺に、人に愛される資格もなければ、人を好きになる資格なんてないんだよ。いや、さっきの話で言えば、人を好きになる資格のある人間なんてこの世に一人もいない。だから恋愛なんてものは、どこまで言ってもただの欺瞞でしか───」

ない、と言おうとしたその時、西田の平手打ちが俺の右の頬に奇麗にきまった。

「……いい加減にしなさいよ、このバカ。」西田の表情は、さっきまでの辛そうな表情とは打って変わって、普段通りのきつい顔つきに戻っていた。

「俺には客観的に見て他の男より優れているところがない?そりゃそうでしょうね。私だってそんなこと知ってるわよ。

でもだからって、人に愛される資格がないだなんて、そんなこと言うなんて本当、信じられない。

…それじゃあまるで、橋本のことが好きになった私が馬鹿みたいじゃん……」

「は……?」俺は西田の言っていることがまるで理解できなかった。

「だから、あんたが自分を卑下すればするほど、そのあんたのことを好きになっちゃった私が馬鹿みたいに見えるからやめろって言ってるの!もう、何度も言わせるな!」西田は耳まで顔が真っ赤になっていた。

「西田、お前、本気で言ってるのか…?」

「ええ、本気ですとも! あんたのことが好きで好きで、もうどうしようもないくらい好きでしょうがないわよ!勉強中もたまにあんたのこと考えてぼーっとしちゃうときもあるし、本当いい迷惑よ!」

「あんたに高校二年のときに出会って、最初はクラスの中でも誰とも話さないし、口を開けば絶望絶望って、訳の分からないことを言うし、なんなのこの人って、心底うんざりした。

でも一緒にいるうちに、あんたは私が最初に思ったような人間じゃないっていうのが分かってきた。だってあんた、あんなに普段かっこつけてる癖に、授業中はしょっちゅう口開けて寝てるし、筆記用具はぽろぽろ落とすし、何もないところで転びそうになるし、男のくせに私より体力がないし、口喧嘩だって私の方が強いし、強がってる割には、とんでもなく情けないヤツで…… でも、その情けないところがすごくかわいくて……

気づいたら、もう橋本のことが放っておけなくなっちゃったのよ。私が橋本のことを見てあげなきゃって、自分でもどうしてそんな気持ちになったのか分からないけど、とにかくそう思うようになった。」

「それに橋本は、自分で卑下するほど性格が悪いなんて私は絶対に思わない。だってあんたは、私のお母さんの話に真剣になってくれたじゃない。そもそもそれより前に、あんたは傘もささずに雨の中を歩く私を見て、放っておけないって思ってくれたんだよね。私、それだけですごく嬉しかったよ。

普段が適当だから、あの時なおさら見直しちゃった。橋本って、本当に私が辛いときは頼りになるんだなって思った。だから、そんな人に、自分の人生を託したいな、って… それは流石に大げさかもしれないけど、でもその時はそれくらい頼りがいのある人に見えたんだ。」

「西田、それじゃあ、本気で俺のことを…」俺は西田の気迫の凄まじさを間近で見て、それが嘘でないことを理解した。

「もちろん、客観的に見れば、あんたのそのどんくさいところなんて欠点でしかないし、そんな男、普通の女性だったら見向きもしないでしょうね。

でも私にとっては、むしろそれが橋本を好きになる一番の理由だったの。私は橋本が今ここにいる橋本だから、初めて好きになったんだよ?」西田は微笑みながら、俺の右手に自分の手を重ねた。

「あっ、あああ……」俺は西田の真摯な思いに触れ、嗚咽することしかできなかった。

「私ね、あんたが恋愛なんて所詮自分の理想像の押し付け合いでしかないって言った時、確かになって思った。もしかしたら私も、こういう男が側にいてほしいって理想を、あんたに押し付けてるだけなのかも。

だけど、それと同じくらい、私はあんたに自分の理想を押し付けほしいなって、そう思った。私でいいなら、橋本が抱えてるものを、全部受け止めてあげたいなって。私が橋本と一緒にいて嬉しいように、あんたが私と一緒にいて嬉しいとか、楽しいとか、気分が落ち着くとか、そう思ってくれるなら、私にエゴでもなんでも、全部ほしいなって。

だから、橋本、私が相手ならそんなこと気にし─── って、きゃっ!」

「西田…」俺は重ねられた西田の手を掴んでベッドから半身を起き上がらせて、西田を抱きしめていた。そうせずにはいられなかった。

「……橋本、流石に強引すぎ。」西田はそう言いつつも、俺から離れようとはしなかった。

「西田、俺は、お前を好きになっても、いいのか…?」西田の耳元でたどたどしく呟いた。西田の髪からは、甘いいい匂いがした。

「真理って、呼んでよ。」西田が今度は俺の耳元でそう囁いた。

「…真理、お前のことを好きになってもいいか。いや、どう答えられようともはや関係ない。

真理、お前のことが、好きだ……」俺はそう言い終えると、言葉にのせて魂まで吐き出されてしまったかのように、全身から力が抜けて、真理を支える腕に力が入らなくなってしまった。

「ちょっと、何もたれかかるみたいにしてんのよ。本当情けないわね、あんた。

もっと、ぎゅってしてよ。今ぐらい、かっこいいところ見せてよ……」

「真理、お前のことが、好きだよ…」俺はこうしている間も、涙が止まらなかった。

「俺は、母さんが死んで、かと言って女性にろくに見向きもされなくて、もう自分一人で絶望を抱えて死ぬしかないって思ってた。もう誰かに愛されることもないって。

だから母さんの死や家族にまつわる絶望について、俺は一生解決することはないと思ってたし、俺の心に封じ込めておくしかないとそう決め込んでいた。

でも真理、お前のおかげで俺はようやく、それらすべての絶望を乗り越えられそうだよ。これが俺の人生にとって、どれだけ凄いことか。こんなの、ほとんど奇跡だよ。

そしてその奇跡をもたらしてくれたのは、他でもない真理だよ。どうやってお礼を言えばいいか……!」要望通り、俺は真理の体をきつく抱きしめた。

「別にいいよ。私は、橋本が私のこと好きだって分かっただけで、もうそれだけで十分だから。

もしかして、あんたと私の気持ちが同じになったのって、これが初めてじゃない? なんか変気分ね。」真理は優しく微笑みながらそう言った。

「そうだな。もっと言えば、お前の前でこんなに弱いところを見せるのは初めてだ。

普段なら絶対にこんなことしたくないが、今はむしろ、真理に俺の弱い部分を見てほしいよ。」言っていて恥ずかしくて仕方がなかったが、そう思ったのは紛れもない本心だった。

真理の肩越しに、窓の外の景色を見た。夜の闇は、今日も変わらず俺のことを見守っている。最近はこの景色を見てもすっかり心が晴れることはなかったが、今日は久々に、あの宇宙に広がる虚無の空間が、俺の絶望を洗い出し、吸い出してくれた。

強く白い光を放つ星々とその間にある何もない真っ黒の空間は、両社が真反対の性質を持ち合わせるがゆえに、互いを補い、互いの存在を確かめ合うように、同時に存在している。俺と真理も、そんな風になればいいなと、半ば感傷だが、詩的な表現をしてしまいたくなるほどに、俺の気持ちは浮ついていた。

「ねえ、橋本。

今、幸せ?」しばらくして、西田が唐突に俺に質問してきた。

「え? ……まあ、そうだな。

幸せだよ。真理。お前の気持ちが知れて、よかった。自分が絶望するためだけに生きてるわけじゃないって知れて、よかった。」俺は率直に思ったことを伝えた。それが真理に対して一番誠実な向き合い方だと思った。

「本当?ならよかった。

あなたが幸せでないと、困るのは私なんだもの。」真理は俺の目を見ながら、微笑んだ。

「だって、知りたいじゃない。

この状況からあんたが真実を知ったとき、どれくらい絶望するのかをさ。」西田はそう言うと、満面の笑みを浮かべた。

「え?」西田が不可解なことを言ったかと思うと、俺は意識がパッタリと途絶したかのように、現実からシャットアウトされた。


目を覚ますと、そこは病院とは程遠い場所で、母さんと会ったときと同じような、真っ暗闇の空間だった。俺はあのときと同じように、力の入らない体をなんとか奮い立たせ、起き上がる。

俺がまだくらくらする頭を片手で押さえていると、まさに俺が立っているところに、遥か頭上からスポットライトのような強い光が当てられた。俺は暗い中突然辺りが明るくなったので、一瞬思わず目を瞑った。

「私は本当に長い間、あなたがここにくるのを待ち続けていました。

そして今、ようやくそれが叶った。」俺から少し離れたところから、先ほどまで聞きなじんでいた声が聞こえてきた。

「私の姿も、彼に見せてあげなさい。」声がそう言ったかと思うと、俺の前方の空間が、俺を照らすのと同じように、スポットライトのような光に照らされ、そこに人影が見えるようになった。

そしてそこに照らし出された人影の正体は、信じられない人物だった。

「ようこそ、あなたたち人類が超空洞(ヴォイド)と呼ぶ、文字通り虚無の空間へ。橋本悠也さん。」

「嘘、だろ…?

真、理……?」


「突然気を失ったかと思ったらこんな訳の分からないところに急に飛ばされてくるんですから、あなたも驚いてますよね、橋本悠也さん。」真理に瓜二つの女は、俺が衝撃を受けることは十分分かっていたらしく、俺の様子は特に意に介さず話を進めようとしていた。

なぜ?どうして?疑問が浮かび上がっては消えずに、俺の頭をどんどん占有していった。

なぜ真理がここにいる?いや、そもそもここはどこだ?俺はどうやってここまで来た?そんな疑問がいつまでも俺の頭の中を巡っている。

「橋本悠也さん。私は、あなたが知っている西田真理ですよ。そっくりさんなんかじゃありませんからね。

まあ、地球人ではありませんし、西田真理という名前も、偽名ですけどね。」真理は、柔らかな声音でそう俺に語り掛けた。

「地球人じゃ、ない……? 真理、何を言ってるんだ……?」俺の頭は困惑しっぱなしだった。

「ふふふ、今のあなたの顔、鏡で見せてあげたいくらいです。鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔、という地球の慣用句は、まさにこのためにあるのでしょうね。」

「では、あなたに話すとしましょう。いいですか、今から言うことは全て真実です。これだけが世界の真相であり、他に答えはありません。そのことを、どうか最後まで念頭においてください。」真理は、不気味なくらいにこにこしながら話しだした。

「先ほども言った通り、ここはあなたたち地球人が、超空洞、またはヴォイドと呼ぶ場所です。あなたたちの歴史では、ヴォイドとは、銀河がまったく観測されない、空っぽの空洞ということになっているはずですね。私たちはその虚空に、住んでいる惑星を丸ごと、いえ、この表現は正しくありませんね、正確には、住んでいる銀河系を丸ごと転送し、あなたたち地球人から身を隠しています。

もちろん、ヴォイドに銀河系を転送するだけでは、やがて観測されるのは必定。ですから、私たちはさらにそのヴォイドに、光を吸収する漆黒の膜を張ることで、それを防いだのです。

私たちは、このヴォイド全体、または私たちが住んでいるこの惑星のことを指して、

<虚を漂う(フォーリナーオブヴォイド)>、と呼んでいます。あなたたちが、自分たちの住んでいる惑星を“地球”と呼ぶのと、同じ要領ですね。」真理は、淡々と話を進める。

「は?ヴォイド?真理、俺には言っている意味が分からないよ。」俺は真理の言っていることが一つも理解できなかった。

「あなたをここに連れてくる手段は、私たちが惑星をヴォイドの中に転送する技術の、言わば応用です。指定した2つの位置の空間を丸ごと入れ替える空間跳躍装置を使うことで、あなたの体を五体満足の状態でここに連れてきたのです。体の傷は、これからの予定に差し障りが生まれる可能性があったので、あなたが起きる前に治療しておきました。その程度の刺し傷であれば、大して時間もかかりませんからね。

あ、証拠を出せ、と言われてもそれはかなり厳しいです。もちろん、転送技術の科学論文や、転送を発動した際のニュース記事などは今も残っていますが、学術用語ばかりで極めて難解ですし、第一、私たちの言語で書かれているため、あなたに理解できるとは…… それでもよろしければいくらでも持ってくることは出来ますが、どうなさいますか?」真理は俺を無視して、さらに話を進めていく。

「…………。」俺は真理に無視され、黙っていることしか出来なかった。

「では、続きを話させていただきますね。この場所の説明が終わったので、次はあなたたちの歴史の話をしましょうか。あなたたち地球人の、誕生の物語を。」

「最初、この宇宙に存在していたのは、あなたたち地球人ではなく私たちでした。私たちは、地球が誕生するよりもずっと昔に、この宇宙で産声を上げたのです。私たちが存在する銀河と、あなたたちが存在する銀河は、ほぼ同じ構造をしています。つまり私たちの銀河にも、太陽系に似た惑星系が存在するし、私たちが今立っているこの惑星も、地球とほぼ変わりません。もちろんその頃には、まだヴォイドの中に銀河があったわけではなく、数ある銀河の一つとして、普通に存在していました。

世界の構造こそ共通しているものの、そこで発展していった生命の樹形図は、地球のそれとは大きく異なります。その最も大きな相違が、生命維持に必要なエネルギーに関してです。

地球人が、物理的な穀物、動物の肉、水などからエネルギーを摂取するのに対し、私たちは、むしろ精神的な、例えば生き物の感情などを、その主なエネルギー源としています。

この世に生きる動物は全て、感情を持っています。喜怒哀楽に始まり、嫉妬や憎悪、大小さまざまな感情がありますが、私たちはその感情を吸い出し、己のものとすることで、生きるのに必要なエネルギーを得ているのです。

ほら、地球人の間でもよく言われるでしょう。怒りなどのネガティブな感情を、“負のエネルギー”、と。それは、まさしく私たちの星でもそう呼ばれています。この負のエネルギーが、摂取するうえで最もエネルギー効率がよいとされているのです。」

「おや?ここまでは私たちの話ですね。しかし、地球人の話をするうえで、この話は避けては通れないのですよ。

私たちは、生き物が抱く感情を主食として生きています。ですが、この星に住む多くの動物は、私たちよりも遥かに知能の面で劣っていました。彼らには生命の本能としての感情こそあれ、理性を持つがゆえに生じ得る負の感情、例えば嫉妬のようなものは、持ち合わせてはいません。

そのため、私たちは深刻な食糧不足に陥りました。肥大する人口に対して、供給されるべき感情のエネルギーが足りなかった。そうして次第に私たちは、同族同士で殺し合うようになったのです。この星で最も知能の高い生命体は、他ならぬ私たち自身だったからです。

その結果、あっという間に私たちは疲弊しきってしまいました。同じもの同士で殺し合い、そこから生まれる負のエネルギーを吸っていては、遅かれ早かれ絶滅するのは必定でした。そこで、私たちはこう考えたのです。私たちと同等の知能を持つ生命体を創造し、彼らに負のエネルギーを抱くよう設計したうえで、その生命体を適度な個体数に調整しながら維持していけば、この食糧問題を根本的に解決できるのではないかと。

そうして生まれたのが、他でもないあなたたち地球人なんですよ。橋本悠也さん。」真理は、にわかには信じられないことを、さぞ当然のように言ってのけた。


「真理…… 変な冗談はよせ。な……?」

「信じられないのも無理はないでしょう。いきなり自分たちが誰かの意思によって作られたと言われて、直ぐに納得できる人なんていないはずです。

しかし最初にも言った通り、これこそが世界の真実なのですよ。これ以外にどれだけ答えを望んでも、他に答えはありません。」真理は優しく、しかし力強く、俺にそう語り掛けた。

「そうして私たちは、まず自分たちの住んでいる惑星とほとんど同じ環境を探しました。将来的には、惑星間で負のエネルギーを吸収する手筈になっていたからです。探索の結果、最も環境が似ているのが太陽系でした。そこで地球という惑星に目を付けた私たちは、

新しい生命を創造する研究を始めたのです。

あなたたちを創造するのは、予想以上に骨が折れました。私たちの科学力は当時の時点でも現在のあなたたちのそれを優に超えていましたが、それでも自律型の、それも完全に新しい生命を一から造ることは、かなりの困難を極めた作業でした。

紆余曲折を経て出来上がったあなたたち地球人は、私たちの歴史でも類を見ないほどの大発明でした。基本的には私たちをそのモデルとしていますが、負の感情を抱きやすくなるよう、私たち以上にわざと見た目や知能、身体能力から性格まで、あらゆる面で優劣がつけられるよう意図的に設計されたそれは、当初の目論見通り、凄まじい量の負のエネルギーを私たちにもたらしてくれました。

地球人の社会制度や科学技術も多少の誤差はあれど、概ね私たちの計算通りの時間をかけて進化していき、それに伴い、人々はさらに抱える絶望を増やしていった。

知っていますか?日本の幸福度は、他の多くの発展途上国よりも低いのですよ。物理的な発展が、むしろ人々の間に不和を産むことだってあるのです。そしてそれも、全て計算のうちでした。

私たちは、やがてあなたたちが天文学の理論を確立させ、宇宙に進出するだろうと予測しました。地球人との不要な接触を避けたかった私たちは、銀河をヴォイドに転送する計画を練り、結果、その計画は見事達成され、とうとうあなたたち地球人は完全に私たちの庇護下の存在となり、そしてそこから抜け出す可能性も限りなく0に近づいたというわけです。」

「お分かりいただけましたか?一度整理すると、あなたたち地球人は、絶望するためだけに創造され、それ以外には他に目的もなかったということです。ただ絶望するためだけに産まれたのですよ、あなたは。

今のあなたになら、第一次世界大戦や第二次世界大戦、その間に起きた世界的恐慌、そして核兵器の開発…… これらの悲劇がどうして起きてしまったのか、もう分かりますね?」

「…………。

真理、なあ、嘘だと言ってくれよ……! 何を真剣になってこんな馬鹿げたことを……!」

「……西暦でいう20世紀の前半に、私たちの星では大規模な飢饉が発生しました。いわゆる列強と呼ばれる国々の、発展途上の国に対する帝国主義的侵略こそあれ、世界規模で見れば人々が抱える絶望、負のエネルギーはそれほどだった。一方で、そのころ私たちの星ではますます人口は増加の一途を辿り、あなたたちに負のエネルギーを可及的速やかに生成してもらう必要がありました。だから私たちは、あなたたちに世界規模の戦争をさせ、またそうすることで、この大規模な飢饉を乗り越えたのです。」真理は俺が何も答えていないのに、狂った機械のように勝手に話を続ける。

「……はあ。まだ信じてもらえませんか。じゃあ、今からその証拠を少しだけ挙げます。少々ショッキングな内容なのは覚悟しておいてくださいよ。」真理はため息交じりにそう言った。

「……橋本陽子。42歳。旦那と息子の3人で暮らしている。絶望関数の計算の結果、今抱える負のエネルギーが最大値であると予想されるため、収穫が正式に決定。

死因は出血多量による自殺に指定。旦那と息子の行動パターンから、深夜3時から作業を開始すれば、以前のように死に至るまでに発見されることもないと考えられる。

……山田雄彦。18歳。父親と母親の3人で暮らしている。絶望関数の計算の結果、今抱える負のエネルギーが最大値であると予想されるため、収穫が正式に決定。

死因は頸椎圧迫による自殺に指定。道具は自宅から近いホームセンターで揃え、自室には事前に鍵をかけておくこと───」真理は突然、そんなようなことを暗唱しだした。

「…………!」

「これで、もう分かったでしょう。今のは、あなたの母親と、山田雄彦という青年が亡くなった際の報告書の内容です。この報告書によれば、あなたの母親はおよそ3食分の負のエネルギーを、あの青年は2.5食分のエネルギーを放出して死んだということになっています。

もちろん、あなたたちの運命を全て私たちが握っているというわけではありません。あなたたちは先ほども言った通り自律型の生命体ですから、私たちの予測の範疇を飛び越えて、殺し合いをしたり、運の悪い事故で死ぬことだってあります。

さあ、この世界の真実について、私はすべてお話したつもりです。あなたたちが造られた生命であり、そしてその目的は、絶望を抱えながら生きるためだということを。」

「……どうして。

どうして、俺にそのことを伝えた?こんな真実、たかだか10代のガキである俺に、なんでわざわざ伝えた!?

どうして……」俺はまだ真理の話を信じた訳ではなかったが、それでも母さんの名前が出てきて動揺せざるを得なかった。もし本当に母さんが得体の知れない連中の都合で勝手に殺されたなら俺は……俺のこれまでの苦しみは……!

「そうですね。それについてもお伝えしなければなりません。どうして私たちがわざわざあなたをここに連れてきて、不都合な真実を伝えたのか。

単刀直入に言います。あなたには、私たちの新しいエネルギー源になってもらいたいんですよ。」真理は、そう言いながら不敵な笑みを浮かべた。


「今からおよそ3年前、私たちはある男に関する不可解な現象に出くわすことになりました。その男は産まれてこの方、内に抱える絶望の数を年々指数関数的に増やし続けていた。平均的な地球人であれば、絶望関数が最大値を迎える数値に到達してもなおそこから減ることはなく、常人の数倍、数百倍もの負のエネルギーを溜め込み続けていた。

そしてその男はその状態から、なんと実の母親の死という、通常であれば耐え難い絶望すらも、内に抱え込んでしまった。私たちの多くは、その時が負のエネルギーが最大になるときだろうと予測していましたが、それでもその男は留まるところを知らず、どんどん絶望を抱え込むようになっていった。

私たちはその男を、特例として保護観察下に入れるべき対象、そして将来的に私たちの命運をも決め得る者になるとして、<評決者(ヴァーディクト)>と名付け、特に注意深く動向を追うようになりました。

それが、他でもないあなたなのです。橋本悠也さん。」

「私の正体が気になっているでしょう?私は西田真理として、あなたを間近で観察し、データを取るために地球に派遣されたのです。ヴァーディクトの行動パターン、思想や言動、身体能力、趣味、知能、あらゆる点で詳細なデータを集めるのが、私の最大の目的でした。

あなたに対して私が恋愛的アプローチをとったのも、すべてそうすることであなたの中の絶望がどう推移するかを見るためだったのですよ。」真理は、真剣な表情を保とうとしていたが、我慢できなかったのか吹き出した。

「ふふふふふ、ふはははははははっ!

あなたったら、よくもまあころころと騙されてくれましたね。あなたに私が近づいたのは、すべて研究の為だったというのに。そうでなくても、あなたのような人間、私が好きになる訳もありませんよ。あなたは地球で、私にこう言いましたね。俺みたいな人間に、誰かに好かれる道理はない、と。その通りですよ。あなたには性的な魅力など微塵もないし、そんなことは恋愛なんぞに興味がない私でもわかります。現実はフィクションとは違うんですよ。ラブストーリーなんて、あるわけもないじゃないですか。まして無条件に愛してくれるヒロインだって、この世にはいないんですよ。

西田真理に関する話、もっと言えば設定は、全て架空のお話ですからね。あれにもあなたはまんまと騙されて、私に同情している時のあなたの目は、滑稽そのものでしたよ。」

「とはいえ、流石にあなたが何者かに刺された時は、私も困惑しました。あなたにそう簡単に死なれては困りますから。まあ、本当に危篤な状態になった場合は、すぐにでもここに転送して治療するつもりでしたけどね。

私たちはこれから、あなたを絶望精製装置、デスペア・リアクターにお連れします。あなたの場合、一時の負のエネルギーを手に入れるために下手に殺してしまうのは、非常にもったいない。そのため私たちは、あなたが生命維持に必要なエネルギーを最低限入手しながら、その中で永遠に絶望し続ける装置を開発しました。その最終調整がついさっき完了しましてね。それであなたをここに召喚したのですよ。あなたはこれから一生、いや、寿命すらも無理やり引き延ばされて、永遠に機械に繋がれながら、苦痛に苛み続けるのです。

あなたに真実をお伝えしたのも、すべてはあなたが抱える絶望を膨らませてもらいたかったからなんですよ?

どうですか、絶望してきたでしょう?いいですよ、そのままどんどん溜め込んでください。あなたには、その才能があるのだから。」

「……そうか。」

「ようやく分かって頂けましたか…!それでは早速……」真理がそう言うと、さっきまで二人しかいなかった真っ暗闇の空間の、俺から見て左の方から光が入ってきた。恐らく電気がついていないのはこの部屋だけで、部屋の扉が開いてその奥の照明の光がこちらに入ってきているのだろう。

その光の中から屈強な体つきの男が二人入ってきて、俺の左右に立った。

「…………。」俺は自分の真横に立っている男を、見ているのが悟られないよう注意深く観察した。

男はナイフを胸のナイフケースに差して携帯し、右の太ももには拳銃の収納されたホルスターがあった。見た目はナイフ拳銃共に地球にあるものとは違っていたが、それが物騒なものであるということはなんとなく分かった。

それを見たとき、俺の中に一つの可能性が浮かび上がった。いや、魔が差したというべきか。

こうなってしまえば、もう躊躇う必要もない。今の俺には何もないが、それ故にこれまでの人生で一番自由だった。

「……永遠に絶望し続ける、ね。確かに俺らしいけど、そういう訳にもいかないな。

俺はもう、絶望するのはごめんだよ。」俺は自分の右に立っている男からナイフを奪い取り、それをすぐさま自分の腹に突き立てた。

「あああああああああっ!」かつても味わったことのある痛みに、俺は再び襲われた。体中に電撃が走ったかのように、体が硬直する。

「何をしている!?気でも狂ったのか!」真理は先ほどまでの余裕綽々の態度から一転、明らかに動揺していた。

「はあ、はあ、こうなるとは、はあ、思っても、みなかったか…?はっ、なら、思惑通りだ。

俺は、天邪鬼な性格でね…… そのことは、真理、お前が一番よく知っているだろう…?」俺は腹にまだ刺さったナイフを片手で押さえ、もう片方の手でくらくらする頭を押さえながらそう言った。

「ああ、なんということを…! おい、すぐに治療できる者を連れてこい!」真理は血眼になって、俺の横にいる男に目線で合図した。

男たち二人はその合図を確認して、すぐさま自分たちが入ってきた扉から出て行った。

「今、あなたに死なれては困るんですよ……いったいどれだけの時間をこの計画のために費やしたと思ってるんです!? どうしてこんな馬鹿げたことを…!」真理と彼女を照らすスポットライトの光が、俺に近づいてきた。

「お前は、俺のこと心配してくれるんだな… やっぱり真理は真理だよ。」俺は立っているのも限界になり、その場に倒れこんだ。この痛みだけは、どれだけ経験していても慣れない。

「“絶望癖”、か…… この呼び方も、お前が決めてくれたよな。ったく、認めたくはないが、言い得て妙だな……」

「だからその真理という人格は、あなたに接近するために偽った人格だと言ったはずです。今になって、甘い記憶に縋るおつもりですか?」真理は床に倒れている俺の前で立ち止まり、片膝をついて俺の顔を覗き込んだ。

「あなたは本当に、バカですね。あなたが認めようが認めまいが、それだけなんですよ、あなたの存在価値は!」真理は、俺の頬にそっと手を当て、憐みの目を俺に向けた。

「だからどうかお願いです、死なないでください。私は、あなたに生きていてほしいんですよ!」真理は焦りを隠せないといった表情で、俺の頬に手を当てた。

「なんだよ、そんなにお前に求められると、俺も緊張するな……」俺は真理が近づいてくれたことを神に深く感謝しながら、ゆっくりと自分に刺さったナイフを引き抜いていく。

「チッ、完全にどうかしてしまったか。」真理は俺がそうしている間も、俺の顔に注目している。

「でも安心してくれ。俺と一緒にいたいだけなら、俺がお前と生きる必要はない。

お前が、俺と一緒に死ねばいい。」俺は完全に引き抜いたナイフを逆手持ちで握りしめ、真理の胸に思い切り突き刺した。

「あっ……あああああああ…!」真理の顔はナイフに刺された痛みで苦悶の表情にみるみる変わっていった。

「俺はなあ、真理、本当に少しの間だけだったけど、お前を愛したんだ……

その思いは、確かに本物だった。絶望するよう設計された俺の人生の中で、唯一信じられるものだったんだ…!

世界でお前にだけは生きていてほしいって、絶望塗れの世界を一緒に生きていきたいって、本気でそう思っていたんだ……!

あるいはその思いすらも、嘘だってのか…?お前たちに、そう思考するよう設計されたってのか…?」

「はっ、はがっ、ごほっ。」真理は、逆流してきた血を俺の胸に吐き出してきた。

「……俺はいつも、お前に負かされっぱなしだったな。お前は俺なんかよりもよっぽど賢くて、真面目で、面倒見がよくて… 俺がお前に勝ったことなんて、一度だってなかった。

でも死ぬ前の最期のこのタイミングで、ようやくお前に一勝、できたよ……ははは」俺はさっき真理にそうされたように彼女の頬を、ナイフを持っていない方の手で撫でた。

「…………。」真理は喋らなくなってしまった。目から生気が抜け、俺にもたれかかってくる。

「おっと、意外と重たいな…… いや、相手が真理とはいえ、女性にこんなことを言っては失礼か。

俺は死ぬ前に見る光景がお前の顔で、よかった……

一緒に地獄に落ちるその相手がお前で、よかったよ……」俺は、人生で見つけたただ一つの希望の亡骸を抱きしめ、薄れゆく意識の中で、そっと自分から目を閉じた。


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